スポールボーイズ 【第0話】 僕がスポールブールを辞めた理由

世界最古の球技スポールブール週末日本代表森川寛信のスポールボーイズ

「どんな分野でもいいから、世界一になりたかった」いまさら人に言うのは少し恥ずかしいのだけれど、これが僕が10年前にスポールブールを始めた本当の理由だ。いつか「何者か」になりたいと想う若者は多い、僕もその一人だった。 

連載「スポールボーイズ」とは  【毎月1話更新】

「いつか何かで世界一になりたい」少年のころ、だれしも一度は夢見たことがあるのではないだろうか。むろん、今では照れて口には出せないが。「実は会社勤めをしながらでも日本代表になれるスポーツがあります」森川寛信さんは、スポールブール日本代表となり世界ベスト10を達成したことがある。週末だけの活動でも、やり方次第で日本代表になれるのだ。今回は、とうにボーイズとは呼べない年齢の男たちが、さまざまな動機で集まった。自身の誇りと、少年時代の夢と、日の丸を背負って世界を目指す。スポールブールとは世界最古の球技だが、日本では超マイナースポーツと言っていい。なにせ競技人口は全国でたったの20名ほど。「絶滅危惧種」として存続が危ぶまれている。そんな日本チームが世界で勝ちにいく。彼らが目指す舞台は9月下旬にクロアチアで開催される世界選手権。はたして世界ベスト8の壁を突破できるのか。世界一に憧れるすべての大人たちへ贈る、現在進行形スポーツドキュメント。

 

第0話 僕がスポールブールを辞めた理由

 

TEXT & PHOTO 森川寛信

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目次
1.僕がスポールブールを辞めた理由
20代を賭けた「世界チャンピオンになろう! 」プロジェクト
2.スポールブールってなに?
カーリングやボウリングの原型と言われる世界最古の球技
3.僕がスポールブール普及に取り組む理由
もし辞めたら日本で絶滅してしまうから
4.僕が「スポールボーイズ!」を書く理由
誰でも日本代表として世界で戦えると伝えたい

 

 

 1.僕がスポールブールを辞めた理由 
20代を賭けた「世界チャンピオンになろう! 」プロジェクト

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2013年11月16日、10年に渡る僕の、会社員とアマチュアスポーツ選手の二足のわらじ生活は、地球の裏側アルゼンチンでひっそりと幕を閉じた。会社員を辞めたのではない、スポーツ選手を辞めた。正しく言うと、僕は一つの夢を諦めた。
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「どうしてスポールブールをやっているのか」

これまで何百回も聞かれたこの問いに、僕はいつもこう答える。

「日本ではマイナースポーツだから、日本代表になりやすいからですよ」

嘘じゃないんだけど、実は本当の理由はちょっと違う。

「どんな分野でもいいから、世界一になりたかった」

いまさら人に言うのは少し恥ずかしいのだけれど、これが僕が10年前にスポールブールを始めた本当の理由だ。

いつか「何者か」になりたいと想う若者は多い、僕もその一人だった。 僕は21歳で、約1年間の世界一周の旅に出た。まだスポールブールと出会う前の話だ。 22歳の僕は、漠然とした「何者か」を、「(どんなニッチな分野でもいいから)世界一を成し遂げた人物」と定義した。
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こうして、僕の20代を賭けた「世界チャンピオンになろう! 」プロジェクトが始まった。

2004年(23歳)、大学6年生の時、僕はスポールブールに出会った。友人から、「日本代表になれる可能性の高いスポーツ」としてスポールブールを紹介された。「日本代表」は、世界で戦うパスポートだ。そうだ、僕は日本代表になろう。

