すべてが中途半端だった。40歳をすぎたいま、このまま老いていくのは嫌だと拒絶反応を示している。「これは人生のラストチャンスだ」ソフトボールは命の次に好きだったかもしれない。それも10年近く前に家庭の事情で断念してきた過去がある。
連載「スポールボーイズ」とは 【不定期更新】
「いつか何かで世界一になりたい」少年のころ、だれしも一度は夢見たことがあるのではないだろうか。むろん、今では照れて口には出せないが。「実は会社勤めをしながらでも日本代表になれるスポーツがあります」森川寛信さんは、スポールブール日本代表となり世界ベスト10を達成したことがある。週末だけの活動でも、やり方次第で日本代表になれるのだ。今回は、とうにボーイズとは呼べない年齢の男たちが、さまざまな動機で集まった。自身の誇りと、少年時代の夢と、日の丸を背負って世界を目指す。スポールブールとは世界最古の球技だが、日本では超マイナースポーツと言っていい。なにせ競技人口は全国でたったの20名ほど。「絶滅危惧種」として存続が危ぶまれている。そんな日本チームが世界で勝ちにいく。彼らが目指す舞台は9月下旬にクロアチアで開催される世界選手権。はたして世界ベスト8の壁を突破できるのか。世界一に憧れるすべての大人たちへ贈る、現在進行形スポーツドキュメント。 |
第2話 僕がクロアチアを目指す理由 <後編>
TEXT & PHOTO 森川寛信
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[目次] 1.僕がクロアチアを目指す理由 渡辺豊明の場合 「もう逃げることを辞めて、向き合うことにした」 2.僕がクロアチアを目指す理由 大木洵人の場合 「これまでの人生、僕はいつも本番が一番強い」 |
1.僕がクロアチアを目指す理由 渡辺豊明の場合
もう逃げることを辞めて、向き合うことにした
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渡辺のスポールブールとの出会いは、2014年9月。家族を三重県に残し平日は石川県で働く渡辺は、金曜日の夜に車で家族の待つ三重に戻る。たまたまつけていたラジオで、スポールブールが紹介されていた。タイミング悪く肝心のところでトンネルにさしかかり、聞きとれたのは日本代表になれるスポールなんとか。「スポールなんとか」「日本代表」というキーワードを頼りに、スポールブール現役選手のブログにたどりつき、翌月には日本のスポールブールの聖地である三郷に足を運んだ。
昔の夢は、体育の先生になりたかったという渡辺は、体を動かすことが好きで、小学校でサッカー、中学校でバスケ、高校はハンドボール、大学ではバスケとスキーとまさにいろんなスポーツをかじっていた。傍目にはスポーツ青年としての青春を謳歌していたようにも聞こえるが、見方を変えればどれひとつとっても誇れるような結果を残したわけではない。本人曰く、
「すべてが中途半端だった」
そんな渡辺が、社会人になってからも唯一趣味で続けていたスポーツがあった、ソフトボールだ。社会人チームのキャプテンを務めた当時、ソフトボールは命の次に好きだったかもしれない。そんなソフトボールすらも、10年近く前に結婚や子息の誕生などだれもが通る家庭の事情で断念してきた過去がある。その決断は後悔でしかなく、41歳のいまにいたるまで、忘れられない未練をずっと背負ってきた。
もし渡辺が今30歳なら、きっと1回体験すればいいやと思っていたかもしれない。 でも、40歳をすぎたいま、このまま老いていくのは嫌だと拒絶反応を示している。スポールブールなら、何年かやれば、いやひょっとしたら1年後には日本代表になれるかもしれない。つきつめてみたい、やれるところまでやってみたい。自分が生きた証として、記録を残したい。そして、70歳になっても現役で戦い続けたい。そんな一縷の可能性をこのスポーツに見出した。渡辺本人が一番よくわかっている、
「これは人生のラストチャンスだ」
今年の世界選手権は9月にクロアチアで開催されるが、渡辺の本当のターゲットは、10月に愛知で開催されるスポールブール全日本選手権。そして、渡辺の土俵は、「プレシジョン」という種目だ。プレシジョンの語源は、Precise(正確さ)。「距離」「目的球のサイズ」「障害球の配置」の3つが毎回異なるシチュエーションで、11回投球し得点を競う。11球の投球結果、時間にしてわずか10分程度ですべてが決まる。表彰台の大多数をフランス・イタリア・クロアチア・スロベニアの4強が統べるスポールブールにおいて、最も番狂わせが起こりやすいのがこの種目だ。事実として、僕(筆者森川)が世界選手権に出場した5回のうち、アルゼンチンが2度、ボスニア・ヘルツェゴビナが1度、金メダルを獲っている。
