完全に動揺している。バイクの後部座席に座るとエンジンがかかった。あとはもう出発するだけだ。そんな段階になって、自分の両手をどこに置けばいいのか分からないことに気づいた。おじさんの腰に抱きつくのか? いやいや、恋人でもあるまいし。
連載「氷が溶けるまで」とは 【3週間に1話 更新】 ヨーロッパひとり旅と写真を専門とし、働きながら「自分にしかできない一点物の旅」を10年以上続けてきた武谷朋子さんが、突然夫の転勤によりベトナムはホーチミンに移住することに。(本当はヨーロッパが好きなのだけど…. )知り合いもいない、そして、もともとそんなに興味が持てなかった国で始まった、すべてが新しい暮らし。彼女は導かれたその状況をどのように「楽しみ」に変え、はじめての街の魅力を発見していくのか。まだ知られていない本当のベトナムとは。ガイドブックには載らない、暮らしてみてわかった小さな魅力の種を綴ります。 |
第2話 ホーチミンのおもしろさは、きっとバイクの後部座席にある
TEXT & PHOTO 武谷朋子
タクシーに乗っているのに、窓から見えるバイクとの距離感が明らかにおかしい。車間距離を間違えているのかと思うほどに近すぎる。右も左も前も後もバイクに囲まれている。車内にいるわたしは明らかに動揺していた。
ホーチミンの空港に到着し、無事にタクシーに乗ったわたしは、市内までの30分ほどの道のりでようやく落ち着けるはずだった。しかし、多すぎるバイクが頻繁に鳴らしすぎるクラクションにいちいちびっくりして、タクシーの中にいるというのに、安全なはずなのに、なぜか動揺がおさまらない。こんな数のバイクを見たことなんて、これまで一度もない。
「ああ、これがベトナムかあ…。 バイクこわいなあ…。 」
夜道を走るタクシーの中で、迫りくるようなバイクの存在を肌で感じてそんなことを思っていた。これがわたしのベトナムバイクとの初対面だった。
ベトナムはバイクの数がびっくりするほど多いらしい、という話は聞いていた。そんな映像を見たこともあった。
「でもそれからだいぶ年月も経ってるし、きっといまのホーチミンはもっと都会になってて、バイクの数も減っているんじゃない…? 」
どこかでそんなことを思っていた。いや、願っていたんだと思う。そんなわたしの願いは、到着して一晩寝た翌朝に、すぐに崩れ去った。目を覚ますと何やら外から「ブーン」という音が重なって聞こえる。窓を開けて目に入ってきた光景は、通勤ラッシュのバイクの群れだった。
「道路を渡る時は同じスピードで歩き続けるべし。バイクや車が来てこわい! と思って止まると轢かれるから。」
というこわすぎるアドバイスを心に留め、わたしのホーチミン暮らしは始まった。
新しい生活に立ちはだかったバイクの海
泳ぎかたは歩きながら学ぶ
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海外の旅なら慣れているはず、だった。新しい街に出かける不安と期待なら、何度も遭遇してきた。でも、何かがおかしい。
「あれ、思うように道を渡れないな… どんどんバイクが来るけど、タイミングがつかめない… 」
普通に道路を渡ることがそもそも難しかった。青信号なのに、なぜかバイクが後からどんどん右折してきて渡れない。横断歩道があるのに、車とバイクの流れが途切れる気配がなくて、横断できない。
そしてたまに、歩道を歩いているのになぜか前後からバイクが走ってきてぶつかりそうになる。なんなんだこれは… しかもこわすぎる…。
結局1週間ほど、道路を渡ることだけで精一杯の日々が続いた。毎日バイクにぶつかりそうになるスリルを味わうことになり、その度に心臓がバクバクいっているのがわかった。実感できるほどだったのだから、バクバク度はかなりMAXに近かったのだろう。
「ああ、わたしいま、生きてる…! 」
ベトナムのバイクのせいで日々スリルを味わうことになり、” 生きている ” という実感をリアルに感じられたのである。「身に及ぶ危機感のスイッチ」が、日本にいた時にはほぼ完全にOFFモードになっていたんだなあ、とこの時気づいた。ホーチミンに来て、一気にONになったスイッチ。ホーチミンでスイッチOFFのままだと、いつかきっと轢かれてしまうんだな。
(轢かれちゃ、困るんだけど…。)
自分の身は自分で守るしかないという、当たり前のことを、ひとりホーチミンの地でひしひしと感じていた。治安が悪いんじゃなくて、身に迫る危機を事前に察知する能力というのだろうか。
バイクが多すぎるのは、もうわかった。それは仕方ない。だったら、どうしたらうまく渡れるんだろうか、と考えはじめるようになった。地元の人がスイスイ渡っているのだから、きっと何かコツがあるにちがいない。
旅行で数日の滞在ならまだしも、これからここで暮らしていくのだ。毎日道路の横断で勇気を振り絞りすぎて疲れるわけにはいかない。そのうち慣れるんじゃないの? とも思ったけど、いつになるか分からないその「慣れ」までの期間にずっと疲れているのは避けたい。わたしにとってこの「道路横断をスムーズにできるようになること」が最初の壁であり、つるっと乗り越えたい壁でもあった。
そこから、ベトナムの交通ルールと、どんな時に渡りやすいか・渡りにくいかを道路を渡りながら確かめる日々が始まった。待ってたら誰かが教えてくれるものでもない。意識しているとおもしろいもので、ベトナム独自の交通ルールが見えてくる。