2005年(24歳)、当時の世界選手権出場資格であった日本選手権優勝を、ダブルス種目ではあったが成し遂げ、僕ははじめて世界の舞台に立った。イタリアのトリノだった。空港から送迎があり、選手村があり、チームごとに通訳がつき、宿泊も食事も全て大会事務局が負担してくれる。数千人は収容できそうな立派なドーム会場で、スポールブール大国イタリアの威信をかけたド派手な開会式が行われ、僕は意気揚々と国旗を掲げて入場式に臨んだ。世界30ヵ国から選手が出場し、会場ではフランス語・イタリア語・スペイン語・アラビア語・クロアチア語…… 聞いたこともないような言語が飛び交う。ユニフォームを着て街を歩くと、タクシーの運転手や地元の小学生からサインを求められる。閉会式は、まるで歴史的文化財のような建物を貸し切ったドレスコードのあるパーティーだった。肝心の自分の試合はあっという間に終わってしまったが、世界記録が次々と更新される、鳥肌が止まらない世界レベルの戦いの渦の中に自分がいれたことは、異次元の経験だった。
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 2005年トリノでの入場シーン。自ら国旗を掲げての入場だった

2005年トリノでの入場シーン。自ら国旗を掲げての入場だった

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2005年トリノでの試合風景。平日夜にも関わらず、満員御礼だった

2005年トリノでの試合風景。平日夜にも関わらず、満員御礼だった

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2007年(26歳)、ボスニア・ヘルツェゴビナのグルーデというクロアチアとの国境付近の町で世界選手権は行われた。5月の連休には強豪オーストラリアに出稽古に行き、8月のお盆休みは日本で最後の追い込みを予定していた。ところが、8月に仕事ではじめて1ヶ月程度の少し長めの出張があった。渡航先はイギリス。多くの日本人が名前も聞いたこともない海岸沿いの小さな町に1ヶ月滞在した。お盆休みに予定していた投げ込みは、イギリスの片田舎の砂浜での走り込みに変わった。練習の成果とクジ運にも恵まれ、予選ブロック1位で決勝トーナメントに駒を進めた。決勝トーナメントでは出稽古したオーストラリア選手と死闘の末、辛くも破れた。最終結果は世界10位だった。まだまだいける、そう手ごたえを掴んだ大会だった。

 

2007年グルーデ、決勝トーナメントでの日本vsオーストラリアの試合

2007年グルーデ、決勝トーナメントでの日本vsオーストラリアの試合

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2009年(28歳)、本場フランスのマコンという町が世界選手権の開催地だ。前大会で自信をつけた僕は練習を重ね、スキルとしては前回とは比較にならないほど上達したはずだ。万全のコンディションで臨んだものの、1勝もできず予選敗退。対戦相手はスペインとエストニア、スキルがそこまで違うとは思わない。でも、2年に1度の世界選手権しか国際試合の場がない僕と、毎年のようにユーロ選手権やヨーロッパの国際大会などで場数を踏んでいる彼らとは、地力があまりにも違った。大した点差ではなかったが、内容は完敗だった。こうして、僕の20代の挑戦は幕を閉じた。

振り返ると僕の20代は、スポールブールとともにあった。スポールブールと仕事以外の記憶が正直あまりない。当時の彼女(今の妻)には申し訳ないが、彼女と手を繋いでいた時間よりも、ボールを握っていた時間の方が遥かに長い。そんな僕が29歳だった2010年、2つの転機が訪れた。1つは彼女と結婚したこと。もう1つは、仕事で海外出張の機会を多く頂けるようになったことだ。結婚式の翌月から、アジア、ヨーロッパ、南米…… 、1年の1/3以上を海外を飛び回る生活が続いた。不在がちになり、これまでと同じようにスポールブールと向き合うことが苦しくなってきた。十分な練習時間など到底確保できず、世界一に向けたスキルアップなど望めるわけもなかった。

2011年(30歳)、イタリアのフェルトレという町で行われた僕にとって4回目の世界選手権は、たいしたハイライトもなく不完全燃焼のまま終わった。強豪ボスニア・ヘルツェゴビナを追い込んだのが唯一の見せ場だったが、「善戦」に意味などない。仕事と家庭とスポールブール。もともと不器用な僕には、この3つを全部同時にこなすことは不可能なように思えた。この頃から、たぶん僕はスポールブールを辞める理由を頭のどこかで探し始めた。
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2011年フェルトレでの、大会会場の様子。

