面倒な映画帖35「めぐりあう時間たち」鼻は長くないといけない / モトカワマリコ

面倒な映画帖あの鼻でなくては、こんな風に悲し気に、毅然と生きるウルフを造形しえなかったのかもしれない、本当に。イングランドの緑が萌える流れにオフィーリアのように身を沈める彼女、鼻も入水していく・・・ある意味潜水艦の潜望鏡のように、

< 連載 >
モトカワマリコの面倒な映画帖 とは 

映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

 面倒な映画帖35「めぐりあう時間たち」

鼻は長くないといけない

ヴァージニア・ウルフを知ったのは、神保町の古書店だった。まだ高校生のころ、背伸びがしたくて洋書の古書店に出入りしていた。ほこりっぽい重々しい装丁の本が積みあがる。天井まで続く書棚の上の方に上がるには梯子がいる。オードリー・ヘップバーンが「ファニーフェイス」という映画で本屋の店員の役をしていたとき、黒いジバンシーのジャンパースカートがかわいかった。ここで働きたいな、同じような黒いジャンスカを着て、ポニーテールにしてはしごを上り、上のほうからオドオドする一元のお客に洋書について偉そうに講釈したい。

読者でもないのになぜかウルフ

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もの言いたげなヴァージニア

ある時、その古書店で長身で鼻が細く、顔が長い、青い目をしたおば様が、話しかけてきた。
「どんな本をお探し?英語がお好きなのかしら?」
私は思いっきり慌てふためき、とっさにイギリスの作家の名前を言う。
「ヴァージニア・ウルフ」
もちろん、ヴァージニア・ウルフの本を知っていたわけではない、でも変にご縁のある人なのだ。そことは別に、当時の私のカルチャーライフの根幹を作っていた青山の雑貨店があって、そこに「作家の肖像」というポストカードのコーナーがあった。顔が四角いヘミングウェイ、心配そうなカフカ、小林秀雄の丹精な横顔。その中にいつも在庫がない人がいて、それがウルフ。文献で調べると、鼻が長くて、いかにもイギリス女性っぽい細長い顔をしている、美人ではないけれど、なんだかさみしそうな魅力のある人だ。読者ではないのだが、つい口をついて出てしまったのだ。
「ウルフ、あなたみたいな若いお嬢ちゃんがね?どんな作品が好きなのかしら?」
一冊も読んだことがなかったので、答えようがない。原題はわからないけれど・・・とごまかそうとしたら、おば様は矢継ぎ早に題名を言ってくる。英語が聞き取れないし、よくわからない。ずんずんとコーナーに追い詰められて、最後の「××××?」という問いかけに「それです」と言ってしまった。そして当時としては大金を払って買う羽目になった。新手の押し売りだったのか、からかわれたか、懲らしめられたか?それからも毎週その店に行ったけれど、店員ではなかったのか、そのおば様には二度と会えなかった。

その本はOrlando、しょうがないので辞書を引き引き少しずつ読むことになった。最初あまりにも英語力がなくて、話の展開が奇想天外になってしまっているのだと思って悩んだけれど、持ち歩いていたら、早熟な帰国子女に「変わった本を読んでいるね、性転換の話でしょ、ウルフはバイセクシャルなんじゃないのかなあ」と言われて、性別がコロコロ変わるのは、私の英語力のせいではなくて、本当にそう書いてあるのだと思って安心したのを思いだす。

オーランドーも映画になっている。ティルダ・スティルトンが生まれ変わるたびに男になったり女になったりする主人公を演じて印象的だった。3世紀も生き続けているのに30代から年をとらない若い貴族(男性から突然女性に変身する)のシニカルな伝記。この作品は、一面ではウルフの恋人であったヴィタ・サックヴィル=ウエストの肖像でもある。ヴィタ=オーランドーは数世紀にわたる物語の中に生き、快楽や恋を楽しみ、毛皮やレースやエメラルドを付け、涙を流す。不思議な愛の物語だった。

