販売という行為を通して、自分の地元を誇りに思えたんです。
INTERVIEW
地元のために貢献する人を増やしたい
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東京一極集中は、なんだか息苦しい。でも、大都市に人が集まってしまう事情もわかります。「仕事さえ十分にあれば大好きな地域に住みたいのに……」と思いながらも、愛着の持てない場所で暮らし続ける人も少なくありません。
就職先を探そうとすると、たしかに多くはないものです。しかし、自分で仕事をつくろうと思えば可能性はいくらでもあるのではないでしょうか。「自分の愛する地域のために仕事をつくる、雇用を増やす」そういう生き方を実現したのは株式会社地元カンパニーを立ち上げた児玉光史さん。地元の長野と東京を行き来して仕事をしています。
児玉さんのストーリーは「打ち込むものが固まってない」、「近いうちに起業したい」そんな読者さんへヒントになることでしょう。
聞き手:深井次郎 (オーディナリー発行人 / 文筆家)
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【お話してくれた人】児玉光史(こだまみつし) 株式会社 地元カンパニー 代表取締役1979年、長野県上田市(旧武石村)のアスパラ農家に生まれる。東京大学農学部に進学、森林を学ぶ。東京六大学野球では2季連続ホームラン王。大学卒業後、株式会社電通国際情報サービスにて法人営業を4年間担当。同社退職後、2007年に農家の息子や娘による地元活性化プロジェクト「セガレ」を開始。その後事業を拡大し法人化、2012年株式会社地元カンパニーを設立。「郷土愛をカタチにして欲しい!」そんな思いで全国の地元を盛り上げるべく様々な事業を立ち上げている。 『地元カンパニー』http://www.jimo.co.jp 『地元のギフト』http://gift.jimo.co.jp |
PEOPLE(ピープル)とは、オーディナリー周辺の「好きを活かして自分らしく生きる人」たち。彼らがどのようにやりたいことを見つけていったのか。今の自分を形づくった「人生の転機」について、深井次郎(オーディナリー発行人)と語るコーナーです。
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どうしたら打ち込むべきものが見つかるのか
児玉さんの経験がヒントになるはず
深井次郎 さて今日は、児玉さんの活動テーマである「地元愛」「親孝行」に至るまでの「人生の転機」についてお聞きします。
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児玉光史 はい、何から話しましょう?
深井 まずは、小さな頃。勉強もスポーツもできた地元の神童だったようですが、 教育熱心なご両親だったのでしょうか?
児玉 いや、全然です。じいさんばあさんはアスパラ農家で、父も兼業で農家をやっています。母はだいたい家にいたので、母の影響を一番受けてるとは思います。でも、特に「勉強しなさい」と言われた記憶はありませんね。
思えば小学校の時、長野の田舎だったので近所に子どもがいませんでした。遊ぶ友だちがいない。学校が終わっても、家の立地的に帰る方向もみんなと逆で、ひとりポツンと帰るわけです。遊び相手がいなくていつもひとりで、暇で暇で仕方がなった。
やることがなさすぎて、宿題くらいしかやることもない。でも、明るいうちから宿題に手をつけてしまうと夜にやることがなくなるので、夜まで我慢したり(笑) テレビだってあの頃は番組が少なくて見たいものもなかったんです。野球は好きだけど、ひとりじゃできないし。村には塾もないし。自然と暇だけはたくさんありました。
深井 有り余る暇をどう扱うか、ですね。
児玉 姉も吹奏楽で忙しかったので、一緒に遊ぶこともなく。宿題もすぐ終わってしまうから、マンガ描いたり、自分で遊びを考えたりして。それで自然と考えることが苦にならなくなったんですかねぇ。
深井 面白い。暇すぎると勉強ができる子になる、と(笑) 高校も地元の進学校、上田高校に。しかも首席で入ったんですよね。
児玉 昔から本番に強い男なんです。入学式で宣誓文を読むから、「アイツが首席か」ってみんなわかるわけですよ。で、アイツは出来る奴だって先入観を勝手にもたれて、「首席なら将来は東大だね」と周りから言われるんです。ぼくにとっては大学って身近な存在ではなくて。だって、両親も大学に行っていないから。この時に、「大学に進学する人生があるんだ〜」ということを初めて知ったんです。行くとしても、地元長野の信州大だなと思っていた。でも、まわりからずっと「東大、東大」言われるものだから、その気になってきて、東京に行ってみたいなと思うようになり、国立で学費も安いしということで、東大を受験しようと思うようになりました。結果、結構勉強して東大理一に入りました。夢もやりたいこともなく、ただ、数学が好きかなくらいの理由で理一に。
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プロ野球選手は無理だと悟った
地元のヒーローがとった進路とは?
