もういちど帆船の森へ 【第27話】 15時間の航海 / 田中稔彦

もういちど帆船の森へ 田中稔彦そうこうするうちに、うっすらと空が白みはじめて。夜が素早くやってくるのと比べると、朝はいつもだましだまし近づいてくる気がする。注意して見ていても気づかないくらいにごくごくゆっくりと、船の輪郭や、水平線が浮かび上がってきて、そしていつの間にかすっかりと朝に取り囲まれている。朝が来て、周りの景色がはっきりと
連載「もういちど帆船(はんせん)の森へ」とは  【毎月10日更新】
ずっとやりたいように生きてきたけど、いちばんやりたいことってなんだろう? 震災をきっかけにそんなことが気になって、40歳を過ぎてから遅すぎる自分探しに旅立った田中稔彦さん。いろんな人と出会い、いろんなことを学び、心の奥底に見つけたのは15年前に見たある景色でした。事業計画書の数字をひねくり回しても絶対に成立しないプロジェクトだけど、もういちど夢のために走り出す。誰もが自由に海を行くための帆船を手に入れて、帆船に乗ることが当たり前の未来を作る。この連載は帆船をめぐる現在進行形の無謀なチャレンジの航海日誌です。  

.
.

 第27話   15時間の航海 

                   TEXT :  田中 稔彦                      

.
.

 パスポートのスタンプ

.

これまで、十ヶ国ほど海外を訪れたことがある。
北米、ヨーロッパ、アジア。
いろんな国で、パスポートに入国や出国のスタンプを押してもらっている。

時々、パスポートを開いて旅の記憶をたどりながらスタンプを眺めたりするのだけど、日本のスタンプには他の多くの国と違っているところがある。

ぼくのパスポートに押されている日本の地名はいくつかあって。例えば、成田や羽田。これはもちろん飛行機で通り過ぎた場所。福岡、広島というスタンプもある。その街の空港からも国際線は出ているかもしれないけど、飛行機を使ったのではない。船で入出国した時に押されたスタンプ。だけど、見た目には何も変わらない。

外国のスタンプの多くは、どんな手段で国境を越えたかがわかるものが多い。
飛行機ならば飛行機のマーク。
バスならば車のマーク。
船ならば船のマーク。
(鉄道で国境を越えたことがないのだけど、そしたら列車のマークになるのかな?)

普通の旅人が日本から海外へ向かうとき、そのほとんどは飛行機経由。だから「そんな区別なんていらない」と言われれば、その通りかもしれない。だけど、あったほうが楽しいのにな。

ルーマニアからハンガリーへ移動した車マークのスタンプを見ると、日本から海外ツアーの劇団スタッフとして、東ヨーロッパのひたすら丘陵の続く景色の中をバスで走った時のことが思い出される。カナダから船で出国したスタンプを見ると、心震わせながら大西洋横断の旅に出た日の気持ちがよみがえる。そう思うと、日にちと場所だけの日本のスタンプは、シンプルだけどちょっと堅苦しくてそっけない気がする。

この夏、「厳原」というスタンプが増えた。
どこにある街かご存知だろうか?

九州から、100kmあまり北にある島。対馬の港町。

対馬には3万人あまりが住んでいる。厳原と比田勝という2つの港から韓国への定期航路が開かれている。対馬から高速船で釜山まで一時間あまり。年間35万人が海外から訪れる。

日本から定期船で渡ることができるのは3カ国。中国、ロシア、そして韓国。いくつかの航路があるなかで、もっとも海外に近く、そして多くの人が利用しているのがこの韓国と対馬を結ぶルートだ。

 

 

 

 

 航海の始まり

.

今年の夏、ぼくはこの厳原の街から、韓国の麗水(ヨス)という街まで、帆船で旅をした。

博多から厳原まで、高速船で2時間。先に島に到着していた船と合流。

ここで船を降りる人もいるし、このまま韓国へ向かう人もいる。韓国まで船に乗る人は、税関と出国審査。手続きしてもらえる時間が限られているので、夕方の16時にはパスポートに出国のスタンプが押されたが、出港予定は21時。

