本を読んでも内容を忘れてしまう
それでも読む意味はあるのか?
本がなんだかカッコ悪かった年頃に
どうも記憶力が弱いようで、読んで1ヶ月もたつと内容の9割以上を忘れてしまう。この性質が、20代前半のぼくを多いに悩ませたものです。
就職し働きだして、同僚や上司に「深井はけっこう本を読んでいるらしい」と 広まってしまったことがありました。自分が “本読み” であることはずっと隠していたんです、学生時代から。「本が好きで、よく読んでいる」これってなんだかインドア人間のようで恥ずかしいという気持ちがあったからです。
クラスのみんながテスト前に「おれ全然勉強してねーよ」「おれもやばいよー」という中で、無言で最高得点をたたき出すガリ勉タイプっぽいというか。少年時代、放課後みんながサッカーや魚採りして遊んでるのを横目に、ひとり進学塾に通っている子、もしくは進研ゼミをやっている感じ。
「本を読む=真面目な優等生(暗くて眼鏡)」
男子としてちょっとカッコよくない、という偏見がぼくの中にあったのです。まるで隠れキリシタンのごとく。「本読み」であることが発覚しないように、世間話で本の話題なんて出しませんし、学校や会社で本を開く姿は決して見せません。でも、キリシタンは目を見るだけで、同類がわかるんですね。大掃除のときも処分する本を投げたり、ぞんざいに扱うことができない後ろ姿に、「もしやこの人もキリシタンか」とわかったり。やっぱり踏み絵は踏めません。本を重ねてベッドをつくり寝てたことはありますが、足で本を踏むのは抵抗がありますね。こっそりキリシタン同士「ああ、キミもなのか」「内緒ですよ」という会話はたまにですがありました。でも基本はひとりでこっそり本読み活動です。
「本を読むのは文化的行為。お洒落ピープルでさえある」
そんな風に認められてきたのは、「眼鏡はファッションであり、お洒落アイテムである」と受け入れられるようになってきた時期と重なるような気がしています。小中学校のころ、80年代後半は、「眼鏡はダサい」。あだ名は「眼鏡くん」と自動的にされてしまったものです。ぼくも視力が悪く、黒板の字がまったく読めないほどだったのですが、意地でも人前で眼鏡はかけないようにして、やせ我慢していました。
隠れキリシタン発覚以降
そうやって「本読み」であることも隠してきたのですが、まわりに発覚してしまったのは、就職の社長面接で本の話題になってしまったからです。本好きで有名な社長の話に、リアクションできてしまった。それに驚いた人事課長が「新人の深井はすごく本を読んでいる!」と会社中に広めてしまったのです。
すごく本を読む新人。月に300冊は読んでいる、みたいな尾ひれがついた紹介のされ方なものですから、先輩たちはいろいろ本について話をしてくるわけです。
「部長がすすめる『達人のサイエンス』って、どんな本? 」
とか聞かれるわけですが、
「すごくいい本です。でも、細かい内容忘れました」
「なんだよ、読むのめんどくさいから、要点教えてくれよ」
「たしか、ざっくりいうと、階段の踊り場に耐えろって話っす」
「わけわからん。それだけ? 200ページもあるんだから、他にもっとあるだろうよ」
「うーん、覚えてないっすね。すごくいい本、読んだ方がいいってことは確かです」
「だから、読むのめんどうだから聞いてるんだよ」
うまく全然レビューができないわけです。「いい本です」とか「特に響かなかったです」くらいは覚えているんですが…。
いよいよ先輩に
「おまえさ、そんなに読んでも忘れてしまうんじゃ、意味ないんじゃないの?」
本を読んでる暇があったらもっと生産的な仕事をすべき、のようなことを言われてしまって、ショックを受けました。
ぼくが本格的に本を読み始めたきっかけは、人生の進路に悩んだ18歳のころでした。何かヒントを、と思って本屋に通うようになったのですが、次第に本を読むことそのものが楽しくなってしまいました。単純に趣味なのです。生産性とか考えていない。
でも、先輩の言うことも、たしかにそうかもしれない。新人は素直ですから、「そうか、ビジネスマンたるもの、生産性のあることに時間を使わないといけない」と。これからは、読んだ本の要点を忘れないようにメモしよう。せっかくメモしたならもったいないから、人にも見せようか(もうキリシタンであることはバレたし、開き直った)。そして読んだ本のレビューを「深井通信」という手作り新聞にして、営業先のお客さんたちに配って歩くようにしたこともあります。
「うちの社員たちにもコピーして読ませてるよ」