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深井 大学に進んでからも、夢は特になく? 将来こうなりたいなぁという漠然としたイメージくらいはあったのでは?
児玉 プロ野球選手くらい。正直、現実には難しいかなとは思っていました。でも楽しかったので、大学ではひたすら野球に明け暮れました。寝ても覚めても野球。東京六大学野球の中では、東大は弱かったんですけど、勝つために必死で練習して。ぼくは四番で中心選手でした。
深井 東京六大学野球ではホームラン王になったり活躍したんですよね。チームのリーダーとして学んだことは?
児玉 中心選手としてのふるまいでしょうか。高校野球で謳われている “全員野球” という意識とはだいぶ変わりました。みんなで力を合わせて仲良くやることがすべてじゃないということです。弱いチームが勝つためにはどうすればいいか。弱いプレイヤーたちがピヨピヨと仲良くしたってしょうがなくて。限られた練習時間や機会をどの選手が手にするのか、勝つためには自分がしゃしゃり出ていくことも必要なんだなと。大学野球に、ぼくのリーダーとしての原点があると思います。
深井 勝つことには人一倍こだわるんですね。
児玉 ゲームの中ではバカみたいに勝ちを目指しますね。負けると悔しいし。どうやったら勝てるかって、そればっかり考えてました。単純な男なんです。大会でのぼくの活躍が地元でも新聞に載ったりするんですけど、両親は喜んでましたね。地元の人たちも「児玉さんちのみっちゃんはすごいねぇ!」って口々に言ってくれるから、両親はだいぶ楽しんでくれたんじゃないかなって思います。
深井 自慢の息子であり、地元のヒーローだったんだ。就職活動はどうでしたか?
児玉 野球のことだけ考えていたので、就活の時期になっても将来のことは何も考えていませんでした。プロ野球選手が無理だとすると、ぼくから野球をとったら何もないんです。
深井 とすると、どういう価値基準で進路を選びました?
児玉 何もわからないんで、とにかく有名な企業で、堅くなさそうな仕事をピックアップして、給料の高い順に並べました。そしてそれを順番に受けていくというだけ。
深井 単純明快(笑)
児玉 一番最初に内定をもらったのが電通国際情報サービスでした。悩みたくなかったから、そこでいいやと思って決めました。IT企業ってのはわかっていたんですが、何を扱ってる会社かも全然知らずに(笑)
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仕事は生活のほぼ全てだと実感
だから野球くらい熱くなれるものでないと
深井 一番最初に縁のあったところに決める。シンプルで潔い決め方です。それで、社内ではどんな仕事を?
児玉 なんとなく営業が向いてるだろうなということは感じてましたが、配属はたまたま営業部で。海外のCADシステムを企業に売る法人営業です。エプソン担当になりました。知ってました? 実はエプソンって長野の会社なんです。ぼくの地元なのでエプソン担当になりたいと言ったらさせてもらいました。毎週長野に出張してましたね。
深井 会社に入る前と後で、ギャップはありましたか?
児玉 ギャップはない、といいますか、そもそも何の理想もイメージも持っていなかったんです。今までの人生でアルバイトもしたことない人間です。家は農家だし、あとは野球に明け暮れてきたので。就職してから初めて「働くってこんな感じなんだな……」と。
深井 こんな感じとは?