そうそう、「めぐりあう時間たち」の話ね。

3つの時代のドラマが錯綜するこの映画は“Mrs. Dalloway said she would buy the flowers herself.”という小説の冒頭から始まる。構成からしてウルフの代表作「ダロウェイ夫人」へのオマージュになっており、ウルフもヒロインの一人。神経衰弱を患ったウルフが川に沈んで命を絶つまでの物語と、別の2つの命をめぐる女性たちの物語。この入水シーンはラファエル前派のミレイの「オフィーリアの死」そっくりに作っていて、アメリカ資本だけどイギリス映画ですから!と主張していたりするようだ。

3人のヒロインは違う時代を生きているのだけれど、物語は唐突に始まり、消えそうな細い糸で結ばれている。脆いつながりは、蜘蛛の巣が光って存在を示すように、物語の進行とともにチラチラ見えてくるのが面白い。

原作がマイケル・カニンガム、監督はスティーブン・ダルトリー。世の中の常識と個人の人間性の葛藤を描くのが得意。世の中からあてはめられた役割を演じきれない人物を描くことに定評のある表現者だ。自分であることと、世間の常識が微妙に合わない。表立って声高に抗議するのか、誤解と大雑把な解釈を甘受して適当に応対するのか。あきらかに違うこと、変わっていること、アウトサイダーだということを埋め合わせる方法はあるのか。ここは自分の住む世界じゃないと思いながら、生きていることに救いはあるのか。映画を見ながら、ずっとそのことが頭の中をぐるぐる回る。

そして映画は終焉にむかって進み、時間の経過とともに、疲弊した異端者たちがそれっと威勢よくぐるぐる回る地球から脱落していく。2人目の自殺者は古いフランス映画でジャック・ベッケルの「モンパルナスの灯」をイメージさせる。美しいアヌーク・エーメ演じる画家モジリアニの妻ジャンヌが窓枠から後ろ向きに落ちて死ぬというシーン。話の途中で急に背中から投身するなんて、だれが予見できるだろうか。世間話の途中で、なんの予兆もなく、ただ窓から身を投げ出す・・・人間の命はなんて簡単にダメになってしまうのだろうか。

つけっ鼻効果で見えることもある

しかし、この映画の最大のポイントはウルフを演じるにあたり、演じるニコール・キッドマンは美貌すぎるからと、つけっ鼻をして演じたといことだ。ニコールだと知らなければ、似た女優だと思うだろうというくらい巧な美粧。違う役でメリル・ストリープが出演しているが、彼女のほうがウルフに似ている。ニコールはこの役が欲しくて「つけっ鼻OKです!」と申し出たのだろうか。そんなにしなくても演技力で、とかいう監督に「いいえ、絶対につけっ鼻が必要ですから!」とか言い募ったのだろうか。
鼻の他は別に似せていないのに・・・そういえば、青山のポストカード売り場でも、ウルフだけが売り切れ。ハリウッドの美女がわざわざ鼻を足して「細面に長すぎる鼻」という顔になろうとする理由がわからない。細くて長いウルフの鼻がなくては彼女の文学性やガラス細工のような感性を表現しえないのだろうか。

もしニコールがつけっ鼻をしなければ、ウェルメイドの文芸作品だとは思っても、これほど心ひかれることもなかった。ショッキングなシーンが数多くある中で、ニコール演じるウルフのシークエンスはひときわ美しい。感情の微妙な波がこちらまで打ち寄せ、胸が締め付けられる。表情ひとつひとつが、焼き付けられたように印象に残る。あの鼻でなくては、こんな風に悲し気に、毅然と生きるウルフを造形しえなかったのかもしれない、本当に。イングランドの緑が萌える流れにオフィーリアのように身を沈める彼女、鼻も入水していく・・・ある意味潜水艦の潜望鏡のように、笑うに笑えないイギリス人の暗い冗談なのか。まさにアンビバレンツな哀しみ、つけっ鼻すごし。

かつて洋古書店で私に無理やりウルフ本を買わせたおば様も、細い顔を分断するほどの長い鼻をしていた。ヴァージニア・ウルフにまつわる事柄は、都市伝説のように私を薄暗いナゾに引き込む傾向がある。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在は、ウェブサイト、月刊誌プレジデントウーマンでライターとして、文化放送で朝のニュース番組の構成作家としても活動。趣味は映画と声楽。二児の母。