スポールボーイズ 【最終話】 僕が『スポールボーイズ』に感じた未来 / 森川寛信

世界最古の球技スポールブール週末日本代表森川寛信のスポールボーイズ

この10年間ずっと回ることがなかった歯車。押せども引けどもついに僕には回すことができなかった歯車が、ゆっくりだがたしかに回っていくのを感じた。「自分が辞めたらこのスポーツは日本からなくなってしまうのではないか」そんな危機感から、僕はようやく自由になれた。

連載「スポールボーイズ」とは  【全5話完結】

「いつか何かで世界一になりたい」少年のころ、だれしも一度は夢見たことがあるのではないだろうか。むろん、今では照れて口には出せないが。「実は会社勤めをしながらでも日本代表になれるスポーツがあります」森川寛信さんは、スポールブール日本代表となり世界ベスト10を達成したことがある。週末だけの活動でも、やり方次第で日本代表になれるのだ。今回は、とうにボーイズとは呼べない年齢の男たちが、さまざまな動機で集まった。自身の誇りと、少年時代の夢と、日の丸を背負って世界を目指す。スポールブールとは世界最古の球技だが、日本では超マイナースポーツと言っていい。なにせ競技人口は全国でたったの20名ほど。「絶滅危惧種」として存続が危ぶまれている。そんな日本チームが世界で勝ちにいく。彼らが目指す舞台は9月下旬にクロアチアで開催される世界選手権。はたして世界ベスト8の壁を突破できるのか。世界一に憧れるすべての大人たちへ贈る、現在進行形スポーツドキュメント。

 

最終話 僕が『スポールボーイズ』に感じた未来

 

TEXT & PHOTO 森川寛信

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世界選手権閉幕から僅か2週間後、リエカの興奮冷めやらぬ 2015年 10月 11日のことだ。小牧のコメダ珈琲で手短にモーニング を済ませた僕は、とある場所に向かった。到着するやいなや、目の前に広がる異様な光景に僕は思わずこう呟いた。

「おいおい、冗談だろう…… 」

 

僕がクロアチアで感じたものは、他ならぬ敗北感だった。

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このスポーツの普及に尽力した僕の2年間は間違いだったのだろうか。その答えが知りたくて、僕は愛知県小牧で開催されたスポールブール世界選手権に足を運んだ。僕の知る限りでは、日本選手権が関東以外で開催されるのは初めてのことだ。一応、スポールブールから派生した兄弟スポーツであるペタンクの日本選手権と共催という仕立てだが、全国 47都道府県から100人を超える地区代表が集うペタンク日本選手権の片隅を間借りしているのが実態だ。

ペタンクの日本選手権が、各都道府県大会の覇者にしか参加資格が与えられないのに対して、スポールブールの日本 選手権は、いきなり本番だ。ただし、今回は開催地が小牧で遠いということもあり、名古屋以外からは、上位を狙えない 選手は出場を自粛した節もある。最終的には、地元愛知県以外にも東京、大阪、石川、岡山など全国9都道府県から計 21名のエントリーがあったと聞いていた。

ところが、選手受付開始時間の朝9時を 30分ほど過ぎて到着した僕が目にしたのは、200名を超えようかという女子応援団だった。どうやら、愛知県のローカル局のテレビ番組で、「地元で有名な男性アイドルグループがスポールブールで日本代表にチャレンジする」という企画が進行していたらしい。今回出場する男性アイドル2名の応援団として、200名近 い応援団が駆けつけたというわけだ。

 

朝9時半の時点で、既に 200 名近い応援団がスタンバイしていた。

朝9時半の時点で、既に200名近い応援団がスタンバイしていた。

 

1983年に日本に初めてスポールブールを持ちこんだ日本ブール界の「ゴッドファザー」の開会宣言で、日本一への火蓋は切って落とされた。

おそらく、クロアチアにも出場した2名のベテラン選手を、弓倉、中島、渡辺、大木の4名が追いかけるような展開になるのだろう、と僕は予想した。これら4選手の後を追うようにはじめたその他大勢の選手たちの中には、僕は面識のない人も少なからずいた。アイドルズが日本代表になれるかどうかは僕にとってはどうでもよく、彼らスポールボーイズ予備軍がどこまで食い下がれるのかが僕の興味の対象だった。

ところでノーマークだったアイドルズは、ダンスもこなすアイドルグループだけあって筋がよく、数ヶ月間名古屋支部で意外にきちんと練習を積んでいたようだ。アイドル特有の本番強さと、応援団の黄色い歓声も手伝って、指導を担当した実力的には遥か格上の名古屋支部長に、予選の一発勝負では肉薄するという予想外の健闘を見せた。

 