児玉 うーん、時間をずいぶんと注ぐものなんだなと。仕事が生活のほぼ全ての時間を占める。今までの「野球」が「仕事」に置き換わった感じです。でも野球とは興奮が違っていた……。野球は勝つと自分がうれしいんです。でも仕事は、受注できてもそう感動はないというか。野球は弱いチームが勝ったら超嬉しい。でも大企業の電通がエプソンに売るのは、売れて当然とは言わないけど、すげー!という感動はない。お客さんは好きなんですよ。担当したエプソンは長野の会社だし、エプソンが伸びれば長野に税金も入るし、雇用も生まれるし。でも、野球ほどの感情の起伏がなくて、色あせていた。
深井 野球という最高の快感を知ってしまっているだけに、なにか物足りなく感じてしまったのですね。
児玉 4年間勤めましたが、最後の1年は精神的にかなりどん底でした。営業は楽しかったし、そこそこ成績も良くて、バリバリ働きました。受注できたときはやりがいも感じたけど、野球の勝利の興奮が100だとしたら、その半分もないくらいかなって。
会社の信用と商品の力も大きかったから、正直「これ売るの俺じゃなくてもいいんじゃないかな」とは感じてました。だれがやっても同じなんじゃないか。「児玉さんだから買うんですよ」って言ってくれるお客さんもいて、その時は嬉しかったです。でも、売っている商品は海外でつくられたソフトで、自分には縁もゆかりも愛着もないし、使ったことないから実感もないわけです。
深井 わかるなぁ。ぼくもコピー機を飛び込み営業してた新人サラリーマン時代、そうでした。でも、仕事と割り切って、結果は出すんですよね。
児玉 社内ナンバーワンとはいきませんでしたが、結果も出していたし、職場ではイキイキと働いているように見えていたようです。後輩から「児玉さんいつも仕事楽しそうですね」って言われて、「いや、ぜんぜん楽しくないよー」ってさわやかに即答したらすごく驚いてました。え、楽しくないのに、そんなに元気なの! って。職場では必死にやっていたのでつまらなそうには見えなかったのかもしれません。家に帰ってからとか、特に週末はひとりでぐったりと。そう、夏目漱石の『私の個人主義』に書いてあるんですけど「袋の中に閉じ込められて、光が見えなくて、手を伸ばしても何にも触れない」って状況、まさにその苦しさでした。もう、どうしたらいいんだ……って。
深井 ああ…… これは誰しもあるんじゃないかなぁ。
児玉 仕事に全身全霊で注げないと、力が有り余る。その余ったエネルギーを当時つきあってた彼女に注ぎ込むしかなくて、そりゃ暑苦しかったんだと思います。やはりというか、フラれてしまって。自分は何をやってるんだろう……。どうにも格好わるい時期でした。
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好きなことを定める
結局、答えは探すのではなく決めるもの
深井 どうやって次の方向を見つけましたか。児玉さん流の好きなことをみつける方法は?
児玉 自分の好きなことを知るために、週末にたまった新聞の切り抜きをやっていました。自分の興味の沸いた記事をひたすら集めておくのです。そしたら、大きく3つに分類できました。農業と、スポーツと、自治体の話題です。なるほど、この分野に自分は興味があるんだなぁということにしました。
深井 そう、惹かれるものを集めて分類すると見えてくるものがありますね。
児玉 あとは自分の性格です。小さいころから「暇をどう楽しくするか」ばかり考えてきたからというのも大きいのかな。同じことを何度もやっていると飽きてしまうんです。だから、どうやったらもっと面白くなるか考えずにはいられない。 たとえば数学のテストだって出題者の想定しているのと違う解き方をわざとしたくなるんです。他の人がやっていないことをやるのが好き。そういう自分を懐疑的に見ずに、そういうもんだとして受け入れようって。だから地元とか農業のこと、もっと面白くして、自分が楽しく過ごせるようにしていきたいなぁっていう思いに蓋をせず、ちゃんと育てていこうって思うようになったんです。
深井 少し光が見えてきた。
児玉 極めつけは、先輩にアドバイスをされたことが大きかった。「いまのお前の悩みは、決めることによってしか解決しないよ」と言われたんです。受験でもなんでも、今までの問題は出題者が決めた答えがあって、それを探して答えるものばかりでした。でも、今度の問題は今までとは別のパターンなんだと。答えはないから、自分で「これが答えだ」と決めるしかない。
深井 学校で習った「正解を探すアプローチ」では、今回の道はひらけない、と。
児玉 どれでも正解だから、自分を頼りにえいやっと決めるしかないんだと。オーケー、じゃあ、これでいこうと。自分なりに納得できたんです。具体的に次にやることは決まってませんでしたが、とにかく会社を辞めました。
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会社を辞めるとき不安はなかった
農家の野菜があるから
深井 収入が途絶えることへの恐怖はありませんでしたか? ぼくは初めて会社員を辞めたとき「死ぬかも」って震えましたけど(笑)
児玉 収入面での不安はゼロでした。農家出身ってこともあって、困れば農家の野菜も米もあるし、田舎に帰ればとりあえず死ぬことはない。あとは、田舎で塾でもやればなんとかなるだろうと。東大卒だし、教えるのも上手いと思うし、なんとでもなるなと思いました。
深井 別の会社に転職するという流れにはならなかったですか?