2011年フェルトレでの、大会会場の様子

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2012年(31歳)、僕ら夫婦は娘を授かった。子を持つ親なら誰もが思うだろう。ボールよりも、かわいい我が子の手を握っていたいと。日本にはスポールブール屋内コートは存在せず、公園や学校の校庭を間借りして練習しているため、練習は常に天候に左右される。週末の雨ほど恨めしいものはなかった。そんな恨めしの雨はいつしか、恵みの雨にかわっていた。スポールブールは、いよいよ本格的に僕のプライオリティの階段を転がり落ちていった。

2013年は、僕にとってまさに葛藤の一年であった。この年は約120日を海外で過ごし、飛行距離は20万マイルを優に超えた。世界一周チケットを3度も使った。帰国する度、ひと回り大きくなった娘を見るのが辛かった。おまけに我が家は共働きだ。こんな環境で、日本滞在中の週末を全てスポールブールに充てたいという相談は、かなりの勇気が必要だ。当然交渉は難航したが、なんとか最終的には合意を取り付けることができた。今回の世界選手権を最後にスポールブールを辞めることが条件だった。マイナースポーツ選手にとって、選手生命の危機は意外なところからやってくる。

世界一になれたかって、まさか。自己ベストどころか予選通過も叶わなかった。この大会で、僕は「ダブルス」という2vs2で戦う種目に挑んだ。実は「ダブルス」は日本チームは過去16年間勝ち星を挙げられていない、鬼門ともいえる種目である。予選ブロックは、日本・USA・クロアチア・中国。優勝候補の一角を担うクロアチア、メダリストも輩出する中国、死のブロックである。初戦の相手はUSAに決まった。2007年にコンビネ世界10位になった裏で、僕はダブルスではUSA相手に1点も取れず大敗した。ダブルスは1試合2時間の長期戦だ。3点のリードで優位に試合を進めながら、ラスト10分で同点に追いつかれる。6年前の嫌な記憶が脳裏をよぎったが、なんとか延長戦を制し、日本チームにダブルス16年ぶりの勝利をもたらした。その後、クロアチアに敗れ、中国に敗れ、僕の世界選手権は終わった。

僕は、未来の叶えたい夢に向かってボールを投げていたはずだ。少なくとも20代のうちは。 いつしか、過去の果たせなかった夢に向かってボールを投げているのではと思うようになった。30代に入ったあたりから。

「スポールブールで世界一になりたい」

この夢はきっと、20代最後の世界選手権だった2009年に終わっていたんだ。
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世界王者のみが着ることができる、レインボーシャツ。

世界王者のみが着ることができる、レインボーシャツ

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 2.スポールブールってなに? 
       カーリングやボウリングの原型と言われる世界最古の球技

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「そもそもスポールブールってなに?」という声も聞こえてきそうなので、ここでようやく「スポールブール」についてご説明したい。スポールブールは、世界最古の球技と言われるスポーツだ。実は日本ではこれは僕が言い出した(笑)ただ、4,000年前の古代ローマ時代の壁画にも貴族がスポールブールとおぼしき球技を楽しむ様子が描かれており、スポールブールという名前だったかどうかはともかく、同様の球技がかなり古くから存在したことは間違いないだろう。スポールブールという名前のスポーツが生まれたのは、200年近く前のフランスのリヨン地方と聞いたことがある。カーリングやボーリングの起源とも言われており、たしかにルールには類似性が見られる。日本では誰も聞いたことがないようなマイナースポーツに違いないが、発祥であるフランスやイタリアをはじめヨーロッパではけっこう盛んに行われている。