毎度楽しみにしてくれる社長さんがいるくらい、まずまずの好評だったのですが、新聞は半年しか続かなかった。その理由は、「メモをとっても相変わらずすぐ忘れてしまったから」です。それに本を読むのが義務みたいになって楽しめなくなってしまったし、レビューという執筆スタイルがぼくにとっては難しく、体力的に続かなかったということです。
どうせ忘れてしまうのになぜ読むのかの答え
現在はというと開き直って、忘れない努力は特にしていません。人間の記憶のキャパシティーは限度があって、古いものは忘れるようにしないと新しいものも入ってこないだろうし、溜めないで流す。これが健康的な気がしているからです。
本は、人それぞれ自由に使えばいいのです。受験勉強じゃないんだから、教科書の隅々まで記憶するだけが読書じゃないです。もちろんそういう使い方があってもいいですが。
どうせ忘れてしまうのになぜ読むのか。その質問にいま答えるとすると、ひとことでいうと「健康のため」という気がします。内容を覚えるために読んでるわけではないということです。
ランニングとかエクササイズと同じ。体と同じように、考える力も使わないと衰えてしまう。できれば毎日ストレッチした方がコンディションがいいですよね。
最初、痩せるために始めたランニングだったけど、次第にランニングそれ自体が楽しくなって、痩せるとかどうでもよくなって、ただ好きだから続けている。 ランニングってめんどうだと思うこともあるけど、走り終わったら気持ちいいですよね。その気持ちよさにハマってしまう。ぼくにとってランニングも本のリーディングもライティングも、そういう感じです。なので、読んだ内容忘れたっていいや、これ以上痩せなくてもいいやと思っています。
本を読むと、心も思考も動きます。共感したり反論したりして、凝り固まった部分がストレッチされやわらかくなります。それが気持ちいいし、体調が整うし、だから続けてる。
料理をよくする人も、過去つくったレシピを全部覚えているわけではないですよね。それでも、つくって食べたものは、血肉となってその人のカラダをつくっている。確実に影響しているわけです。レシピは忘れても、次につくりたいときにパッと料理本みると思い出してすぐつくれますね。
ぼくも、その本をパラパラめくれば、はいはい、こんな内容だったと思い出します。本の装丁の役割も大きいですね。表紙デザインに特徴があることで、読んだときの記憶がよみがえったりするので。新書など特徴のない装丁だと、いまいち記憶に粘りません。
「えーと、タイトル思い出せないんだけど、たしか、あのオレンジの本」
「あー、『バカをつくる学校』?」
「そう、それだ!」
タイトルは忘れても表紙の色は覚えていた、ということが最近もありました。
そもそも本を読むのは体にいいことばかりなのか
健康のために本を読む。そんな話をしましたが、ランニングもやり方を間違えればケガにつながるように、本が体にいいことばかりなのかと言ったら、それも違うように思います。すべてのものには光と陰。本にも毒の部分がある。
学校の先生たちは、本を読みなさいと勧めます。心が豊かになるとか、知識が増えるとか、考える力がつく、というような理想ばかり語りがちです。もちろん、本の恩恵は多くありますが、薬になるものは毒にもなる。これが本当のところです。薬にしかならない、なんて薬はない。
ある知識を入れると、それを知らなかった頃のようにはなかなか振る舞えない。知ると確実に何かが変わってしまうのです。知らなかった方が幸せだったという人もいます。
「宝物は山頂にある。だから脇目もふらず登れ」
そう学校で教えられて信じてきたけど、本を探して読めばその山頂に登った人の経験談が書かれているわけです。しかしなんと「山頂にはその宝はなかった… 」それがわかってしまったら、もう登る気持ちが萎えてしまいます。
かたや何も知らない人は、盲目的に宝を目指して山を登る。そして、ついには山頂に届かなかったけど、9合目までは来れた。それまでの道のりが思い返せば「充実して楽しかったな、自分も成長したな」そうやって死ぬ人生の方が、幸せかもしれません。
目指しているものが山頂にはない。それを知ってもなお登ろうと思えるか。知ってしまったことをいったん知らなかったことにして登るのは、上級者にしかできません。まるで台本がないかのように自然に演技できるベテラン俳優のような技術が必要です。
知るが故に、リスクがみえて行動が止まることも多くなります。でもその先を知れば、一周まわって「リスクなんてない、行動しよう」とわかったりします。
わかりやすいところでいえばオカルトや陰謀論も、ハマりすぎて日常生活とのバランスがとれなくなる人もいます。知りすぎたがゆえ、すべてが陰謀に見えてしまったり。オカルト研究に没頭しすぎて、仕事に支障をきたす人もいる。
