だからスーパーマーケットは危険なのだ。フランスの恋愛番長フランソワーズ・トリフォー先生も同意見、恋をするならスーパー。あそこには滅多な相手と行ってはいけない、深みにはまる危険がある。
< 連載 > 映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。 |
面倒な映画帖33「隣の女」
激しい恋はスーパーで
家の近くに葦原の広がる沼がある。ちょうどよい長さの遊歩道に囲まれており、よく散歩をするのだが、ある夕方、沼に向かっておかれたベンチのそばに、前後にチャイルドシートをつけたママチャリが停めてあった。19時すぎ、すでに暗い。男女が寄り添って座っているのが見えた。男は女の頭をヘッドロックのように抱きかかえて、熱烈に寄り添っている。
前椅子が1歳、後ろが3歳だとして、まだ幼い子どもの母親なのだろう。シングルマザーが子どもを預けて恋人と会っているのだろうか、不倫だろうか。二人の子どもは家で夫が見ていて、彼女は何か口実を作って、沼に来ているのか。レジ袋からはみ出る大根やお得用のコーンフレーク、生活感満載の自転車の真横で熱烈、現実は映画より奇なり、会いたい男女は誰にも止められない。
だからスーパーマーケットは危険なのだ。彼らは近くのスーパーで買い物をした帰りに、こんなところで熱烈な時間をすごしている。フランスの恋愛番長フランソワーズ・トリフォー先生も同意見、恋をするならスーパー。あそこには滅多な相手と行ってはいけない、深みにはまる危険がある。
無垢だけど悪
代表作「隣の女」は、元カノが、妻子と暮らす幸せな家の隣に引っ越してきて、男の家庭生活を吹っ飛ばす話・・・スキャンダラスなメロドラマのようだが、描きたかったのは純粋な恋愛。とりわけ魅力的で、一つ間違うと破滅に向かうような危険な恋の実証実験のような映画ではないかと思う。ドラマの衝撃的な結末がどのように醸成されていったか、時間を辿ると面白い。一度結末を味わい、また初めから見ると、破滅に向かう「予定不調和」のスイッチがカチッカチッと入って、路線が切り替わっていくのがわかる。昔の恋人との再会は彼女にとって緩慢で甘美な死刑のようなものだった。そこから逃れようとすると同時に近づこうとする矛盾と苦しみ、感情の乱高下が見て取れる。でも、ある時マチルドは、自分がよくある不倫劇の淫猥な「隣の女」にすぎないという客観的な事実に衝撃を受け、葛藤し、精神が壊れてしまう。反省して是正すればいいじゃないか、意志の強い人はそう思うだろう。だらしないだけだ、マチルドがバカなのだ。薄弱なのだと。
ここがポイントなんだけど、監督は細心の注意を払い、ヒロインを少女のように無垢で、自堕落さがなく清潔で、賢くて、仕事もできる大人の女性として描いている。美人すぎないのもいいところだ、内面の豊かさや、独特な魅力がよくわかるから。そんな女性が叶わない恋のためにすべてを捨てて、社会の最暗部に真っ逆さまに落下、社会悪を引き起こし、とんでもないカタルシスを噴き上げる。
初めに見た頃は子どもだった。既婚者が過ぎた恋に固執する不潔な話が不快だった。「偶然よ」というけれど、リッチで寛容な年上の夫がありながら、わざと前の男の家の隣に越してきて、戯れに嘘ばかりついて、身勝手な女だと思った。でも大人になって観ると、マチルドが隣の家の階段を下りてきて、画面に現れてから、映画が終わるまで、彼女の迷いや刺すような心の痛み、やさしい感情の機微をすぐそばで味わいながら、彼との恋がよみがえる可能性があるだろうか、周囲を傷つけない方法があるだろうか、引き返す道はないか、と思いを巡らしている自分に驚く。そう願っても、時には正しく生きられないこともある、衝動的に動くこともあるし、嘘もつく、そういう愚かな行動から、少なからず苦い水を飲んだ経験があればこそ、感知しうる微妙な味わいがある。
スーパーラブパワー
結局よりを戻してしまったきっかけはスーパーマーケット。どんなスープを買うのか、山盛りのリンゴからどれを選ぶのか、買い物は個人情報の宝庫だ。お互いが何を選ぶのか、観察しながら、あたりさわりのない会話をして、横並びに歩いていると、共同作業をしているような錯覚がおこり、脳が勝手に「仲間」として認識してしまうんじゃないだろうか。スーパーにいる理由はお互いが目的ではないから、罪悪感は薄いが、一緒にすごすことには変わりない。時間は魔性だから、お互いの存在を感じながら何気なく店内を歩き回っているうち、付き合っていたころの空気がよみがえり、一緒に過ごしていた時間が戻ってくる。ダメだ、ここは、来てはいけなかった。
疑うなら、気になる相手とスーパーマーケットに行ってみるといい。並んで歩いて相談しながら商品を選んだり、広いスーパーでそれぞれの目的のためにいったん分かれて、また合流するとき、無意識に相手を目で探すはずだ。そういう行為の繰り返しは、カップル行動そのもの。それを何度も脳に経験させると、いやおうなしに親密さが生まれてしまう。そうじゃないなら、よほど脈がない。
今にも崩れそうで目が離せない
トリフォーはどんな魔法を使ったのだろう。何度も観ている映画なのに、今度こそは、マチルドも破滅しないかもしれない・・・という気がしてしまう。映画の中の女性がまるで生きている人間のように、前とは違う選択をする可能性を感じてしまうのだ。そして不幸な結末に向かうに決まっているマチルドは、運命に向かいながら、美しい。「ラガール街37番地に6時、着いたら18号室に」南仏プロバンスに行くことがあれば、ぜひこの場所に行ってみたい。ここが発端でマチルドの苦しみは増大していく。泣きはらしているのにあでやかで、輝きも影もより色濃く生きている。
監督が彼女を愛し始めているから、たぶんそうなのだ。考えうる限り最悪の不幸に引き裂かれる涙が見たい、少女のようにはしゃぐ姿を撮りたい、追い詰められた狂気の表情を見てみたい、こんな姿、あんなシーン、彼女のすべてを自分の映画に刻もうとする貪欲さがマチルドの魅力、映画の魅力でもあり、ファニー・アルダンという当時まだ無名な女優を花開かせもした。
関係者をすべて不幸にするほどの関係、この恋がそうまで強大であるからこそ見ごたえがある。この映画史上に残る陰惨なラストシーン、銃声がひびき、パトカーが押し寄せるこれ、登場人物の人生をことごとく破壊するこの結末が、唯一のハッピーエンドらしき選択ということだ。迷惑な話だけれど、当事者にとっては、世間的な不祥事が不幸とは限らない、狭い選択の中で、もっとも幸福な方法が、超インモラルなこともありうる。ただただ恋愛至上主義のトリフォーは、愛らしく恐ろしい女、監督の思う究極の「女」のために、永遠に終わらない熱病のような恋愛を凝結してみせたのだ。
人に迷惑をかけずに静かに生きること、それは圧倒的に正しいし、そうすべきだと思う。だだ、「わかっちゃいるけど、どうしようもなかったの!」そう叫ばざるを得ないような相手と出会ったら、抵抗するのは難しそうだ。そんな甘美な味の濃い経験に翻弄される気があるなら、安全な練習台ということで、配役といい、設定といい、本作は観ておいて損はない。