ルールはいたってシンプルだ。実際のコートサイズは27.5m×4mだが分かりづらいと思うので、25mプールの2レーン分程度のコートを想像してみてほしい。世界最古の球技というだけあって、ボールを使用する。1kg程度のずっしりと重い金属製のボールで、持ち球は各4球だ。コートの一端から、もう一端に置かれた「ビュット」と呼ばれる直径5cmの目標球(ピエロの赤鼻ぐらいのイメージだ)に、ボールを転がして近づける。ボールを転がすことを、「ポワンテ」という。必ずしも交互に投げ合うわけではなく、ビュットから測って自分のボールが近くない方が、次のターンだ。自分のボールがビュットから一番近くなるように「ポワンテ」してもよいし、少し助走をつけてボールを投げて、相手のビュットから一番近いボールを弾いてもよい。助走をつけてボールを投げることを、「ティール」という。「ポワンテ」と「ティール」という2つの投げ方を使って、お互いの持ち球がなくなったとき、ビュットから一番近いボールを投げていた方の勝利で、「相手のビュットから一番近いボールよりも、自分のボールがいくつ入っているか(より近いか)」が得点となる。これが最も基本のルールで、1対1で行うのが「シングル」という種目、2対2で行うのが「ダブルス」という種目だ。他にも、コンビネ・プレシジョン・プログレッシブ・ラピッドという4種目が存在するが、各種目の細かいルールは、おいおいご説明していきたい。 (この動画をご覧頂くのが、最も理解が早いかもしれない)

コートのイメージ。写真奥側から手前側の白い目標球(ビュット)に向かって投球する。

コートのイメージ。写真奥側から手前側の白い目標球(ビュット)に向かって投球する

ボールを転がすポワンテ(左)と助走をつけてボールを投げるティール(右)

ボールを転がすポワンテ(左)と助走をつけてボールを投げるティール(右)


(この写真では)赤い目標球(ビュット)に近いボールを投げた側の得点になる。

(この写真では)赤い目標球(ビュット)に近いボールを投げた側の得点になる

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また、ひょっとすると「ペタンク」といえばご存じの方もいるかもしれない。実はペタンクは、約100年前にスポールブールから派生した歴史の浅い兄弟スポーツである。フランスで事故で足を怪我したスポールブール選手が、車椅子でもできるようにルールを改定したのがペタンクの発祥である。スポールブールが約1kgのボールを4つ使用するのに対して、ペタンクでは約700gのボールを3つ使用する。持ち運びがラクである。スポールブールが専用コートを必要とするのに対して、ペタンクは公園で気軽にプレイできる。実はこれは、スポールブールの改良改善に他ならない。こうして、スポールブールから生まれたペタンクは、手軽にできるお洒落なスポーツとして世界中に広まっていく。日本も例外ではない。一昔前、平日朝の公園ではお年寄りがゲートボールを楽しむ姿がよく見られた。そんな中ペタンクは「フランス生まれのお洒落なニュースポーツ」として勢力を増していった。代わりにゲートボールは、まだまだ元気な60代に「老人の娯楽」という烙印を押され、急速に姿を消していった。

スポールブールについて聞かれるとよくこういう説明をするのだが、この話には実は続きがある。最近フランス人青年が義理の弟になったのだが、彼と初対面の際、僕は意気揚々と自分が「スポールブールの日本代表」である旨を添えて自己紹介をした。僕は、フランス人にとってのスポールブールは、日本人にとっての相撲ぐらいのものだと思っていた。「それはなんですか?」彼は怪訝な顔で僕に尋ねた。そこから10分間、あの手この手でスポールブールとはなにかを、スポールブール発祥であるはずのフランス人に説明した。「あぁ、たしかにリヨン地方でペタンクに似たそのようなスポーツがあるかもしれません」彼は分かったような分からないような顔で答えた。ペタンクが「柔道」なら、スポールブールはそのルーツの「柔術」のようなポジションなのだろう、きっと。僕は10年やってきたこのスポーツの、本当の知名度をいまだに知らない。

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3.僕がスポールブール普及に取り組む理由
もし辞めたら日本で絶滅してしまうから

