いくら丁寧に鳥の飼い方を説明しても「これがはたして動物業界を変えることになるのかなぁ」という疑問を持つようになりました。鳥を販売するよりも大事なことがありそうだと。世の中にはオウムのトキちゃんのような鳥たちがたくさんいるだろう、そういう鳥たちを助けたい
INTERVIEW
「すべての飼い鳥たちが幸せになる日のために」 – 情熱を一生の仕事にしていく方法 –
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今回のPEOPLEインタビューに登場していただくのは、鳥との暮らしに関する著書を多数出版し、鳥を愛する気持ちは日本一として知られる松本壯志さん。「これだ!という情熱を見つけ、それを一生の仕事にしていく方法」というテーマでお送りします。「自分の好きなこと」「得意なこと」「ビジネス」「社会貢献」すべてを混ぜ合わせて、「情熱を注げる仕事」をつくり出すためには、どうしたらいいのでしょうか。「鳥の保護活動家」と「半導体企業の経営者」の2つの顔を持ち、それぞれ長年第一線で活躍し続けている松本さんの生き方からは、大切なヒントが見つかるはずです。
聞き手:深井次郎 (オーディナリー発行人 / 文筆家)
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【お話してくれた人】
松本 壯志(まつもと そうし)さん
1955年、福岡県筑豊生まれ。20歳ときに移動動物園で全国を行脚。その後、民間のこども動物園で飼育係を経て動物プロダクション勤務。しばらく動物関係から離れ、1985年、半導体関連の(株)ロムテックを創業(現在、代表取締役会長。創業30年以上になり、約70名の従業員を抱える)。ロムテックの「大企業にも負けない顧客満足経営」は、『顧客対応力経営』(桐山秀樹著)でまるごと一冊かけて分析されているほど、その経営手腕には定評がある。1996年、池袋にペットショップ「CAP!」をオープン。2000年、飼い鳥のレスキュー活動をおこなう団体、TSUBASA(ツバサ)設立。以来長年、飼い鳥の保護と里親探しの活動を牽引し『鳥爺』(とりじい)の愛称で、多くの愛鳥家から親しまれている。2016年より「バードライフアドバイザー」の認定資格講座を全国で開催している。自他共に認める「日本一、鳥を愛する男」。著書に『鳥のきもち』『鳥のはなし』『鳥と私の幸せの物語』(以上WAVE出版) 『インコ – 長く、楽しく飼うための本』 (池田書店)などがあり監修本も多数。アマゾンレビューでは、「泣けた」「心が温まった」というコメントが多く集まっている。
NPO法人 TSUBASA http://www.tsubasa.ne.jp
鳥爺(とりじぃ)ブログ http://ameblo.jp/soushi914
半導体の(株)ロムテック http://www.romtec.co.jp
PEOPLE(ピープル)とは、オーディナリー周辺の「好きを活かして自分らしく生きる人」たち。彼らがどのようにやりたいことを見つけていったのか。今の自分を形づくった「人生の転機」について、深井次郎(オーディナリー発行人)と語るコーナーです。 ー
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「日本の動物業界を変えるために」
身寄りのない鳥の保護活動を始めた鳥爺(とりじい)の話
ペットのいる生活は、わたしたちの心を明るく豊かにしてくれる。しかしその裏側で、捨てられたり売れ残ったりして処分されてしまうペットの問題など、痛ましい現実も存在する。
世界に目を向けると、「殺処分ゼロ」の国ドイツの場合は、ペットショップがない。お店の代わりに「ティアハイム」と呼ばれる大きな「動物の保護センター」があるのだ。ペットを迎える時は、ティアハイムからと決まっている。もし、引越しなど事情があって飼えなくなった飼い主は、ティアハイムに犬猫をつれていき里親を探さなければならない。こういう先進的な仕組みが、100年以上も前から機能し定着している。
日本にも、ようやく20年前、鳥に関する保護センター「TSUBASA」(ツバサ)が設立された。創立者である松本さんと深井の出会いは、2010年。深井が立ち上げから関わる自由大学での講義「自分の本をつくる方法」(第4期)に松本さんが参加されたことから始まる。その後、松本さんは、次々と鳥に関する本を出版していく。
深井次郎: 久しぶりにお会いできて嬉しいです。講義で出会った7年前、すでに松本さんは鳥業界の中では知る人ぞ知る存在でしたが、ぼくは鳥に関して疎くて。松本さんからの話で驚いたのは、飼い主が鳥を手放してしまう理由です。衝動買いや引越しなどの事情はよくあると想像できたのですが、鳥って寿命が意外と長いのですね。大きなオウムなどになると50年も80年も生きる種類もいて飼い主よりも長生きしてしまう。そうやって飼い主に悪気がなくても、身寄りのない鳥がどうしても出てきてしまう、と。
「自分のペットの寿命が何年くらいか」さえ知らないで飼ってしまう人も多いのですね。人間に正しい知識がないと、動物たちに悲しい思いをさせてしまいます。そうならないために、松本さんには良い本を出版して、より多くの人に知ってほしいと思いました。その後、着実に出版されて、啓蒙活動が進んでいるのは、うれしいです。
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松本壯志: ありがとうございます、出版のアドバイス、本当にお世話になりました。講義での深井さんのご指摘通りに、3案あったうちの2案を出版社に持ち込みました。やはり講義でボツになった案は、省いて正解でしたね(笑)。私が影響を受けた本『捨て犬を救う街』の版元にメールを送りましたら、社長が気に入ってくださいまして、初めての出版が決まりました。
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その後、次々と出版。鳥との幸せな暮らし方を綴った本たちは、「鳥の視点で書かれたユニークな小説だ」「涙なしには読めない」などと評判になっている。鳥好き以外の方でも物語として楽しめる、心温まる本だ。
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深井: 今日はじめにお聞きしたいのが、「好きを活かして自分らしく生きよう」という価値観をオーディナリーは提案しているのですが、これに関してどう思いますか?