「本を読まないけど幸せな人」は、「本を読んでいて幸せな人」と同じくらいいるのです。
本は旅と似ていて、美化されています。「かわいい子には旅をさせよ」と教育現場でも旅を奨励します。もちろん旅にも恩恵はありますが、それがきっかけで人生が狂ってしまう人もいる。アジアを放浪して無気力になり沈没する人も少なくないし、うかつに危険地域に入り被害に遭うこともある。会う人間も良い人ばかりではなく、信じられないほど凶悪な人もいるものです。防衛本能や直感を総動員しないと、危険がともなうのです。
本も同じ。人間が書いているので、良い作者ばかりなわけはありません。そこをもし「本を書く人は素晴らしい人格者ばかりだ」と妄信しているとしたらあぶない。本は、著者の独断と偏見の塊です。著者本人は読者の幸せを願って書いているつもりかもしれませんが、それが人によっては濃い毒になることもある。 「みなさん、本を読むことは良いことですよ」そう手放しに勧める学校の先生は、あまり本を読んでいない人かもしれません。「毒もある。それを覚悟して慎重に読書をしなさい」油断するなよと、入門者にはおしえておきたい。
「だれかを好きになるのは素晴らしいことです」
そう金八先生は長髪をかきあげながら語りますが、でも悪い恋人にはまってしまったら、人生狂ってしまうから慎重にね、ともアドバイスするのと同じですね。恋愛だって命がけ。なのに「本だけは安全」なんてことはないのです。
記憶のツボは、それぞれ違う
今日は、「本と記憶」の話をしています。記憶力のある人とない人がいるのではなくて、だれもが記憶力はある。ただ、「覚えている部分がそれぞれ違うだけかもしれない」と、このごろ気づいてきました。
たとえば、2人が同じ本を読んでも、印象に残る「記憶のツボ」は違います。ストーリーの流れがよかった、と覚えている人もいれば、短い一行、こんな名言、名ゼリフがあったことを覚えている人もいる。
映画でも、全体の流れは覚えていないけど、1シーンを覚えていたり、もっと短い1カットだったり、音楽を覚えている人、役者の表情を覚えている人、セリフだけ覚えている人など、その人の特性によって興味ある分野、ツボ、フェチが違うんです。
あるコピーライターは、短い文章。セリフだったり、1シーンをよく覚えていました。「うまい言い回しだな」とか。
ある写真家は、1カット。「ああ、この構図は美しいな。そして光も、背景処理も素晴らしい。表情もいい」と。1カット1カットは鮮明に覚えているのに、ストーリーは「なんだったっけ?」ああ、だからこの人は写真家なんだな、と感心しました。
ぼくの記憶のツボは、「圧」でしょうか。内容はぜんぜん覚えていないけど、作品全体として「圧があったか」は覚えています。圧とは、エネルギーがつまっていたか、それがこちらに迫ってきて強いインパクトを与えたか。ということです。何が書いてあったか覚えていないけど、圧を感じたことだけは確か。だから感想は、「すごかった」しか出ないことも多々あります。たとえば、親に何をしてもらったか細かく覚えていないけど、愛情のようなものを受けとっていたことだけは確か、という感覚。
それを考えると、「自分が興味あるのは圧なんだな」とわかりました。圧があるものをつくりたい。それが本づくり、学校づくり、メディアづくりであったりするわけです。
あとは、本でも映画でも、「内容」よりも「反応」を重視しています。内容を記憶する気はさらさらなくて、本を読んでそれをトリガーにして、自分の頭にひらめいたものが重要。だから内容は覚えていないけど、その当時の自分の感情や考えたことは覚えていたりします。
本でも内容は難しくてせんぜん理解できないけど、圧は感じる。説明できないけど、なんだかすごい! という本もある。でも何度トライしてもなに言ってるのかわからない。
だからぼくが本のレビューをすると、「とにかくすごい」の一言で終わるか、本の内容紹介とはまったく関係ない(自分の中では関連しているのですが)、ただのいつものエッセイになってしまうので、他人にはほとんど参考にならないことも多いのです。「本について書かれてない!」と言われてしまうわけです。だから申し訳ないので、アマゾンレビューも書いていません。レビューは苦手、批評家や書評家には向いてない気がしています。
というわけで今日はこの辺で。「どうせ忘れてしまうのに本を読む意味があるのか」と聞かれたら、あなたならどう答えますか?
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PHOTO: Muxxi.