予想外の活躍を見せたアイドルズ。あと1年続ければ日本代表も夢ではないかもしれない。

予想外の活躍を見せたアイドルズ。あと1年続ければ日本代表も夢ではないかもしれない。

 

手描きの看板持参で応援にきたアイドルズのファンの皆さん。

手描きの看板持参で応援にきたアイドルズのファンの皆さん。

 

そんな賑やかしも終わり、淡々と予選ラウンドは進み、惜しまれながらもアイドルズの出番は終わった。そして、テレビ局の 仕切りで大会終了であるかのようなアイドルズからの応援の御礼と記念撮影という盛大な中締めが行われ、三々五々ファンは帰り、やがていつもの光景に戻った。

なぜか中締めで記念撮影。僕の知る限り、スポールブール日本選手権史上最多動員数を記録した。

なぜか中締めで記念撮影。僕の知る限り、スポールブール日本選手権史上最多動員数を記録した。

 

 


そして、決勝ラウンドの幕が開けた。

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スポールブールの華ともいえるのは、「プログレッシブ」という5分間走りながら目標球に向かってボールを投げ続けて何球当 たったかを競う種目だ。優勝候補筆頭は、クロアチア世界選手権にも出場した当時の日本記録(30点)ホルダーであるベテラン選手で、この種目においては「レジェンド」とも言うべき存在だ。日本選手権のプログレッシブ部門においては過 去8連覇中と向かうところ敵なしだ。

しかし、ここで異変が起こる。予選ラウンドを1位で通過したのは、一年前にスポールブールをはじめたばかりの新人 M だった。「スポールボーイズ」連載開始時には、僕自身も全くノーマークの新人だった(ゆえに第1・2話で取り上げることもなかった)が、持ち前のセンスの良さに加えてこの半年間の熱心な練習の賜物で、クロアチアにこそ間に合わなかったものの一 気に頭角を現してきた。

 

決勝ラウンドに備えてリラックスする新人 M。

決勝ラウンドに備えてリラックスする新人 M。

 

決勝ラウンドに駒を進めたのは5名。本当は4名に絞られるところが、タイスコアの影響で5名が選抜された。優勝候補 のレジェンドに加え、この連載でも特集した弓倉と大木。そこに新人 M と新人 K が食い込んだ。決勝ラウンドの投球は、 予選ラウンドのスコアが低かった選手から順に行われる。4名まで投球が終わり、予選ラウンド1位通過(17点)の新 人 M を残すのみとなったところで、レジェンドと新人 K が 11点という低調なスコアで1位タイという誰も予想しない展開となっていた。

 

 

「新しい時代ですよ、超えましょう、超えましょう」

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誰からともなくそんな掛け声がはじまり、やがて会場全体を包んでいった。このスポーツの新しい時代を担う「こちら側」の選 手たちと、これまで担ってきた「あちら側」の選手たちのせめぎ合いだ。この2年間「こちら側」の選手たちを応援してきた「あちら側」の僕は、複雑な想いでその場に居合わせた。新人 M の「当たり」を喜び、「外れ」に安堵する、自己矛盾に満ちた 苦しい5分間だった。結果、会場の期待を一身に背負った彼のスコアは僅か「3」に終わった。結局、タイスコアではあるも のの、11点取るのに 40球投げた新人 K と 39球しか投げなかったレジェンドの僅かなヒット率の差で、レジェンドのプログ レッシブ9連覇が決まった。

応援団はいなくなり、いつもの張りつめた空気が戻ってきた。

応援団はいなくなり、いつもの張りつめた空気が戻ってきた。

 

レジェンドの「11」というスコアは、おそらくはフォーム改造中のブレにすぎないのだろう。世界選手権の疲労が残っていたことも想像に難くない。また、新人 M が予選ラウンドで出した「17」というスコアも、おそらくはマグレの範疇なのかもしれない。そんなブレやマグレが今回の「あわやドラマ」を演出したわけだが、革命なんていつの時代もほんの小さなブレやマグレからはじ まる。今回たまたま、レジェンドを追い込んだのは新人 M だった。流れによって、それは弓倉や中島でもありえたし、面識のない新人 X でもありえたのだろう。ただ、それが僕や他のベテラン選手ではなく、「スポールボーイズ」であったことに大きな意味がある。

2017年カサブランカで誰が日の丸を背負うのかは、現時点では全く予想できない。ただひとつ言えることは、これからスポールブール日本代表の座を巡るたたかいは、一気に戦国時代に突入することになる。僕らが過去 10年間築いてきた「幕府」は、2015年 10月 11日をもって倒れたんだ。