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松本: 素晴らしいと思いますね。私自身も、好きなことをやって生きてきたし、社内のメンバーにもそれを勧めています。(半導体の)ロムテックでも「好きを仕事にしてほしい」と言っていて、社内に「パラレルキャリア研究所」をつくったほど。複業も賛成なんですね。自分を押し殺して生活のため… とかではなく、本当にやりたいことをやって生きてほしいと思います。
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深井: 時代的にも、ひとつの会社に縛られないフリーランスも増え、パラレルキャリアなど、働き方も多様になってきましたね。今日は、鳥爺こと松本さんが「これだ!という情熱」を見つけるまで、つまり現在の「鳥の保護活動」に行き着くまでの人生の転機についてお聞きできればと思っています。
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動物が友達だった子供時代
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物心ついた時から、松本さんのそばにはいつも動物がいた。生まれは、福岡県の炭鉱の町。両親は「炭鉱住宅」に住み、炭鉱で働いていた。すでに炭鉱も寂れてきていた1960年代、食べものも潤沢にないので、地域のどこの家庭も食用の家畜を飼っていた。
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松本:うちではニワトリ、うさぎ、番犬、がいて、友達のように接していました。ニワトリを育てていたのは、正月のご馳走としてだったんですね。もしかして、うさぎも食べていたのかな、いや、これは記憶にないですね。
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6歳のある日、夏祭りの縁日で父親にねだって、小さな可愛いヒヨコを買ってもらった。このニワトリが自分の意志で初めて飼った動物。いつも一緒に過ごし、心が通じあうまでになった。
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松本:子供の頃、ぼくは背が小さく体が弱かったこともあり、近所でいじめられてたのですが、そのニワトリがいじめっこたちに向かっていくんですね。大きなニワトリの種類で、小学生の背丈くらいもあるのですが、いつもぼくを助けてくれました。
でもある正月の朝、自分のニワトリがいないわけですよ。見たら食卓に並んでて。それが一番のショックでした。泣きながら、食べましたね。ショックだったけど、美味しかった、ということも覚えています。
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両親に教わったのは「生きていくために、命はありがたくいただきなさい」ということ。かわいそうだから殺生できない、ではなく、動物を殺生した場合も、感謝して大切にいただきなさい、ということを学んだ。幼いながらも複雑な感情を経験し、鳥への思いが特別なものになっていったこともあるかもしれない。
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20歳で経験する「動物業界での初めての挫折」
動物園の裏側にショックを受ける
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福岡から上京し、電子専門学校に通うことになった。将来は、動物を扱う仕事に就きたかったが、当時そのような学校も仕事もほとんど見当たらなかった。
専門学校時代に、アルバイトの募集で「移動動物園のスタッフ」という珍しい仕事を見つけ、運良く受かることができた。キャラバン隊で、全国の幼稚園に赴いて、子どもたちに動物とスキンシップの場をつくる。今でいう「ふれあい動物園」のはしりのような会社で働くことができた。
そんなある時、TBSのテレビ番組から会社にオファーがある。「動物のお兄さんを出演させたいが、誰かいい人はいないか」との依頼。会社から30人ほどが面接に行ったところ、松本さんが選ばれる。
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松本:全国放送ですし、こんな機会は滅多にありません。きっと田舎の両親も喜んでくれると思い、出演しました。
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番組のない日は、当時渋谷の東急デパートの屋上にあった「ちびっこ動物園」で働いていた。ここは今から考えても画期的で、いろんな動物が放し飼いになっていて自由に触れ合える日本でおそらく唯一の施設だった。
当時、4人のメンバー(上司、獣医2名、学生バイトの松本さん)で運営を担当していたが、たった1年もたたずに自分以外の全員が辞め入れ替わってしまう職場環境だった。なぜ、辞めてしまうのか。そこには精神的に耐えられない現実があった。
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松本: 動物が大きく成長すると、子どもと触れ合わせるのは危なくなってきますよね。繁殖が終わってしばらくすると移動されるので、最初は「会社の方かどこかに行ったのかな」と思っていたんです。
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しかし、1年経ってわかったのは、使えなくなった「大人の動物」は殺処分されていた。その事実を知って抗議する。社内の上の人たちは「動物業界、どこもこんなものだよ」「動物園で働きたいのであれば、殺処分の仕方ぐらい覚えないといけないよ」と教えこもうとした。
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松本: それに断固抵抗しまして。可愛がった動物たちをよくそうできるな、ぼくと感覚が全然ちがう。というわけで、辞めてしまいました。後から他の動物園勤務の人たちに聞いても「どこもそうだ」と。だとしたら、もう動物園には勤めたくない、となってしまいました。
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動物タレント事務所に移籍。人気テレビ番組で「動物のお兄さん」として活躍するが2度目の挫折
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一度目の挫折を経てもまだ「動物の仕事」に未練があった。「動物園」以外に仕事はないかと電話帳を調べると、動物タレント事務所を発見する。面接に行くと「経験者が欲しかった」と即採用。
それは、テレビに出演する動物たちを、収録現場に連れていく仕事だった。連れて行くだけにとどまらず、自らも出演。大人気番組『8時だョ!全員集合』『ザ・ベストテン』などに「動物のお兄さん」として毎週レギュラー出演し、話題のコーナーになる。
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松本:しかし、その裏では問題もありました。生放送のため、狭い場所で長時間待たされる。これは、動物たちにとってストレスフルで、健康的な環境ではないんです。そのことを自社の社長にさんざん改善要求をしたのですが、通りませんでした。
それに、人間でも演技するのは難しいのに、動物が上手に言われた通りできるわけないんですよ。無理な要求で、動物に相当な負担を強いてしまい、それがかわいそうで…。
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結局、動物プロダクションも辞めてしまう。人間の都合で動物に負担を強いる日々は、我慢できるものではなかった。
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喫茶店のマスターも長くは続かず
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22歳。それでもやっぱり動物の仕事に未練があった。ある日、飯田橋をとぼとぼ歩いていたら「鷹」と書かれた看板の個人経営の小さな喫茶店が目に入った。鳥に縁を感じてお店に入り、聞いてみると即採用。「スタッフがいない」ということで、未経験なのにいきなりマスターになる。朝のモーニングから昼は喫茶店、夜はスナックと、8時から24時まで働く。しかし、この喫茶店も長くは続かず、辞めることになる。
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松本:オーナーであるママに抗議をしてしまいました。理由は、最初の約束と違ってきたからです。女の子を一人雇ったのですが、お客さんに肩を組まれたり、そういうことはさせないという約束でした。しかしだんだんとママは「お客さんが喜ぶならそういうことも必要だろう」と。嫌がっていた女の子を守れませんでした。
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動物の仕事を諦め「なりたくなかった」サラリーマンになる
日立のグループ会社の半導体技術者に
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「動物の仕事に」と試みてきたが、挫折の繰り返し。もうきっぱり諦めようと決意し、「一回、普通のサラリーマンをやろう」と思った。一度も経験せずに、食わず嫌いは良くないと考えたのだ。どんなに頑張ってもうまくいかない道は、いったん棚にあげておき、違う道を試してみることも必要なのかもしれない。
結果、日立の子会社に就職することができた。電気系の仕事を選んだ理由は?
