TOOLS 49 知ること体感すること / 田中 稔彦( 海図を背負った旅人 ) 

97066b7e8872f7ed1001e0e7a060ace3海に出ることは自分の立っている場所を確認する、ぼくにとってはそんな意味もあったのです。日常の時間の中でも「知っている」と思い込んでいることを、本当はどのくらいの深さで知っているのか、そんなことも考えるようになりました。世界のあれこれと直接つながれるような感覚がぼくは好きでした。
TOOLS 49

知ること体感すること
田中 稔彦  ( 海図を背負った旅人 )

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自由に生きるために
本当に知っているのか考えてみよう

 

 初めての航海で体験したこと 

初めて帆船に乗ったのは「あこがれ」という船で、大阪から鹿児島までの一週間の航海でした。海のことも船のこともなにも知らないまま船に乗り込んだのです。見るもの、聞くものの何もかもが初めてのことばかりでした。

出航してから2,3日目の夜、大阪を出た船は南に下り、紀伊水道を抜けて太平洋に入り、四国の南、高知県の沖を西に向かって進んでいました。ぼくは航海当直に入っていました。

船が陸を離れて航海する間、乗組員は交替で船を動かしています。その船を動かす担当のことを航海当直と言います。「あこがれ」では乗客たちで班を組んで、乗組員と一緒に当直に入り、舵を取ったり、周囲の見張りをしたり、帆の調整をしたりして船を動かしていきます。

その夜、ぼくが担当していたのはGPSが示す緯度経度の数値を見て、自分の船の位置を海図(チャート)に記入していく作業でした。船では15分とか30分おきにこの作業を繰り返します。そこから割り出された航跡を元に船の針路を決めていくのです。

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ブリッジと呼ばれる、デッキから一段高くなった部屋でぼくは作業をしていました。船の右舷側の遠くには陸がぼんやり浮かんでいて、所々に小さな明かりがまたたいていました。船は四国の南西の端、足摺岬(あしずりみさき)の東側に沿って南西に向かっていました。

部屋の明かりは作業ができるギリギリまで落とされていました。その薄明かりの中でぼくは作業を続けていました。ぼくが15分ごとに海図に記入している航跡は真っすぐに岬の先端へと近づいていました。岬を過ぎれば四国ももう終わりです。

 

 そして事件は起こった… 

突然、海図に記された航跡が乱れました。ずっと南西に向かっていたはずなのに真南に進んだのです。舵はずっと同じように切られていました。船の針路は変わっていません。

最初は単純に記入のミスだと思いました。けれど何度見直しても間違いは見つかりませんでした。GPSの指し示した座標が合っているとすれば、船は南に向かって進んでいるのです。

ぼくはブリッジで一緒に当直に入っている航海士さんに声をかけて状況を説明しました。彼はしばらくGPSの数値と海図をチェックしていましたが、

「うん、大丈夫、合ってるよ」と声をかけてきました。

「どうして… 」と尋ねるぼくに彼は答えました。

「黒潮に入ったみたいなんだよ」

黒潮とは四国の南を西から東に向かって流れる海流。足摺岬を越えた船はその黒潮に出会い、押し流されて西に進めなくなっているのだと。

航海中に海水の温度を計っていました。試しに計ってみると、真夜中にも関わらず数時間前と比べて5℃ほど高くなっていました。黒潮は南から流れてくる温かい水の流れなので、水温が上がっているのも船が黒潮に入ったことを表しています。

当直が終わって眠り、翌朝目が覚めてデッキに出てみました。海の色が濃くなっていました。それまで3日間、ずっと海を眺めてきたのです。間違いはありません。もちろん本当の黒ではありませんでした。それまでの透き通ったブルーから陽の光を通さないような深い藍色へと海の色は変わっていました。

 

 初めて黒潮を体感して思ったこと 

それまでも「黒潮」という言葉は知っていました。それが太平洋を東に向かって流れていることも地理の教科書か何かで読んだことはありました。でもそれは実感を全く伴わない、ぼくの人生に何の関わりもない知識でした。その夜、初めてぼくは「黒潮」がどういうものなのかを知ったのです。

帆船に乗って航海する中で、ぼくはいくつも知識としてだけ知っていたものをそうやって本当に知ることができました。例えば天気図の記号でしかないと思っていた前線も、海の上では実際に目にすることがありました。陸の光が届かない海の真ん中では、星座や天の川も星座表と同じようにはっきり見ることができました。夜光虫は波頭で光っているし、イルカやくじらも泳いでいます。

もちろん、黒潮を知ったことは日常の生活には何の役にも立ちません。天気図から空模様を予測することができるようになっても、日常ならテレビの天気予報を見ればいいだけの話です。星座から自分の位置を知る必要なんてありませんし、釣った魚をその場でさばくこともないでしょう。波に揺られる船のマストに登り、重い帆布をたぐりこむ経験なんて必要ありません。

それでも、世界のあれこれと直接つながれるような感覚がぼくは好きでした。今までよりほんの少し深く、目の前のものと触れ合えるそんな気がしていました。そして日常の時間の中でも「知っている」と思い込んでいることを、本当はどのくらいの深さで知っているのか、そんなことも考えるようになりました。海に出ることは自分の立っている場所を確認する、ぼくにとってはそんな意味もあったのです。

たぶん世の中には知らないことがたくさんあります。知識を増やすことはもちろんいいことです。そして今の世の中ではその気になれば整理された分かりやすい情報はいくらでも手に入ります。でも簡単に手に入れた情報だけでいろいろなものを知るようになると、より深い本質にたどりつくことはかえってむつかしくなったんじゃないだろうか、ぼくはそんな風にも思うのです。(了)

 

 

ものごとを本当の意味で知る方法
1.  知識を増やすことが知ることではありません
2.  体験し実感をともなって、初めて知ることができます
3.  世界のあれこれと直接つながろう

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 田中稔彦さんが帆船に乗ることになった話など 

TOOLS 11  帆船のはじめ方(2014.5.12)
TOOLS 32  旅でその地を味わう方法(2015.2.09)
TOOLS 35  本当の暗闇を愉しむ方法(2015.3.09)
TOOLS 39 
 愛する伝統文化を守る方法(2015.4.11)
TOOLS 42 
(2015.5.15)
TOOLS 46  海の上でシャワーを浴びるには
(2015.6.15)

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写真:筆者本人


田中 稔彦

田中 稔彦

たなかとしひこ。帆船乗り。舞台照明家。29歳の時にたまたま出会った「帆船の体験航海」プログラム。寒い真冬の海を大阪から鹿児島まで自分たちで船を動かす一週間の航海を体験。海や船には全く興味がなかったのになぜか心に深く刺さり「あこがれ」「海星」という二隻の帆船にボランティアクルーとして関わるようになる。帆船での航海距離は地球を二周分に。 2000年には大西洋横断帆船レース、2002年には韓国帆船レースにも参加。 2001年、大西洋レースの航海記「帆船の森にたどりつくまで」で第五回海洋文学大賞を受賞。 2014年から「海図を背負った旅人」という名前で活動中。2016年に仲間と一般社団法人「スビリット・オブ・セイラーズ」立ち上げ。「日本一楽しい帆船乗り集団」と名乗って日本に帆船文化を定着させることを目指す。