はたして僕の夢が2009年に潰えていたとするならば、その後2013年までの期間はいったいなんであったのか。失われた4年間とでもいうのだろうか。物事は始めるよりも終わらせる方がはるかに難しい。僕にはスポールブールを辞められない理由があった。正確にはスポールブールは僕が辞めてはいけない事情を抱えていた。人がいなかったんだ。僕がスポールブールを始めた2004年当時は、いわゆる競技人口は50人以上はいただろう。毎月のように大会が開催され、30名前後が参加していた。転勤した、家族をもった、世界選手権に出場したので満足した、辞める理由は人それぞれだ。僕にスポールブールを教えてくれた日本スポールブールの父ともいえる人物のアフリカ・ニジェール赴任をもって、この流れは決定的になった。毎月やっていた大会を開催しなくなった。日本選手権すら開催されなかった。目標と呼べる大会は2年に1度の世界選手権だけになり、そして練習会には誰も来なくなった。来れる人がいるときだけ開催する、不定期開催になった。自分が辞めたらこのスポーツは日本からなくなってしまうのではないか、残った誰もがそんな危機感を抱くようになった。僕はよく、スポールブールにマイナースポーツという枕詞を使う。でも、残念なことにスポールブールはマイナースポーツなんて生易しいものじゃない。スポーツ界の絶滅危惧種だ。スポールブール選手なんて、天然記念物かなにかに違いない。

僕らがスポールブールのためにやらなくてはならないことは、普及活動である。認知させ、興味を持ってもらい、トライしてもらい、リピーターになってもらうのだ。すなわちマーケティング活動である、これが正解である。しかし、正解はときに矛盾を内包する。普及するということは、未来の日本代表候補を育てるということであり、すなわち日本代表としての座を脅かすライバルを育成するということだ。そんな慈善事業をする時間的余裕も精神的余裕も、悪いけど僕にはなかったし、他のメンバーにもなかったのだろう。稀に訪れる新メンバーを歓迎こそすれ、きちんと練習を指導したり、面倒をみたりということはほとんどしなかった。来るもの拒まず去るもの追わずだが、精神的には来るものも拒んでいたのかもしれない。でも、もし自分が前に進めないのであれば、退かなくてはならない。退くのであれば、道をつくらなくてはならない、誰もが通れるように整備していかなくてはならない。立場に固執したところでロクなことなんかない、それは老害に他ならない。僕は、皮肉にもスポールブールの協会からこのことを学んだ。
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東京都内で開催した初心者講習会の様子。多いときは10名程度が参加してくれる。

東京都内で開催した初心者講習会の様子。多いときは10名程度が参加してくれる

東京都内で開催した初心者講習会の様子。

東京都内で開催した初心者講習会の様子

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4.僕が「スポールボーイズ!」を書く理由
誰でも日本代表として世界で戦えると伝えたい

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「そうだ、僕は日本代表になろう」。10年前のこの決意が、僕の人生を大きくドライブした。「世界一になる」という夢は叶わなかったが、それでもなお、スポールブールは僕を何者かにしてくれた。決してたいした者ではないかもしれないけれど。

スポールブールは、僕に大きな場をたくさん与えてくれた。選手としてこれ以上、世界一を目標に続けていく時間も気力もいまはない。でももらえるだけもらっておいて、このままバイバイするのは納得がいかない。なにより僕はこのスポーツ自体が大好きだ。20代の多くの時間を共に過ごしたこのスポーツや、ともに戦った仲間が大好きだ。僕がこれを書くことで、「誰でも日本代表として世界で戦うことができる可能性」を伝えることができて、その中からその可能性を掴む人たちが生まれることを目指したい。もし2024年オリンピックがフランスのパリで開催されるのであれば、五輪種目になることだって、起こりうる未来だ。こんなにチャンスに溢れたスポーツは他にない。そして、結果的にスポールブールを楽しいと思ってくれる仲間が増えて、スポールブールが日本に残り続けてくれたら本望だ。