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松本: 適当に選びました(笑)。一応、電子工学の専門学校で学んだので履歴書的に通りやすいかなと思って。どこでもいいから、サラリーマンをやろうと思っていました。
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もともと「サラリーマンにはなりたくない」と思っていたのはなぜ?
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松本: 自分が大学も行けなかったので、学歴コンプレックスもあるかもしれないですね。会社で格差をつけられたらいやだなと。それに両親が職人みたいな人間でしたから、手に職をつけた人間になりたかったんですね。テレビドラマなどで観るいわゆる「スーツでデスクワークをするサラリーマン」は堅苦しくてどうもかっこいいイメージがなかったんです。今思えば、食わず嫌いなんですけど。レールが決まってて、それに乗っかる人生もどうかな、とか敬遠してました。自立してやっていくのがいいのかなと。両親ともに自営業で、決して豊かではありませんでしたが、一人でやっていて充実してそうでしたので。
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実際にサラリーマンをやってみて、どうだったのだろう。
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松本: デスクワークはこんなに楽なのか! と思いました。冷暖房のきいた部屋で、時間がきたら終わるわけじゃないですか。それまでの動物の仕事は屋外の炎天下でやってましたし、残業代もつかないし。これまでのハードワークと比べたら、ぜんぜん楽。
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楽ではあった。けれど、心は憂鬱だった。
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松本: やはり学歴で格差をつけられた感じがあって。一生懸命やって出世したいんですけど、高卒で専門学校中退だと、こういう扱いになるのかなぁ、と。大卒との格差を乗り越えて、這い上がれないかなと挑みましたが、難しかったですね。
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与えられた仕事にも、いまいち誇りが持てなかった。「半導体の書き込み」という仕事は、例えるなら「テープのダビング」のような単純作業の繰り返し。スピードと正確性は必要だが、他に特別な知識もセンスもコミュニケーション力もいらない作業だった。
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松本: 高卒だから、設計とか頭を使う仕事はやらせてもらえなかったのです。社内では大卒と高卒が明確に分けられていました。そういう中で「書き込みなんて、誰でもできる単純作業ではないか」 というコンプレックスを抱えるようになりました。
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くさらずに、置かれた場所で精一杯できることをする
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しかし、卑屈になりはしたが、結果を出せば学歴もひっくり返せると信じ、なにくそと実績もつくっていった。仕事は単調だが、ものすごく忙しい。はじめは松本さん一人でやってた仕事だったが、パートさんを育てて規模を拡大し、会社の売り上げに大きく貢献した。入社時には100人もいなかった会社が、6年間の間に2000人にまで増えた。
会社が大きくなる上で、同僚はみんな大きな部署へ異動していく。松本さんだけは異動なく、小さな分室で長くやってたが、いよいよ「本社に来なさい」と上から声をかけられた。
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松本: 大きな部署にいくのは気が進みませんでした。今までは小さな部署だったから、自分の判断で、資材を調達できたり自由がありました。でも大組織になると「資材部を通しなさい」とか面倒な手続きが増えます。お客さんからの「明日にでも欲しい」という要望に応えるには、稟議を回している時間などないのに…。でも会社のルールだから、仕方ありません。
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「小さな組織ならどこでもいい」と思っていた矢先に、「長野県の松本市で、ゼロからひとりで事務所を立ち上げる」という話が降ってきた。
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松本:すかさず自分が手を上げたわけです。ひとりで自由な決裁できる小さな組織が好きなので。誰かの許可をもらうハンコの数が少なければ、スピード感を持って仕事が進みますよね。
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申し出に、社長は笑ってオーケーしてくれた。「そうか、松本(市)に松本が行く… それはいいね!」
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長野県松本市、たった一人の小さな支店へ。
「儲けのことしか考えない」動物業界への不信感が再燃する
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ところで、 8年間のサラリーマン時代、あんなに好きだった動物とは接していたのだろうか。
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松本: 一切、頭からありませんでした。動物に関しては、きっぱりあきらめたつもりでいましたから。でも、松本市に異動になった時に、事務所として一軒家を借りることができたのです。環境が良かったので、そこで犬を飼いたいと思うようになりました。最初はビーグル犬を飼いたかったのですが、ペットショップを回ってもなかなかいなくて。
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お店を回ってる中である時、走り回ってて可愛いが、どこかかわいそうな感じがする犬に出会った。ドーベルマンミニチュアピンシャーという犬種だった。
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松本: その犬がなんと買ってきたその日に、ちょっとした段差につまづいて、ポキっと骨が折れてしまったのです。急いで動物病院に連れて行ったら「完全な栄養失調です」と。しかも体にダニだらけ。買ったペットショップに事情を話しに行ったら、「買った後に言われても困る。そんなのは関係ない!」「うちではダニはいなかった」の一点張りで、帰されてしまいました。
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ここから、ペットショップに対する不信感が生まれてきた。「やっぱり動物業界はおかしい。変えないとダメだな」また動物への思いが再燃し始めた。
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松本: ぼくが勤めた「動物園」や「動物プロダクション」だけではなく、「ペットショップ」も同じだったのです。儲けのことしか考えていない。「これは、業界全体がおかしいんだ」とわかったわけです。