児玉 すぐに転職も違うなぁと。また同じことを繰り返すような気もしましたし。ただ、無職は肩身が狭いから、研究生という肩書きを手に入れるために、東大の研究室に入りました。年間30万円ほど払うんですが。
深井 いろいろ動く時には無職よりも何か肩書きや所属があったほうが、相手に信用を与えるというのはありますね。
児玉 あとは興味のある会社にバイトをやらせてもらったり、スクーリングパッド(Schooling Pad)にも通い、手当たり次第なんでもインプットしてました。大学生になった感じ。大学の授業も出ました。学生時代と違って、「地元 × 農業」という方向性をしぼってからだから、授業も学びが多くて面白かったですよ。でもお金もないし、家賃やばいなぁ、無職だなぁと。この期間は、たくさんつまみぐいして楽しかったです。
深井 ご両親は、会社を辞めることについて何かコメントはありましたか?
児玉 驚いてはいましたけど、農業方面の何かをやると言ったら、喜んでたと思います。実家方面に近づいたわけですから。
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セガレが野菜を売りはじめる
初めての値付けは衝撃だった
深井 児玉さんは農家の長男だから「継ぐのか、継がないのか」という問題もありますね。
児玉 父も専業ではなく兼業でしたし、特に継げとは言いませんでした。けど、内心では実家で暮らして欲しいと思っていたかもしれません。ぼくは東京で働いていて、実家のために何もしていない。それを後ろめたく思っていました。
深井 その継いでいない後ろめたさがきっかけでセガレが始まった。
児玉 まわりに上京してきている農家の息子や娘たちがいて語りあったんです。みんなも同じ後ろめたさを抱えていました。「どう、みんな家業を継ぐの?」って。いますぐ継ぐことは出来ないけど、代わりに少しでもなにか親孝行できることはないか。「いま自分たちが東京にいるなら、それぞれの実家の野菜を東京のマーケットで売ろう」そうやってセガレの活動が始まりました。
深井 セガレ、セガールというネーミングも目をひいて、マスコミでもだいぶ話題になりました。セガレの立ち上げを通して、何か突き抜けた瞬間はありましたか?
児玉 ぼくにとってセガレでの大きなインパクトは、「値付け」の瞬間でした。今まで会社で経験してきた営業は値段が決まってるわけです。上から「いくらで売りなさい」と言われる。でも、自分でやるとなると自由です。例えばうちの実家のアスパラ。親からの仕入れが例えば100円だとしたら、これをいくらで売るかは自分で決めていい。200円か、300円か、いくらにするか。スーパーに並んでる相場よりも安くも高くもできるんです。
深井 薄利多売か、高付加価値でいくか。値付けで今後のアティチュード(態度)が決まりますね。
児玉 もちろん、高い方につけたかった。アスパラ一本にもつくった人、じいちゃん、親父、いろんな人が関わって手間ひまと技術と愛情がかかっているのを見て来ているわけで。それを社会に認めて欲しかったんです。でも、値段をつけたとき、ものすごく恐かった。恐れというか、畏怖という言葉がしっくりくるのかな。自分が決めた価値を社会にさらす。社会に対峙する覚悟というか。
結果、初めてやったマーケットで、高くてもお客さんが買ってくれたんです。よし、承認された、価値を認めてもらえたなと。親父たちが、そして地元長野のみんなが積み重ねてきた努力が認められたようでうれしかったなぁ。この販売という行為を通して、自分の地元を誇りに思えたんです。
深井 そこからはイキイキとしてきましたか?
児玉 セガレが話題になり、メディアにも出たり、個人としても認められてきた感じはありました。ただ、経済的な課題は常にありました。野菜売ってもぜんぜん儲からないなー、あははははと(笑) でも、精神的には楽だったですね。売り上げを伸ばすには、具体的な手だてを試していけばいいだけですから。
深井 かつて、「安定した給料は入るけど、熱くなれるものが見つからなかった」あの時期に比べれば全然楽だと。
児玉 そう、全然楽。しかも、東大野球部で勝とうともがいている時に比べれば、試す手立てが無数にある!(笑)
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地元カンパニー設立
社長は社会のために雇用してなんぼです
深井 そこからセガレの活動を法人化して、地元カンパニー設立となるわけですけど、この2つの違いは何かありますか?
