ぼくの人生最高の時は2000年8月24日。朝の8時。オランダの北海に面したアイマウデンという小さな港街。天気のいい朝でした。ヨーロッパの夏は乾燥していて風は肌に心地よくて、空気は透き通っていて鮮やかな青空が広がっていました。
連載「もういちど帆船の森へ」とは 【毎月1本更新】
ずっとやりたいように生きてきたけど、いちばんやりたいことってなんだろう? 震災をきっかけにそんなことが気になって、40歳を過ぎてから遅すぎる自分探しに旅立った田中稔彦さん。いろんな人と出会い、いろんなことを学び、心の奥底に見つけたのは15年前に見たある景色でした。事業計画書の数字をひねくり回しても絶対に成立しないプロジェクトだけど、もういちど夢のために走り出す。誰もが自由に海を行くための帆船を手に入れて、帆船に乗ることが当たり前の未来を作る。この連載は帆船をめぐる現在進行形の無謀なチャレンジの航海日誌です。 |
第1話 人生で最高の瞬間
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日常に負けたくないこと
これまで生きてきたなかで最高の瞬間はいつですか?
あなたは、そう問いかけられてすぐに答えることができますか?
そして過去を振り返って最高の瞬間をためらいなく選び出せることが、幸せだと思いますか?
ぼくの人生最高の時は2000年8月24日。朝の8時。 オランダの北海に面したアイマウデンという小さな港街。天気のいい朝でした。 ヨーロッパの夏は乾燥していて風は肌に心地よくて、空気は透き通っていて鮮やかな青空が広がっていました。
その街はアムステルダムと北海を繋ぐ運河の北海側の入り口でした。 運河の入り口にある水位を調整するための2重の水門。 二つのゲートにはさまれて浮かんでいる帆船のデッキの上。水位の調整が終わって、内陸側のゲートが開いたその瞬間でした。
ぼくは32歳でした。 帆船のボランティアクルーとしてレースにエントリーして、カナダからオランダまで大西洋を風の力だけで航海しました。 そして世界最大の帆船イベント「セイルアムステルダム」にも参加しました。
日本に帰ってから、ぼくはその夏のできことを文章にまとめてみました。「帆船の森にたどりつくまで」と名付けたその航海記は、幸いなことに海をテーマにした小さな文学賞を受賞して、非売品ですが受賞作品集として本の形になりました。
なぜ、体験を言葉で残そうと思ったのか。それまで3年間、ぼくは帆船のボランティアクルーとしてたくさんの航海をしてきました。 ぼくが乗っていた船はゲストに帆船での航海を体験してもらうセイルトレーニングという事業を行 っていて、ぼくの仕事はゲストのみなさんのサポートをすること、プログラムを進行するインストラクターを手助けすることでした。
航海という非日常のなかで、たくさんのステキなできごとがありました。大切な出会いもありました。いくつもの感動もありました。けれど日常という時間に戻ってしまうと、非日常で手に入れた美しいものたちはすぐに色褪せてしまう。非日常が日常に負けてしまうこと。浸食されていくこと。ぼくはそのことが悔しくてしかたなかったのです。
だから2000年の夏が終わり秋がやってきた時、自分自身のために、そして航海を共にした仲間のために、あの夏のできごとを言葉として残しておきたいと思ったのです。 いつでもその航海をもういちど思い出せるように。
出会って失ったこと
帆船とぼくの話をします。
ぼくは15年ほど前から、本業のかたわら「あこがれ」「海星」という二隻の帆船に、ボランティア クルーとして関わってきました。 帆船での航海した距離は40,000マイル(約70,000km)を超え、1000人以上の人たちと航海を共 にしてきました。 日本だけでなくアメリカやヨーロッパ、韓国などでも帆船の航海を経験しました。
きっかけは本当にささいなことでした。たまたま書店で手に取った一冊の本。そこに誰でも乗ることができて、自分たちが船乗りになったみたいに動かせる、そんな船があることが書かれていました。その本の何がぼくの心に響いたのかは分かりません。けれど三ヶ月後、それまで海にも船にもなんの興味もなかったぼくはゲストとして海に乗り出しました。そしてそのまた半年後にはボランティアクルーとして船をお手伝いするようになっていました。
ところがぼくがお手伝いしていた船は様々な理由でどちらも運行を停止してしまいました。 2012年を最後に、ぼくは乗る船をなくしてしまったのです。
その後しばらく、帆船はぼくの人生から姿を消していました。それはそれで凪のような穏やかな日々だった気もします。海外に渡って別の船に乗ることも考えました。でももう2000年の夏のような感動を味わうことはないだろうしね。