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29歳、独立起業。会社を辞めるタイミングをどう決めたか。
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辞めるきっかけは、担当していた新規事業の撤退だった。親会社である日立と大きな取引先のE社の意見が合わず、撤退するしかなくなってしまった。
再び大組織に戻るのは嫌だったので、「この区切りに辞めて何かで独立しよう」と、社長に話しに行く。2000人規模の会社。社長は雲の上の存在だったが、それまでも稟議書廃止の件など、たびたび直談判していたので、気に入ってもらっていた。
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松本: 「では辞めます」そう社長に話すと、「辞めて何するんだ?」と。自分も何していいかわからないわけですよ。その時になんとなく「松本市にはタウン誌がないから、自分がつくろうかな」という気持ちがありました。ダウン誌でメディアをやれば、いろんな情報が集まるので、そこからまたやりたい仕事が見つかるのではないか。次の道を見つけるきっかけになればいいなと。
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しかし社長は、こう返した。「独立してタウン誌をつくるのはいいと思うが、半年間だけは、今までの仕事を手伝ってくれないか」と頼まれた。急な話では既存のお客さんも困るので、完全に事業を終了するまでに、半年間は猶予をもうけなければならない。そういうわけで、自分の新会社を設立し、既存の事業を引き継ぐ形で独立する。社長も会社設立の面倒を見てくれた。「社名は俺に考えさせて」ということで「有限会社クリエイティブ」(その後ロムテックに社名変更)が始まった。
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起業は成り行き。準備なしのスタートでひとまず「前職の事業」を
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独立してから感じた変化。それは、半年間仕事をしていくうちに、嫌いだった書き込みの仕事が好きになってきたことだった。
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松本: やってる作業自体は前と同じなのに、不思議だな、と。でも独立後は、自分もパートさんたちも、楽しそうにイキイキやってるわけですね。「そうか、自分はこの仕事自体が嫌いなんじゃなくて、大組織が嫌いなんだ」と気づきました。環境に大きく左右される自分もどうかと思いますが、働く環境が合わないと、仕事内容までつまらなくなることがあるんですね。
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「単調ではあるけど、嫌いではない」ということが、半導体の仕事を始めて8年目にようやくわかった。いま会社員で「仕事がつまらない」と悩んでいる人も、もしかしたら部署が変わるなど環境が変われば辞めずに済むかもしれない。同じ作業でも見方や切り口次第で、自分に合ったものに変えられる可能性はある。
独立に向けて特に準備せず飛び出した。しかし、最初の半年間は下請けという形で仕事があったので、収益には困らず助かった。
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松本: でも、半年後にゼロになるのはわかってましたから、不安はありました。プツッとなくなるので、その先どうしようと。
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前職の日立でのお客さんもいたが、それはかつての部下たちが担当している。横取りするわけにはいかない。お客さんからは「独立したなら松本さんにやってほしい」と頼まれたが「それは立場上できない」と仁義を通した。
そういうわけで、収益がゼロになる前に、どうにか新規顧客の開拓をする必要に迫られたのだった。
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初めてのお客さんをどのようにつくったか
「新規営業は一番ハードルの高い雑誌社へ」
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初めにやったこと、それは雑誌「日経エレクトロニクス」の編集部に飛び込んだ。この雑誌はエレクトロニクス分野の中では学者や研究者が読む、非常に知識レベルの高い媒体ということで知られている。
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松本: ぼくも前からこの雑誌は、勉強のために定期購読していました。ただ、読んでもちんぷんかんぷんでまったくわからない(笑)
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「日経エレクトロニクス」の受付に営業に行った。名前と要件を告げると、副編集長が降りてきたが、門前払い。最新号をポンと置いて「これ読んでおいてください」。つまり、これだけレベルの高い話があなたにわかりますか? というわけだった。
「いえ、本は持ってます。5分でいいのでお話聞いていただけますか」と食い下がり、「実はぼく、こういう書き込みの仕事してます」という話をはじめると、なんと3分後には相手の目が輝き出す。
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松本: 「それは面白い! 取材に行かせて欲しい」と言われまして。自分から営業に行っておきながらおかしい話ですけど、こちらが驚きました。やってるほうからしたら「こんな単調な仕事、何が面白いのか」と思ってたくらいなのですが、3ページ分フルカラーで載せていただいて。
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もし広告だったら1ページ200万円かかる媒体だという。それが3ページ分も。600万円相当分と、しかも原稿料まで払ってくれた。それが松本さんにとって初めて記事を書いた経験となる。
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松本: ほとんど赤で直されましたけど(笑)、執筆できたのはすごく嬉しかったですね。その記事を見た企業さんから問い合わせがあり、依頼が来はじめるようになりました。これがロムテックにとって一番大きな転機でしょうね。
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飛び込み1社目から結果が出るなんて、なかなかない。よほどその技術が画期的で珍しかったのか。
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松本: 中にいた時は、仕事の価値に気づかなかったんです。自分がした発明でもなんでもなく、前の会社でやってた仕事の延長線です。それをぼくが外の世界にお知らせしただけで、ニュースになってしまいました。前職の方々には、いまだに足を向けて寝れないです。
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なぜ営業先に「日経エレクトロニクス」を選んだのだろう。