児玉 地元カンパニーは経済活動として、ビジネスとしてしっかりやっていくぞという覚悟でしょうか。
深井 会社設立から2年、傍目からは順調にみえますが、どうですか社長?
児玉 社長は大変なことばかり。初めてのことですから。悩みは尽きないものだなと。でも、すべて自分で決断できるから、納得感は大きいです。精神衛生上はすごくいい。融資も受けてるからプレッシャーはありますけど。
深井 社長として意識が変わったとか、なにか転機となったタイミングはありますか?
児玉 初めて人を雇用した時です。雇用は衝撃でした。地元カンパニーはセガレの立ち上げからの付き合いのメンバーと、2人で設立しました。設立メンバー2人だけの時は、「まあ食えなくてもなんとかなるっしょ、2人とも農家のセガレだし」という感じでフラフラしてましたが、3人目からは他人を巻き込むわけです。毎月給料を払わないといけないから、ちゃんと稼がないといけない。シャキッとして、よりシビアにビジネスとして考えるようになりました。
ぼくはなんでも手広くやりたくなってしまう性格なので、メイン事業の「地元のギフト」と人材サービスのほかにカフェや宿も始めていたんです。数人であれもこれもは回らないですよね。関心ごとが増え過ぎて、物理的に無理。しっかり稼ぐためには、やめることも必要だなぁと。これが俗にいう「選択と集中ってことか!」と妙に納得したり。そういうことをしっかり考えるようになりました。
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起業したい人へのアドバイス
勉強はいらない、求人票を書きましょう
深井 たとえば自由大学(深井が立ち上げに関わり教授も務めるインディーズの社会人大学)でも創業スクールが人気です。定員の3倍も希望者が殺到し、抽選になったほど。今そのくらい起業したい人は多いようです。そんな方たちに対して、少し先輩の社長として何かアドバイスを。なにか独立前にやっておいたほうがいい準備はありますか?
児玉 辞めたいなと思うようになったら、いち早く辞表を出すことでしょうか。あくまでぼくの場合はですけど、勤めながら準備と言ってもなかなかできなかったんです。だらだら1年かかることでも、もう辞めてしまって退路を断って集中してやると1週間ぐらいでできる。そのくらい気合いとか人間の集中力はすごいんじゃないかって思ってます。勘ですけど。
深井 起業のためにはしっかり勉強をしてから、と言う人も多いです。
児玉 勉強なんて必要ないと思います。実際にやってしまったほうが早い。具体的に営業にいくんです。具体的に提案すれば、相手からどこが良くてどこがダメか具体的に結論が出るから。それを改善していけばいいわけです。
深井 机上で色々イメージしてても時間がもったいない、と。やることがザックリ決まったら、あとは練りすぎないですぐリリースしよう、ということですね。
児玉 あとは、自分の会社の求人票を書くことをおすすめします。まだサラリーマンのうちにでも自分の会社の求人募集を書くことはできますよ。
深井 まだ存在していない会社の募集概要を書いてしまう。このアドバイスは面白い!
児玉 「実際の勤務は来年の4月から」とか書けば問題ないです(笑)求人票を実際に書いてみるといい理由は、大きく3つあります。
理由1. 自分の会社のことが具体的にイメージできる
→ ビジョン、大切にしてること、社内の雰囲気、給料、業務内容、一緒に働きたい人材像、自社の強みなどを具体的に考えるいい機会になります。
理由2. シェアされて広がる
→ 自分のプロジェクトをクチコミで知ってもらえます。求人なら友人にシェアされるけど、これが事業計画書や企画書だとなかなかシェアされない。これはなかなかいいですよ。
理由3. 問い合わせが来るとうれしい
→仮に会うことになって、もし合わない方が来ても正当に断れるし、採用に至らなくても、賛同してくれる人が世の中にいるのだという自信になります。あと、本当に運命的な出会いだってあるかもしれないです。
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仲間のつくり方
人生を自分で設計できる人と
深井 求人票の流れで聞きますが、仲間のつくり方です。地元カンパニーは最初2名で始まりましたが、その相方さんはすんなり見つかりましたか?