僕は、高校時代にオリンピック選手も多数輩出する名門柔道部に所属していた。僕が高校一年生のとき、当時10年に1度の逸材と言われていた井上康生選手率いるライバル校を県大会の決勝で撃破し、そのまま波に乗ったチームは、インターハイで悲願の全国制覇を成し遂げた。高校柔道は、主にインターハイ・金鷲旗・全国高校柔道選手権の3つのタイトルを狙う。僕は3年間柔道部に所属していたが、3つのタイトルやその予選となるようないわゆる公式な大会には一度も出場したことがない。高校3年生のとき、一度だけチャンスがあった。柔道の団体戦は、先鋒・次鋒・中堅・副将・大将の5人で戦う。僕は6人目の枠を争った。いわゆる補欠だが、正補欠だ。レギュラーの調子が悪ければ交代も普通にあれば、主力選手の体力温存のためトーナメント前半は補欠選手が出場することも多い。レギュラーに選抜されなかった選手全員10人程度で1枠を争った。決定戦は、71kg級の僕と95kg超級の小学校時代からのライバルの戦いであった。結果僕は負けて、彼は全国大会で活躍した。

3年間ボロ雑巾のごとく練習したが、結局僕にはただの一度も公式大会という「場」は与えられなかった。くそくらえだ、牛糞のごとくである。誤解を恐れずに言えば、僕は人の能力など大差ないと思っている、明暗を分けるのは「場数」と「場の大きさ」だ。会社や組織だって、同じでしょう。「場」を与えられ、場をこなした人には、より魅力的な場が与えられる。畢竟、才能など関係ない。牛糞となるより蛙にでもなって飛び回った方が、世界はよほど可能性に満ち溢れている。

はじめに、僕の想いを書かせてもらった。2004年に僕がスポールブールを始めてから2014年までの10年間、モノになった新人はたった1名しかいない。スポールブールは知られざるスポーツであった。メンバー全員が危機感を募らせ、ようやく普及活動に重い腰をあげた。大阪、名古屋、三重、兵庫。「そうだ、僕は日本代表になろう」を合言葉に、日本全国から「2015年9月にクロアチアで開催される世界選手権」を目指す若者が少しずつ集うようになった。いまでは週に1件ぐらいの頻度で新規問い合わせがくるようになった。現在、継続意志を示している競技人口は男女含めて20名程度だが、クロアチアでの世界選手権出場に向けてエントリーしている選手は8名。1ヶ国から最大6名まで出場可能だが、日本代表基準値をクリアすることが条件だ。この8ヶ月、きっといろんなドラマが待っているんだろう。

「スポールボーイズ!」は、僕がスポールブールの未来に向かって投じる一つのボールであり、僕個人にとって最後まで受け入れることができなかった20代の敗戦記でもある。面白い話が書けるか分からないし、お世辞にも文章がうまいとも言えないが、どうか最後まで読んで頂けると大変嬉しいです。 (了)

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(次回もお楽しみに。月イチ更新予定です)

 


森川寛信

森川寛信

(もりかわ ひろのぶ) 週末日本代表。 1981年、東京生まれ。大手ゲーム会社に勤務する傍ら、世界最古の球技「スポールブール」日本代表として、2005年から2013年まで5回連続世界選手権出場。(2007年世界10位)仕事ではゲームクリエイターとしてアーケードゲーム開発に携わった後、現在はインドネシア・ブラジルなど新興国市場開拓業務に従事。「大きく学び、自由に生きる」がテーマの学び場「自由大学」にて、「じぶんスタイル世界旅行」http://freedom-univ.com/lecture/world_travel.html)の講義を担当。海外出張、スポールブール遠征、世界放浪、世界一周新婚旅行などで訪れた国は50ヶ国以上。学生時代から「マインドマップ」を愛用しており、2013年に英ThinkBuzan公認マインドマップインストラクター資格取得。2005年慶應義塾大学商学部卒業。