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松本: とにかく「一番すごいところに行こう」と思ったのです。それでダメだったら次に行こう、と。上からだったら断られても「しょうがないよね」とあきらめもつきますよね。でも下から行くのでは、断わられたらもう先がない。そんな考えで、ダメもとで上から行ったら、1社目で決まってしまった。運がいいとしか言えません。その後も3年にわたって載せていただいて。
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業界の「一番」に認められると、大きな信用になる。その後は、掲載記事を持って営業に行くだけで、次々と新規取引が決まっていった。
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松本: 自分たちでは普通だと思ってたものが、業界は誰も知らなかった。最先端をいく雑誌社の人ですら、「末端の現場でこんなことをやってるんだ」ということを知らなかったんですね。それを上流の人たちにちゃんと知らせないといけないという思いがありました。こういう経験がありますので、今でも飛び込み営業にくる初々しい人は応援したくなりますよね。
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30歳で大病発覚。「太く短く、やりたいことをやって生きよう」と決める
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ちょうどで30歳を迎えたあたりで、B型肝炎が発覚する。「このまま行くと50歳で肝硬変になり、60歳で肝臓癌になって60代で亡くなりますね」医者にはっきり告げられた。
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松本: 人生には2つの道があります。「細く長く」と「太く短く」。どうせ治らないのであれば、いっそ後者をとりたいと思いました。悔いのない人生を送りたいなと。
実際に、49歳の頃、余命宣告を受けました。「残念ながら、もう助かりません」と。それでもなんとか肝臓移植をして助かりました。当時まだ40代なのに死ぬなんて、予定よりも20年早いわけです。やっぱりこれは太く短く生きたのが原因(笑)。連日連夜ハードワークをして無理して徹夜したり、医者の言うことを聞いてませんでした。
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命を削ったハードワークのおかげもあり、ロムテックは60名ほどの規模になり、事業を軌道に乗せることができた。
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41歳、ペットショップ「CAP!」を開店するも苦戦
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半導体の会社が軌道に乗ったことでようやく、ペットッショップを開店する。動物を仕事にすることができた。念願叶って、幸せだっただろうか。
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松本: それが、そううまくもいきませんでした。
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当時、ロムテックの他にも仕事があった。松本市にある妻の実家の会社を再生させるミッションがあり、松本と東京を往復生活していた。ペットショップは、その松本にいる会社のスタッフが犬猫が好きで、世話をしていたのが始まり。そこで生まれた子どもたちを東京で丁寧に販売しようということでスタートした。しかし、実際にペットショップをやってみると、経営は難しかった。
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松本: 私が懇意にしていた動物病院の指導で「子犬たちにはワクチンを生後100日間で2回打たないと店に出してはいけない」と言われていました。100日も経つと子犬はすでに大きくなっているので、全然売れないのです。なので、現実はルールを守ってないお店も多くあるのですが、ぼくらはそれはしたくなかった。
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その後、うさぎや珍獣も扱ってみたが、オープンから9ヶ月後には閑古鳥が鳴く。店舗の大家さんに「もう潰れますので、出ます」と撤退宣言をすることになる。
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松本: 閉店までの残り3ヶ月、しかたなく掃除などをしながら、販売目的ではない自分の鳥たちと遊んでいたんです。それをガラス越しに見た通行人たちが「何だあれは、鳥が放し飼いになってる!」と興味を持ってくれました。
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当時は2000年ごろ。インターネットが普及し始めたこともあり、口コミは急速に広がっていった。
「鳥が手にとまってる! 」
「店内に入ったら、肩にとまらせてくれた」
「店長が鳥のことにやたら詳しい」
お店は閉めるつもりだった。売るつもりはまったくないのに、週末になると、店内に入りきれないくらいお客さんが押し寄せるようになってきた。
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松本: 鳥たちが、ぼくを助けてくれたと思っています。鳥ならいけるかもしれない。それでお店を閉めずに続けることができました。
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当時、犬猫を買いに来る人は、松本さんのアドバイスを聞いてくれなかった。でも鳥を求める人たちは、不思議とちゃんと聞く耳を持ってくれる。その手ごたえがあり、鳥専門に特化するようになった。
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松本:これなら鳥から動物業界を変えられるかもしれない。そんな思いを強くしました。
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それまでは、鳥好きにこんなに女性が多いとは思わなかった。自分みたいな男性ばかりかと思ったら、お客さんの9割以上は女性で驚いた。
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松本: 性質として、「犬は従順」「猫は奔放」「鳥は対等」というのがあると感じています。上下関係があるのが男性的、対等なのは女性的なのかな。
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一羽のかわいそうなオウム、トキちゃんと出会い
鳥(生体)の販売をやめる決断をする
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犬猫をやめ、鳥専門のペットショップとして「CAP!」を運営していたが、大きな転機が訪れる。それは一羽のかわいそうなオウム、トキちゃんとの出会いだった。場所は、業者だけが入れるペットのオークション会場。松本さんも業界の調査として、2年に1回くらい足を運んでいた。
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松本:たまにはこういうところにも調査に入らなければと、出入りしていたのですが、全身の羽が抜け落ちてしまってるみすぼらしいオウムがいたんです。オークションでベルトコンベアーで流れてくる。やはり、欲しい人は誰もいませんでした。一周して戻ってきた時に「この子どうなるんですか?」と業者さんに聞いたら「もう仕方ない、殺処分だね」と言われました。でも、なぜかそのオウムがぼくをじっと見てるわけですよ。