手続き上は日本から出国した状態で、ぼくたちはタクシーで温泉に出かけたり、スーパーで夕食の買物をしたり、モスバーガーでコーヒーを飲んだりした。

クルーみんなで、デッキで夕食を食べた。西の土地は、日が暮れるのが遅い。それでも、ゆるやかに陽は沈んでいく。食事をしている10人ほどの中には、まだ日本にいる人ともう日本にいない人が入り混じっている。

夕食の片付けをしているうちに、辺りはすっかり暗くなっていた。日が暮れてはじめてから夜がやってくるまでは、いつも素早い。出港の時間が近い。麗水までは15時間かかる予定。

東京で知り合って、今は対馬に住んでいる友達が、ひょっこりと見送りに来てくれた。会うのは3年ぶりだったし、前に会ったときはあるセミナーの受講生同士。出港までの短い時間、いろいろな話をした。

ぼくは船のデッキで。
彼女は岸壁で。

時間になって、舫い綱を外す。
岸壁で、彼女が手を振る。
まだすぐ近くで、はっきりと姿が見える。

陸と船をつなぐものがなくなって、あっけないほど簡単に、ぼくたちは名実ともに日本を離れた人になった。

 

 

 暗い夜と明るい夜

.

港を離れても、満月に近い月は大きくて。夜の海は、思っていたよりずっと明るかった。

港を出てしばらくして、ベッドに入った。15時間の航海なので、クルーは交替で休みをとる。南からのうねりで船は大きく揺れて、寝心地はとんでもなく悪い。

島の南の岬を回ると、進路は北に変わる。
それまで1時間くらいか。
それまでの辛抱だと、目を閉じる。

外洋を航海していると、ささいなことから自分の感覚が変わっていく。揺れる船のベッドで、あちこちでいろんなものが棚から落っこちたり、床をすべったりしているのに、不思議とすぐにる眠りに落ちる。そして、アラームなんてセットしてないのに、交替の15分前に前触れもなく目が覚める。

6時間眠ったので、時刻は午前3時。その間に、景色は変わっていた。

月は雲に隠されて、薄いモヤが漂っている。雨粒が頭や肩にパラパラと当たるので、ベッドに引き返してオイルスキンを引っ張り出した。目に入る周り全部に、イカ釣りと覚しき漁船が揺れている。誘魚灯の明かりがモヤに跳ね返って、辺りの空間をハレーションでぼんやりと満たしている。

暗い夜と明るい夜の境目は、いつも不思議で。
月がなければ、雲が出てれば、暗いわけではない。
降るような星空の下で航海していても、透明な闇の中を進んでいる気分になることもある。
もちろん、隣の人の表情まではっきりと見えるような明るい夜だってあった。

月、星、雲。
湿度、気温、水温。
霧にモヤ。
稲光に夜光虫まで。

自然のイタズラの組み合わせで、無数の夜が立ち現れる。
ぼくが夜の航海を好きな理由のひとつだ。

雨が強くなってずぶ濡れになったり、漁船の群れを横切るために舵を右左に切ってジグザクに進んだり。冷たい冬の雨は本当に辛いけれど、生暖かい夏の雨は濡れてもあまり気にならない。むしろ雨に打たれると、テンションがあがったりもする。

そうこうするうちに、うっすらと空が白みはじめて。夜が素早くやってくるのと比べると、朝はいつもだましだまし近づいてくる気がする。注意して見ていても気づかないくらいにごくごくゆっくりと、船の輪郭や、水平線が浮かび上がってきて、そしていつの間にかすっかりと朝に取り囲まれている。

朝が来て、周りの景色がはっきりと見えるとホッとする。
けれど一方で、どこか夜を惜しむような気持ちになる。
みんながそう感じるのかは知らない。
多分、ぼくが昼よりも夜にシンパシーを感じるからなんじゃないかな。

夜が明けると世界が違って見える

夜が明けると、世界が違って見える

 

 ただ航海を続けたい

.