けれど海に出ないのはなんだか少し落ち着かない気分で、だからといってヨットや客船にただ乗るのもなんだか違う気がして、そんなどっちつかずの日々が何年か続いていたのです。
2014年の春くらいから、ぼくは帆船で体験したことをいろいろな形でアウトプットすることを始めました。帆船に出会ってぼくの人生は大きく変わりました。 その経験から、セイルトレーニングと呼ばれる帆船の体験航海プログラムには大きな魅力と可能性 があると信じていました。 けれどその価値をうまく伝えることができなかったために、日本では定着することなく消えていってしまった、そう感じていました。
乗る船のないぼくは、自分にできることから始めようと思ったのです。海にも船にも航海にも興味のない昔のぼくのような人にとっても、海に出会うことがどれほどステキなことなのか、それを伝えたいと思ったのです。ぼくが帆船で暮らしていた頃の話を、届けたいと思っていたのです。
不思議なことに、そう心に決めて周りの人にも語ることでいくつかの変化が起こりました。 ORDINARYでは帆船をテーマにエッセイを書かせていただけることになりました。 イベントで海や船の話をする機会も何度かいただきました。 地方紙ですが新聞に取り上げていただいたりもしました。 自分が心を決めさえすれば。少しずつでも何かが変わっていく、ぼくは徐々にそう感じるようになっていました。
縛られていたこと、そして解き放されていったこと
どうしてまた帆船について語り始めようと思ったのでしょうか。 もう自分が乗る船もないし、人に勧められる船もないのに。
ぼくの心の奥底には2000年の夏の航海のことがずっと残ってました。 人生最高の体験をしたという思いが何年のも間ぼくを縛ってきました。何をやってもそれ以上の瞬間はやってこないのではないかと。
でも時間が経って歳を重ね、ゆっくりと気持ちが解き放されていったのです。まだ航海を体験していない人たちにも海に乗り出して欲しい、そして船でしか出会えないステキな時間と出会って欲しい。自分のことではなくみんなのために自分の体験を語り継ぐ、そんな気持ちでぼくはもういちど語り始めたのです。
2015年の夏の始まりぐらいから、小さな変化は加速していきました。 いくつかの出会いや偶然が重なり、ぼくは友人達と小さな実験をすることになりました。 それは帆船の体験航海を事業として成立させようという取り組みです。
正直、かなり無謀な話だとは思います。しかしその一方で、なんとかなるんじゃないかという自信のようなものも持っています。自信の根拠はぼくが実際に帆船で暮らしてきて、人生が変わるほどの感動を経験してきているからです。答えを、価値を、もうぼくたちは持っているのです。あとはそれをどう伝えるのか、それだけが問題なのだと思っているからです。
北米やヨーロッパの港街では、毎年夏になると帆船のイベントが開かれます。夏の初めにある港に数十隻の帆船や大型のヨットが集まりお祭りをして、次の港までレースをして、港に着くとまたお祭り。そうやっていくつもの港を帆船の船団が巡っていくのです。
たくさんの帆船が集まりびっしりとそのマストが立ち並んでいる様子をぼくは「帆船の森」と呼び、自分の航海記のタイトルにもしました。日本でも海のイベントは毎年何ヶ所かで行われています。ヨットや帆船がやってくることもあります。でもぼくがオランダで見た景色を日本で見ることはありませんでした。
これからこの連載では、帆船を使ったぼくたちの新しいチャレンジのことと、プロジェクトを進める中でぼくが感じたことを書いていこうと思っています。ぼくたちのチャレンジの究極の目標は、ヨーロッパで見たあの景色、マストが立ち並ぶ帆船の森、それを日本でも当たり前に見ることができるようにすることです。帆船の魅力を多くの人に知ってもらい、あちこちの港に帆船が出入りし、みんなが帆船の航海を経験する。そんな未来を作りたいと思います。
15年前、帆船についてなにも知らなかったぼくが航海を重ねてたどりついた帆船の森。 そしてもう一度、今度は違うやり方で帆船の森を目指そうと思います。 2000年の夏に出会った最高の瞬間ともういちど出会うために。今度はぼくだけではなく、みなさんの目の前にもその美しい景色を届けることを夢見て。
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(次回もお楽しみに。毎月10日更新予定です)
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連載バックナンバー
第1話 人生で最高の瞬間(2016.7.10)
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