10年以上前に僕がスポールブールをはじめたときは、50人以上の愛好者がいた。ところが、ひとりまたひとりと、僕らのもとを去っていき、気づけば急速に過疎化が進行した。そして誰もいなくなった。失われた 10年の如く、この 10年間ずっと回ることがなかった歯車。押せども引けどもついに僕には回すことができなかった歯車が、ゆっくりだがたしかに回っていくのを感じた。

「自分が辞めたらこのスポーツは日本からなくなってしまうのではないか」そんな危機感から、僕はようやく自由になれた。同時に、僕がスポールブールにできる役割なんてもうないのだろうと直感的に悟った。

 

帰りのフライトで、様々な想い出が僕の胸をよぎった。

・ まだ学生の頃、いつか出場できるかもしれない世界大会を夢見て、卒業旅行の最中にギザの砂漠でピラミッドを横目に投げ込んだこと。

・ 同じく卒業旅行で3ヶ月ほど滞在したウガンダの娯楽がない町で、ただの暇つぶしのつもりで開催したものの100名 近くが参戦し熱戦を繰り広げたウガンダチャンピオンシップ。

・ 初めての世界選手権で日の丸を背負ったらいきなりサイン攻めにあった、イタリアのトリノ。

・ 過去 23年の日本スポールブールの歴史で初めて世界 10位になることができた、ボスニア・ヘルツェゴビナのグルーデ。

・ スポールブール留学と称して、長い休みのたびに隣国オーストラリアや中国に遠征にでかけたこと。 事実上の監督不在の中、試合開始数時間前に選手同士の直接対決という異例の形でダブルス出場資格を掴んだ、フランスのマコン。

・ 兄弟スポーツであるペタンクの国際審判員試験でタイのパタヤの海軍基地に派遣され、「試合中にコートに犬が乱入した場合にどうジャッジするか」という無理難題を国際協会会長相手に口頭諮問で必死に回答したこと。

・ わざわざ地球の裏側まで両親に応援に来てもらい勝利をプレゼントできた、アルゼンチンのバイアブランカ。

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スポールブールをはじめてまだ日が浅いころ、ウガンダの田舎町で、毎日小舟で往復4時間かけて広大な湖に浮かぶ無人島に「通勤」する日々を1ヶ月間ほど過ごした。照りつける太陽に、代わり映えしない景色。通勤のお供に毎日持っていった1房 20本のバナナや巨大なジャックフルーツは、まだ若かった僕らの空いた腹に瞬く間に消えていった。いよいよ舟を漕ぐ以外にやることも話すこともなくなったとき、僕らの話題は決まってスポールブールだった。

 

「これからこのスポーツは僕らが担っていくんだ」

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あるときは突然の降雨で転覆しかけ、あるときはすっかり暗くなった広大な湖の中で迷子になった。そんな状況下においても、不思議なことにスポールブールの話は尽きなかった。あのとき、これから10年の夢を語り合ったことを僕は決して忘れないだろう。

 

あれから10年が過ぎた。僕は、自分の役割の終わりを確認して、このスポーツから離れることにした。たまたまこのスポールブールという名もなきマイナースポーツと出会ったおかげではじまった、日の丸を背負った 10年以上に渡る不思議な世界旅行。おそらくこれから2020年に向けてスポールブール日本チームは大きく飛躍していく。

肩を並べてその景色を見られない心残りもあるが、いまはただ、自分を育ててくれたこのスポーツと、これまで共に戦ってきた仲間たちへの感謝しかない。

 

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<最終話、完>

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 連載バックナンバー 

第0話 僕がスポールブールを辞めた理由(2015.3.1)
第1話 僕がクロアチアを目指す理由 <前編 / 弓倉、中島の場合>(2015.4.15)
第2話 僕がクロアチアを目指す理由 <後編 / 渡辺、大木の場合の場合>(2015.10.21

第3話 僕がクロアチアで感じた敗北(2017.1.15

 


森川寛信

森川寛信

(もりかわ ひろのぶ) 週末日本代表。 1981年、東京生まれ。大手ゲーム会社に勤務する傍ら、世界最古の球技「スポールブール」日本代表として、2005年から2013年まで5回連続世界選手権出場。(2007年世界10位)仕事ではゲームクリエイターとしてアーケードゲーム開発に携わった後、現在はインドネシア・ブラジルなど新興国市場開拓業務に従事。「大きく学び、自由に生きる」がテーマの学び場「自由大学」にて、「じぶんスタイル世界旅行」http://freedom-univ.com/lecture/world_travel.html)の講義を担当。海外出張、スポールブール遠征、世界放浪、世界一周新婚旅行などで訪れた国は50ヶ国以上。学生時代から「マインドマップ」を愛用しており、2013年に英ThinkBuzan公認マインドマップインストラクター資格取得。2005年慶應義塾大学商学部卒業。