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しばらくオウムと二人きりになって考えた。その子に「うちにくる?」と聞くと、偶然かもしれないが、コクッと頭を下げた。それで決めた。「ぼくが飼って元気にさせます」業者に伝えると、「やめときな。これだけ悪くなってたら回復させるのは無理だよ。プロの自分らでもできなかったんだから」。無理だと反対されたが、それでも買うことに決めた。
松本さんが会計を済ませようと長い列に並んでいる間、彼らが持ち帰るための鳥カゴにオウムを移動させようとしていた。その間30分、会計から戻ってきてもまだオウムと格闘している。
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松本: 彼らは、鳥カゴの入れ替えもまともにできないのです。かわいそうに鳥を竹でつついたりしてる。これを見た瞬間に「ああ、こりゃダメだ…」と。ベテランだと思ってたこの業者の人たちは、まったく素人レベルの知識だったのです。
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「やめてください、ぼくやりますから!」とても見ていられなくて止めると「なんだお前、素人だろう」。カチンときた心を抑えて「はい、素人です。ただ、ぼくだったら1分で入れ替えますから」。「ふざけるな、素人にできるもんか!」と怒られる中で、ちゃんと1分もかからず入れ替えに成功させる。
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松本: 基本を知っていれば、簡単なんです。古いカゴを下に、新しいカゴを上にするだけ。これでスッと自分で移動します。「鳥は上に行く」という習性すら知らなかったんです、その人たちは。「こんな環境にいるより、うちにくれば幸せになれるかもしれない」と思いました。
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帰り道。お店のスタッフに「大変なオウムを引き取った」と電話して、帰るとみんな可愛がってくれた。見た目はみすぼらしいが、性格はとってもいい子。お店の中でも隠さず、あえてお客さんに見せることにした。
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松本: やっぱり、お客さんは口々に「かわいそう」と言いますね。羽が抜けている鳥など、ペットショップで見たことありませんから。なのでその都度、ぼくらが説明するんです。なぜこのトキちゃんに羽がなくなってしまったのか。それはストレスと偏った食事が原因です。ストレスのかかる環境では、自分で羽を抜いてしまうことがあります。それに市販されている鳥のエサの多くが高カロリー高脂肪で、人間でいえば毎食天ぷらを食べてるようなもの。これもよくない。あとは、発情して、羽を抜いてしまうこともあります。
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正しい鳥の知識を、お客さんにしっかり伝える。誰でも自分の可愛いペットには長く元気でいて欲しいもの。きちんと飼い方を教えると喜んでもらえた。
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松本: ただ、いくらお客さんに丁寧に飼い方を説明しても「これがはたして動物業界を変えることになるのかなぁ」という疑問を持つようになりました。鳥を販売するよりも大事なことがありそうだと。世の中には、オウムのトキちゃんのような鳥たちがたくさんいるだろう、そういう鳥たちを助けたいし、「これ以上、不幸な鳥たちをつくってはいけない」と思いました。
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考えた結果、生体の販売をやめる決断をする。鳥を売らない鳥グッズ専門店である。「正しい鳥の飼い方」を啓蒙し、販売するのは「鳥カゴ」や「健康に良いエサ」などの飼育用品のみ。そんなショップとした。
そして同時期に、飼い鳥のレスキュー団体 TSUBASA(ツバサ)を始めることになる。
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45歳、飼い鳥のレスキュー団体 TSUBASA 設立
里親事業のモデルは、世界の成功事例から
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何をしたら動物業界を変えられるのか、不幸な飼い鳥たちを救うためにはどうしたらいいのか。世界の事例をいろいろ調べていたところ、アメリカ最大の「鳥の里親事業」であるガブリエル財団の存在を知った。
実際にシンポジウムに参加すると、世界中から鳥の専門家たちが集まって真剣にディスカッションしている。期間は3日間ほど。主催者の女性ジェリーに挨拶して「こういう理由で日本から来ました」と話したところ、「うちに見学に来ない?」と誘ってもらえた。ラスベガスの会場から寒いデンバーまで行き、彼女の施設を見せてもらいながらいろんな話をし、とても感化された。里親事業の本当の意義をしっかり話し合って、帰国後すぐ1ヶ月後にはTSUBASAを設立した。
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松本: 相当影響を受けてたと思います。設立してその4ヶ月後にはもう「TSUBASAシンポジウム」の第1回目を始めましたので。運営の仕組みや資料も使わせてもらったので、先行のモデルがあるのは助かりますね。もちろん日本と合わないところもあるので、アレンジはしました。
それでぼくと妻とCAP!の店長で千葉の田舎に引っ越しまして、鳥を保護するための敷地を借りて「コンパニオン・アニマル・キングダム」を開きました。元手は自分の貯金がメインで、ロムテックからもメセナ事業(企業が資金を提供して、文化・芸術活動を支援する)という位置付けで。足りない分は銀行からお金を借りました。
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「TSUBASA」をスタートした時に、ロムテック社員の反応はどんなものだったのか。
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松本:「鳥のため、社会のため」ということでロムテック幹部は理解してくれてましたけど、多くの社員はよく分からなかったと思います。「何だか社長が道楽で好きなこと始めたな」と思ってたかもしれません。場所も違いますし、見えないから気にならないで良かったのだと思います。
ときどき、ロムテックの社員にTSUBASAのイベントの手伝いなどに来てもらったりしましたけど、「すごいことやってるな」というのは感じてくれたと思います。「女性がどんどん集まってくる。なんだこれは」と。
今はロムテックのメセナ事業という立場から独立させて、NPO法人として運営しています。新聞とかテレビとかメディアによく出てるので、「TSUBASAすごいですね」と。今頃になって、ロムテックの人たちが、「手放すんじゃなかった」と冗談を言っています(笑)。TSUBASA単体でもしっかり収益が上がるようになってきましたので。
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半導体ビジネスと鳥の保護センター
「2足のわらじ」の思わぬ効用