渡辺の見解は、「極論、全部当てたら金メダル」。ただし、全部当てたら37点だが、予選突破に必要なスコアは14点。もしも予選から決勝まですべて14点を取り続ければ金メダルに輝いていた年もあった。強豪同士の戦いではティール成功率8割が当たり前のスポールブールにおいて、この種目がいかに困難かを物語っている。
現在プレシジョンの日本記録保有者は、20代前半でスポールブールに出会った競技歴10年以上のベテラン選手。客観的には、ライバルと言うのもはばかられるぐらい、実力差は歴然としている。
「勝てる見込みはありますか?」
僕は少しだけ意地悪にこう質問した。そんな「ライバル」を渡辺はこう分析する。
「たしかに彼は強い。でも僕が同じように10年やっていたら、絶対にもっと結果を出せる。3年以内にひっくり返しますよ」
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「人生このまま終わっていくのかな」
そんな諦めモードだった渡辺は、1年前にたまたま耳にしたラジオをきっかけに夢を取り戻した。これからスポールブールを始めるのに冬は最悪のタイミングだ。専用の屋内コートがある他国と違って日本にはそんな大層な設備はない。そして、特に冬の石川のグラウンドコンディションは悪い。でも渡辺は、雨でも雪でもドロドロのグラウンドで毎日1時間の投げ込みを欠かさない。日々の練習成果を刻銘に日記に記録する。自分の最後の挑戦だとわかっているから、すべてを記録しておきたい。
「負けたくないから、戦う前から逃げていた。もう41歳だから、真っ向勝負で負けたらしょうがない。もう逃げることを辞めて向き合うことにしました」
そう語る渡辺の視線の先には、始めてわずか1年で日本代表の座を手にした「シンデレラボーイ」ではなく、実力でつかむ日本一、そしていつかその先の金メダルを見すえているのかもしれない。
現在、渡辺には3人の子どもがいる。まして単身赴任という環境で、いまさらスポールブールなんて聞いたこともないスポーツに時間をさくなんて、家族には口が裂けても言えない。
「そんなことやってる暇があったら、子どもの面倒をみて」
ソフトボールで味わった挫折と後悔をぬぐい去るように、渡辺は、毎月月末の月例会には深夜バスで駆けつける。家族には、東京で研修があるということにして。
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2.僕がクロアチアを目指す理由 大木洵人の場合
これまでの人生、僕はいつも本番が一番強い
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2014年10月28日、大木ははじめて日の丸ユニフォームに袖を通した。スポールブール日本代表として、トルコのケメルで行われたトルコ国際大会の舞台に立った。はじめてボールを投げたのは、2014年9月29日。それからわずか1ヶ月後の出来事だ。
トルコ国際大会自体は、スポールブールだけでなく、ペタンクやラッファといったその他ブールスポーツ(※1)との共催で、世界選手権とは格が異なるマイナー国際大会だ。日本チームの参加目的も、世界選手権出場を目指す新人に経験の場をあたえるというものだった。地元トルコ以外は、アルジェリア、チュニジア、ラトビア、エジプト、ブルガリアといった近隣国を中心に若手選手が集まった。
※1 世界にブールスポーツと呼ばれるものは4種類ある。最も有名なのはペタンク、そしてその原型である僕らのスポールブール。この二つはフランス発祥だ。そして、スポールブールとほぼ同じルールなのが、イタリア発祥のラッファ、イギリス発祥のローンボールズだ。 |
同行したベテラン選手とダブルスを組んだスポールブールでは、地元トルコに6-7と1点差で敗北し予選突破はならなかった。ところが、せっかく日本から来たのだからとエキシビジョンマッチ的な感覚で地元トルコ選手1名を含めたトリプルスで出場したラッファでは、予選でエジプトを撃破し準決勝にコマをすすめ、なんと銅メダルを手に入れた。圧倒的な競技人口を誇るペタンクのマイナー国際大会における日本チームの結果までは把握していないが、僕の知るかぎりはブールスポーツ日本初のメダリストだ。
はじめてわずか1ヶ月で日本代表、さらにメダリスト。
そんなことあるわけないって!? でもこれはリアルなストーリーだ。野球のようなメジャースポーツでは、一介の草野球チームがキューバに行くようなシチュエーションはありえない。でもスポールブールにはそれがある。はじめてわずか1ヶ月で日本代表として国際大会に出場できてしまうような歪みがそこにはある。