南からの風と波に押されて、船は予定よりも早く麗水に近づいた。
そこそこ大きい港町なので、大きな船もたくさん行き交っている。
無線機から韓国語のやりとりが聞こえてくる。
キャプテンが、電話で陸とやりとりをしている。
入港が近づくと、陸の世界の時間が船の上にも流れ始める。

海に出るのは不思議なことで、当たり前の時間と特別な時間が一瞬で入れ替わる。
物語みたいな時間と現実の時間が、いつの間にかすり替わっている。

「国境」という言葉はずいぶんと強くて、しっかりしたものに聞こえる。
だけど、海から他の国に渡ってみると、印象が変わる。
飛行機で距離や空間をないものみたいにして、一瞬で場所が入れ替わるわけではなく。
はっきりと区切られた境界を意識させられる、車や鉄道の旅とも違って。

海はゆるやかで。
海は隔てない。
海は人と人を、土地と土地を繋ぐ。
だから、ぼくは海が好きなのかもしれない。

本当のことを言うと、ぼくはただ航海を続けていたいのだ。
いつまでも。

帆船に関わっていると、いろんなイベントに呼ばれたりする。帆船パレードやら、レセプションパーティーやら、入港式典やら。偉い人と握手したり、大勢の人に取り囲まれたりすることもある。だけど、そんなあれこれは、正直どうでもいい。

物語のような、魔法に包まれたような、そんな海の上でしか出会えない時間をただ味わいたいだけなんだけど。そんな望みをかなえることのほうが、実はとんでもなく難しいのだけど。

 

 

 

   .

(次回もお楽しみに。毎月10日更新予定です) =ー

 

田中稔彦さんへの感想をお待ちしています 編集部まで

 

  =ーー

連載バックナンバー

第1話 人生で最高の瞬間(2016.7.10)
第2話 偶然に出会った言葉(2016.8.10)
第3話 ぼくが「帆船」にこだわりつづける理由(2016.9.10)
第4話 マザーシップが競売にかけられてしまった(2016.10.10)
第5話 帆船の「ロマン」と「事業」(2016.11.10)
第6話 何もなくて、時間もかかる(2016.12.10)
第7話 夢見るのではなくて(2017.1.10)
第8話 クルーは何もしません!?(2017.2.10)
第9話 小さいから自由(2017.3.10)
第10話 就活に失敗しました(2017.4.10)
第11話 コミュ障のためのコミュニケーション修行(2017.5.10)
第12話 風が見えるようになるまでの話(2017.6.10)
第13話 海辺から海へ(2017.7.10)
第14話 船酔いと高山病(2017.8.10)
 
第15話 変わらなくてもいいじゃないか! (2017.9.10)  
第16話 冒険が多すぎる?(2017.10.10) 
第17話 凪の日には帆を畳んで(2017.11.10) 
第18話 人生なんて賭けなくても(2017.12.10) 
第19話 まだ吹いていない風(2018.1.10) 
第20話 ひとりではたどり着けない(2018.2.10) 
第21話 逃げ続けた(2018.3.10) 
第22話 海からやってくるもの(2018.4.10) 
第23話 ふたつの世界(2018.5.10) 
第24話 理解も共感もされなくても (2018.6.10) 
第25話 ロストテクノロジー(2018.7.10) 
第26話 あなたの帆船 (2018.8.10) 

 過去の田中稔彦さんの帆船エッセイ 

TOOLS 11  帆船のはじめ方(2014.5.12)
TOOLS 32  旅でその地を味わう方法(2015.2.09)
TOOLS 35  本当の暗闇を愉しむ方法(2015.3.09)
TOOLS 39 
 愛する伝統文化を守る方法(2015.4.11)
TOOLS 42  荒波でコンディションを保つ方法
(2015.5.15)
TOOLS 46  海の上でシャワーを浴びるには
(2015.6.15)
TOOLS 49  知ること体感すること(2015.7.13)
TOOLS 51  好きな仕事をキライにならない方法(2015.8.10)
 

田中稔彦さんが教授の帆船講義

自由大学の講義「みんなの航海術
帆船に乗ってまだ知らない個性とチームプレーを引き出そう

 

 


田中 稔彦

田中 稔彦

たなかとしひこ。舞台照明家。帆船乗り。29歳の時にたまたま出会った「帆船の体験航海」プログラム。寒い真冬の海を大阪から鹿児島まで自分たちで船を動かす一週間の航海を体験。海や船には全く興味がなかったのになぜか心に深く刺さり「あこがれ」「海星」という二隻の帆船にボランティアクルーとして関わるようになる。帆船での航海距離は地球を二周分に。 2000年には大西洋横断帆船レース、2002年には韓国帆船レースにも参加。 2001年、大西洋レースの航海記「帆船の森にたどりつくまで」で第五回海洋文学大賞を受賞。 2014年から「海図を背負った旅人」という名前で活動中。