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鳥の活動が、ロムテックの採用に貢献した。そんな思わぬ相乗効果があった。ロムテックはBtoB(法人向けのビジネス)。業界内で存在感があっても、世間一般への認知がないため、優秀な人材を採用することはそう簡単ではない。
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松本: TSUBASAは、おかげさまでメディアに出たり知名度が上がりました。それに伴って「TSUBASAに入りたい」と若者からいっぱい応募がきます。全員は採用できないので、「空きが出たらTSUBASAで採用する」ということで、いったんロムテックで働いてもらうことがありました。そうしたら、彼らがロムテックで活躍するんです。「空きが出たよ」というと「このままロムテックでいいです」と。「こっちからTSUBASAをサポートしますから」という例がけっこうありました。こういう相乗効果は、ありがたかったです。TSUBASAがあったおかげで、ロムテックに優秀な社員が多く採用できたのです。
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一見関係ない事業同士でも、相乗効果を生み出すこと。その他にも「松本流パラレルキャリアのコツ」はあるのだろうか。二足のわらじでは、両方おろそかになってしまう危険もあるが。
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松本: コツとしては、2つ同時に立ち上げないことでしょうか。立ち上げは、ひとつに集中しないと立ち上がりません。両方同時に立ち上げようとすると、両方うまくいかないことがある。なので、まずひとつに集中します。
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ひとつを軌道に乗せ、ある程度の余裕をつくってから2つ目に取りかかる。そうやって増やしていく。ロムテックの場合は、組織化して自分の代わりにトップを任せられる人をつくってから、次のミッションに移行した。良い効果としては、ナンバー2に潔く任せて自分が抜けることで、「下が育つ」ということだ。
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松本: 後継を育てる上では、多少不安あっても任せるのが一番ですね。ただ、立ち上げは一番思いが強い自分がやらないといけません。誰かに立ち上げさせることは難しいと思います。突撃隊長は社長がやる。そして安定したところは誰かに任せていく。今の時代は遠隔でも十分アドバイスできますからね。
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ミッションに向かうための強い組織のつくり方
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組織が嫌いだったのに、組織をつくった理由はなんだろう。「フリーランスで一人でやる」という選択肢は考えなかったのだろうか。
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松本: 独立当初、もし半導体の仕事が一人でできたなら、今でもずっと一人でやっていたかもしれません。一人が好きでしたし。でも現実的に、対応できなかったので、最初は妻を会社に入れて。そうして自然に何十人にも増えていきました。組織は嫌だったから、組織の嫌なところ、例えばスピードの遅さ、ハンコの多さ、格差、風通しの悪さ、などはなくすように気をつけました。「組織らしくない組織」をつくるしかないのかなと。自分がサラリーマン時代に嫌な思いも経験したから、ヒエラルキーも極力なくしています。「社長と呼ばなくていい」と言っていますので、みんな「松本さん」です。
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強い組織になっていく中で、大きなターニングポイントは?
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松本: 劇的に変化を感じたのは、新卒を入れたことでしょうか。世の多くの社長がそうかもしれませんが、以前は新卒を入れることに抵抗がありました。教育に時間がかかるし、仕事を覚えるまで3年は寝かせなければならないことに、不安を感じていました。
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ロムテックでは長いこと中途採用ばかりをしていた。中途採用の人は、確かに仕事はできるし速い。しかしその反面、理念まで浸透させることはなかなか難しいこともあった。「前の会社はこうだった。これが常識だ」という先入観が強い人がどうしてもいる。ここを変えるのは、技術を教えるより難しいのかもしれない。
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松本: TSUBASAでは、思い切って新卒をとりました。このメンバーが、今ではぼくと同じことを喋ってますから。熱さはぼく以上かもしれません。松下さんもホンダさんも、新卒を入れてから大きくなったそうですね。新卒を入れだしてこの10年くらいですけど、今は実感としてわかります。強い組織にするには、理念をどこまで吸収できるかが大事なんです。
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新卒が入ると、先輩は教えなければならない。そして教えることによって、先輩自身もより学ぶ。というように社内が活性化し、好循環が起きる。
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松本: 新卒は何も知らないから、先輩も余裕があって。「なんだ、よく見とけよ」なんてしっかり教えるんです。でも何年後かには追い抜かれてしまうという現象もあったり(笑)
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少し細かいことも聞いてみたい。組織になるべくヒエラルキーをつくらないとのことだが、一人でフラットに見れた人数は。
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松本: 10人が限界ですね。それ以上は、チームの責任者、リーダーを何人かつくっています。
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採用するとき、どこで人を見るのだろう。 例えば、「能力」と「人間性」であれば、どちらを優先するか。
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松本: 圧倒的に「人間性」を優先します。その子が伸びるかどうかは、教える側の責任だと思っています。いくら能力があっても、教え方が悪ければ伸びないし、逆もそうですし。能力は気にしません。とにかく性格が素直で謙虚であればいい。
そもそもみんな、何かしら能力は持っていると思うんです。それがどんな能力かは、身近な先輩じゃないとわかりません。本人が「これやりたい!」と言っても「君はこっちの方が向いてるんじゃない?」という場合もある。それを伸ばしてあげて成功体験を積ませることが、彼らの自信にもなるし、次のチャレンジも生まれると思います。そういうことを引き出すのが、先輩たちの役割のひとつです。「愛情を注げば人間も動物も活きる」この信念がベースにありますね。
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情報発信の工夫は?