児玉 彼はセガレの立ち上げからずっと一緒にやってきたメンバーなので、そのままの流れですんなり。
深井 地元カンパニーの仲間を選ぶ基準は?
児玉 うーん、基準というか、今までスピーディーに決まったのは、セガレであるということでしょうか。実家が農家、牧場、木こり、とかだとすぐ仲良くなれます。「うちはアスパラだけど、そっちは?」みたいな。なんか感覚が近いんですよね。あとはぼくが割と体育会系みたいで、それがイヤじゃない人かなぁ。もちろんセガレじゃなくても、体育会じゃなくても大丈夫ですよ(笑)
深井 逆に、絶対ダメという人は?
児玉 自分の将来の話ができない人は難しいと思います。「この会社で何年働きたい?」と聞かれてすぐ答えられる人がいいですね。期間は短くても長くてもいい。年数は関係なくて、「自分の人生を自分で決められる能力」が欲しい。途中で変わるのは全然良くて、今どう考えているかが大事です。行き当たりばったりではなく。自分の人生くらい自分で設計して、それを言語化できる人と一緒に働きたいと思います。
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起業するなら雇用しよう
雇用が社会のためになるのだ
深井 会社設立から2年間経ちましたけど、起業して後悔した瞬間はありましたか?
児玉 今のところ、ないです。むしろ学生時代とかもっと早くに始めてればよかったとさえ思います。なぜまわりはぼくに起業という選択肢を教えてくれなかったのか……(笑)
深井 起業してやりがいを感じてるわけですね。
児玉 起業よりも、雇用かな。雇用をして変わったし、成長しました。起業と言っても、ひとり会社もたくさんあって、それだと社長ひとりはちゃんと食べていける。でも、社会的な影響を考えると雇用の方が直接的だと思います。雇用はスタッフの人生に関与して、仕事をつくって給料を払って彼らの生活の直接的な支えになるわけです。特に地方で雇用を生む人を増やしたい。起業することはほぼ自分自身で決められるから簡単だけど、雇用は面倒で大変なことですよ。それでも「雇用をすることがカッコいい」という文化にしたいなぁと。これは上の世代から伝えるべきだと思います。雇用はたしかに大変だけど、どれだけすばらしいものか!
深井 社会のためを考えたら雇用しよう、と。
児玉 仕事って自分ひとりが良い生活をするものだけじゃなくて、人を支えるものだと思うんです。事業内容だけじゃなくて、みなさん雇用数も気にしましょうよと。儲かって余裕ができたら雇用するんじゃなくて、雇用してからその人と利益をあげる工夫をする。どんどん背伸びして雇用しましょう。もうね、みなさんレッツ雇用! ですよ。
深井 名言でました、レッツ雇用! いま地元カンパニーは何人?
児玉 …….まだ9人です。もっとがんばります!
深井 最後に、5年後10年後こうなっていたいというイメージはありますか?
児玉 子ども5人欲しいです。友だちに4人の子どもを育てている夫妻がいて、とても楽しそうで、子どもはいっぱいいた方が楽しそう。あと、プライベートでも背負うものが大きい方がシャキッとするんじゃないかなって気もするし。経済的には困窮するかもしれないけど(笑) あと、地元カンパニーは、ひきつづき地元に雇用を増やす状況をつくりたい。
深井 今日は児玉さんが「背負うほど頑張れるタイプ」ってことがわかりました(笑) さすが、ホームラン王。プレッシャーのある大舞台でこそ結果を出してきた男です。
児玉 そう、あとは教育ですかね。地元に根付いた教科書をつくりたい。歴史だったら、たとえば平安京が出来た時、上田市はどんな状況だったのか。理科だったら、物理的な現象を説明するときも、地元企業の例をだしたり。小さいころから地元のことを知れば、地元をもっと好きになるから。きっとUターンも増えると思うんです。
深井 なるほど、それは面白いですね。ぼくは転勤族で育ったのでココというはっきりした地元がないんです。だから地元への思い入れは児玉さんたちよりは薄いけど、今日話しててなんだか改めて親孝行したくなりました。自分を育ててくれた地域のために恩返しをする。地域活性化はつまり親孝行なんだと思うのです。親孝行をする人がもっと増えたら、人に優しい社会になるんじゃないかな。自由に生きるための具体的なヒントが満載で、ためになるインタビューでした!
構成と文 : オーディナリー編集部
取材日 : 2014.10.5
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