トルコで大木をトリコにしたのは、損得勘定抜きのつきあいという心地よさだった。27歳という若さで10名ほどの社員を抱える会社を経営する若き起業家、大木洵人。その他にも、大学で研究所員をつとめ、日本政府からの受託でスイスで定期的に行われる国際会議メンバーとしても活躍する大木にとっての日常の世界は、スタートアップのメッカ、シリコンバレーであり、ダボス会議の本拠地スイスである。
トルコで出会ったブーリスト達の出身国は、地元トルコはもちろん、アルジェリア、エジプト、ラトビア、マルタなど。学校の教員をはじめ職業もさまざまだ。これまで決して交わることのなかった出会い、そしてそんな愉快なヤツらと一緒に、ブルガリアからの応援団の中学生グループとブルガリアンダンスを踊り明かした夜。大木にとってはすべてが新鮮だった。
傍目ではなに不自由なくキャリアを積み重ねているようにしか見えない大木も、実は大学時代に大きな挫折を経験している。高校時代応援団に打ち込んだ彼は、大学入学と同時に何の疑問も抱かずに応援団に入部する。ところが、練習中の怪我がきっかけで、その後数年間は運動できないような後遺症を負い、志半ばで応援団を去ることになる。大学入学からわずか半年後の出来事だ。大好きなスポーツの道は一旦閉ざされ、運動とは無縁の生活が続いた。気づけば年間運動量は5時間以下。当たり前のごとく増量に成功し、80kgの大台まであと一歩というところまで堕ちていった。
「終わりの見えない、長い暗黒時代だった」
そんな大木のひとつの転機になったのは、東北大震災。 現在の大木のビジネスの礎ともなる手話の世界に没頭しはじめた頃、手話のスペシャリストとして携わるはずだった復興支援だが、被災地で現実に求められていたのは肉体労働だった。体力がなくてへばった。
「なにしにきたんだ。人間最後は体力だ!」
それがきっかけで一念発起して出場した東京マラソンでは、見事完走を果たす。80kg近い巨体を抱え、たった2キロでリタイアした最初の練習から、僅か4カ月後には17kgの減量に成功し、初マラソンながらゴールテープを切る快挙だった。
いつも大木を駆り立てるのは、底なしの好奇心だ。彼の好奇心が盛り上がる沸点はとても低い。気になったらまずやってみる。過去の好奇心の対象は、かつてプロを目指していたゴルフやカメラ、第二外国語としてのロシア語・フランス語・韓国語だったり、JavaやC+といったプログラミング言語があるかと思えば、コーヒー好きが興じてニュージーランドで合格率10%のバリスタ資格を取得していたりする。その他2~3回体験してみた程度のことは、数知れずだ。
「ボールが当たったときがすごい楽しい」
数えきれない好奇心の対象の中で、大木がスポールブールにはまった理由はシンプルだ。でも、スポールブールに魅せられた選手はみんな同じことを言う。僕だってそうだ。スポールブールをはじめて3ヵ月が過ぎようとしていた頃、真夏の炎天下、僕は一滴の水も飲まずに45分間走り続けた。せめて1球当てるまで……。ほどなくして、走りは競歩に代わり、競歩は徒歩になった。額を滴る汗が僕の視界を曇らせ、ありもしない砂漠のオアシスに向かってボールを投げ続けているような、そんな感覚だった。100球を越えた時点で投球数を数えるのを辞めた。たぶん150球目ぐらいだったろう、目が覚めるような派手な衝突音とともに、目的球はどこか遠くに飛んで行った。思わず天を仰いで、そのまま脱水症状でその場で崩れ落ちた。こんな夏のひとコマがなければ、僕だってこんなにこのスポーツにのめりこむことはなかったかもしれない。
「日本代表になるためにやるわけじゃない、どうせやるならとことん極めたい」
プログレッシブ、プレシジョン、ラピッドのティール3種目全てで日本新記録を打ち立てるぐらいまで。実は彼自身、今回選考にエントリーするのは時期尚早ではないかと感じている。勝算がないわけではない。プレシジョンでは、17点という好記録をたたき出し、今回エントリーしている8名のうちベテラン選手に次ぐ2番手につけている。新人選手の中でも抜き出たスコアを出しながら、ベテランが狙わないラピッドという種目一本にターゲットを絞っている。実力差の大きいベテラン選手ではなく、同じくラピッドを目指す弓倉、中島との真っ向勝負。いまの大木がとれる戦略としては完璧だろう。
「これまでの人生、僕はいつも本番が一番強い」
中学生の時、群馬県の強化選手に選ばれていたテニスだって、大学受験だって、ベストスコアはいつだって本番だ。大木にとって、今年は「本番」になるのだろうか。
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(次回もお楽しみに)
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連載バックナンバー
第0話 僕がスポールブールを辞めた理由(2015.3.1)
第1話 僕がクロアチアを目指す理由 <前編 / 弓倉、中島の場合>(2015.4.15)