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どんなに素晴らしい活動でも、知ってもらわなければ意味がない。メッセージを発信することが必要だ。
松本: ブログは、できるだけ毎日書くようにしていますね。一番読まれる時間帯は夜22時だというのですが、ぼくはあえて朝に公開してます。朝に読んで、元気になってほしいなと。7時15分前後に公開するようにしてる。前日の夜のうちに書いておいて、翌朝早く起きて推敲して公開、というルーティーンです。フェイスブック、ツイッターも可能なかぎりマメに投稿してます。
会うと「読んでますよ」と言ってくれる人たちがいるので、続けています。単純なので、嬉しいですね。「続きはどうなるのですか?」「えーっと、それは秘密」なんて会話も楽しいですし。かなりパーソナルなことも書いていて、ぼく自身がどんな人間かわかるし、セミナーなどでも、ぼくと話すきっかけ、距離が縮まるいいきっかけになるようです。
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最後に:不幸な動物をゼロにするために、仲間たちと挑戦は続く
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60代になった今、現在の自分をどう思っているか。「幸せ度」は何パーセントくらいなのだろう。
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松本: 100%以上です、120%ですかね。それはやっぱり、余命3ヶ月を宣告されたことがあったし、当時予想された寿命を超えて今も生きられてるわけですから。元気にこうして仕事ができるだけで感謝でいっぱいです。生きさせてもらったのだから、少しでも何か社会に恩返しがしたい。自分ができるのは、鳥のこと、動物のことしかないと思います。
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近年は「バードライフアドバイザー」の資格講座の運営に力を注いでいる。「鳥を助けていこう」というミッションの講座で、すでに1200名以上が受講。まずは鳥との暮らし方を学んでもらい、資格を出している。
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松本: 今は鳥から始めていますが、ゆくゆくは犬猫、「ドッグライフ」「キャトライフ」もさまざまなNPOと協力してつくっていけたらと思っています。きっとこれから先、「殺処分ゼロ」が現実になる日が来ると思います。しかしそれでも、ペットを「手放すこと」はなくならないでしょう。だから、里親レスキューはずっと続けていく必要があります。
TSUBASAでも、子供たちが「なんでここに鳥さんいるの?」と聞いてきます。それぞれ引き取った事情を話すと、涙を流して理解するんですね。もし子どもに命の大切さを伝えるのであれば、ペットショップや動物園にいくのではなくて、保護センターに来て欲しいと思っています。動物たちの生い立ちを聞いて、そしてペットをお迎えしてほしい。それが本当の意味での情操教育じゃないのかなと思うのです。
ペットショップで陳列されているペットではなく、保護センターにはたくさんの身寄りのない動物がいるわけですから、そこで考えてほしい。そこで資格を持ったバードライフアドバイザーが飼い方の相談を受けたり、指導し対応する。そうなるといいなと。
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「動物業界を変えなければならない」若き日にひとり抱いた思いは、60代の今、多くの仲間を得て、より大きなうねりとなっている。すでに鳥に関しては保護体制が整ってきた手応えがある。熊本地震があった時も、バードライフアドバイザー資格保持者たちが現地に駆けつけ、身寄りのない飼い鳥たちの保護に尽力した。何かあった時には全国のアドバイザーが駆けつけてくれる。
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松本: 鳥ではそんな体制ができ始めているので、これからは他のNPO団体などと協力しあって犬猫でもやっていけたらと思っています。TSUBASAでは新卒2人のメンバーが10年経ち、任せられるようになってきましたから、鳥を超えて「動物」という大きな枠に挑戦していきたいです。
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深井: 動物と人間の幸せのために、まだまだ挑戦は終わりませんね。今日は、松本さんの紆余曲折から、多くの大切なヒントをいただきました。誰しも「せっかくなら意味のある人生を送りたい」と願うもの。我欲以外の何か大きなもののために力を尽くす人生は、やりがいもひとしおです。
人生には「運命を切り開く時」と「流れに身を任せる時」があって、そのどちらも必要なのでしょうね。好きなことひとつに固執するのではなく、頑張ってもうまくいかない時は柔軟に他の道も試すことが大事。一見それがまわり道や行き止まりのように見えても、ちゃんと意味があって、不思議と後で繋がってくるようです。
松本さんの人生も、「半導体の仕事」があったからこそ、「鳥の保護活動」ができたのでしょうし、すべて意味があったのでは。読者の中で、もしいま「意味が感じられない仕事」をしている方も、必ず意味があるんですね。そう信じると、この先の人生のシナリオに希望が持てるはずです。
松本さんは、誰にでも分け隔てない愛情で接してくれる謙虚な方。その人徳が、数々の幸運と素晴らしい仲間を招いたに違いないと、やっぱりぼくは思うのです。
今日はありがとうございました!
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聞き手プロフィール
深井次郎
文筆家 / エッセイスト/ 『ORDINARY』発行人
1979年生。大卒後、上場企業子会社立ち上げを経て、2005年オレンジ有限会社設立。26歳でロングセラーとなった生き方エッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)を出版。ほかに『どんな仕事も楽しくなるすごい法』(三笠書房)など4冊、累計10万部。2009年オレンジ社を経営譲渡しフリーランスに。大人が学べる新しい形の学校をつくるべく自由大学創立に参画し、ディレクター兼教授として、数々の講義をつくり同校を軌道に乗せる。2011年、法政大学から依頼されクリエイティブ選抜クラスである「dクラス」を創立。クリエイティブや自分らしい働き方について教壇に立つ。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年、書く人が自由に生きるためのウェブマガジン「ORDINARY」(株式会社オーディナリー)スタート。生き方エッセイ『自由へのシナリオ』連載中。「自分の本をつくる方法」教授 。 WEB: ordinary.co.jp