「そもそも、歩行者優先ではない」
「赤信号でも右折なら進んでOK」
「青から赤信号に切り替わる時間が短すぎる」などなど。
ルールがわかると、どうすればいいのかの対策も考えやすくなる。その道路横断の「型」を身につけることが、まずは暮らす上で一番にしなくちゃいけないことだと思い、生活を始めてから2週目にはだいたいその型がわかるようになった。あとは実践を積むのみ。
ある日、地元のおばさんが涼しい顔をしてバイクの海をスイスイを泳ぎ切っていくのを見た。しかも横断歩道がないところを。車やバイクも速度を一定に保ちながら、おばさんもゆっくり歩いて向こう岸まで渡りきった。あまりの華麗な渡りかたに、「おおおお……! 」と思わず声が漏れた。道路を渡るプロがいることをこの時知った。あのおばさんのようになるにはまだまだ修行が足りない。というより、いまでもそんな交通量の多い道路では渡れる気がしないのだけど。
小心者だから、そんな冒険はしないでおこう。あくまでも安全横断で。なんか小学生みたいだけど、本当のことだからこれもまた仕方ない。
道を渡る時には、自分中心の ”360度危機レーダー” を光らせながら、バイクの海を泳いで渡っていくのである。スキルアップに励む日々。道路を渡るにもスキルがいることを、ホーチミンに来て初めて知ったのだった。
とにかく安全に、このバイクの海と付き合うのだ。
熱気と喧騒をダイレクトに肌で感じた3分間
ホーチミンに到着してから3週間経った頃、オーダーしていたものができあがったとのことで受け渡しの場所へタクシーで向かった。相手のおじさんからそのまま品物を受け取って帰るつもりでいたのだが、次の瞬間におじさんからこう言われた。
「実は別の場所に置いてあるんだよね。そこまでちょっと移動しよう。」
ん? 何のことだかよく分からない。一度屋内に入ってまた出てきたと思ったら、バイクの鍵を持っている。そうこうしているうちに、ヘルメットを渡された。
「え!!!!!!!! バイクで移動すんの?! 」
と言うわたしに、
「うん、そうだよ。近くだから。」と笑っている。
え、ちょっと待って。バイク乗るとか聞いてない。心の準備が全くできていない。あまりにも不意打ちすぎる。そもそもバイクの後部座席って普段乗らないから、乗り方というか、体勢がよく分からない。バイクに乗るということは、あのおそるべきホーチミンのバイクの海の中に入るということか…。
(… とりあえず落ち着け、わたし。)
でも、目を上げるとおじさんはもうバイクで出発する準備ができている。もうこれは乗るしかないな… と覚悟を決め、ヘルメットをかぶる。
「あああ、こんな時にベトナムバイク初乗車とか、あああ、なんてこった…。 」
完全に動揺している。そして、バイクの後部座席に座るとエンジンがかかった。全く心が追いついていない。でももうわたしはバイクの後ろに座ってしまっている。あとはもう出発するだけだ。
そんな段階になって、自分の両手をどこに置けばいいのか分からないことに気づいた。おじさんの腰に抱きつくのか?いやいや、恋人でもないから抱きつくのは違うだろう…。 ん? じゃあ、手はどこにもつかまらず宙ぶらりんなの? とも思ったが、そんな不安定な体勢だとバイクから落ちてしまうかもしれない。それはこわすぎる。
(この手はどこかに安定させなければ… でももう出発してしまうよ…。)
エンジンがかかりバイクが動き出した瞬間、わたしの両手はおじさんの腰まわりのシャツをぎゅっと握りしめていた。とりあえず、固定せねば。もう、どうしたらいいか分からない苦肉の策。とにかく強く握ったまま、出発。
目的地までの移動はたぶん3分くらいの近距離だったんだと思う。だけど、わたしには10分くらいにも感じられた。短くて、でも長い時間だった。
公道に出た瞬間の風を切って走るバイクの臨場感、もう近すぎる距離で前後左右にいる他のバイクたち、鳴り止まぬクラクション、熱気と喧騒。そんなものが一気に押し寄せてきて、乗っている間中、絶叫マシーンに乗っているかのような感覚だった。下手なアトラクションより、スリルがある。いや、これはもはや一種のアトラクションなんじゃないか。全身の神経が覚醒したような、そんな初めてのバイク体験だった。
緊張が最高潮に達した数分のバイク走行の結果、強く握りしめていたおじさんの腰回りのシャツは見事にくしゃくしゃになってしまった。おじさん、ごめんね…。 でも安全運転でよかった。ありがとう。
バイクから降りて肝心の品物を受け取ってからも、興奮と高揚感がしばらく続いていた。なんだろう、この感じ。
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外から眺めるだけより
中に入って同じ目線に立つこと。
そこで初めて気づくことがある
ホーチミンでバイクの後部座席に乗ることなんて、まずないと思っていた。免許がないから自分では運転できないし、人のバイクに乗ることもないよね… と。だから ” 対バイク ” として、いかにバイクをよけてスムーズに道路を渡るかしか考えていなかったわたしが、ホーチミンに暮らし始めて3週間目にはバイクの後ろに乗っていたのだった。
どんなきっかけでバイクに乗ることになるかなんて、予測もできない。
そんな不意打ちすぎた初めてのバイク体験。でも、いざバイクに乗ってみたら、街の喧騒がダイレクトに肌に伝わってきて、これがホーチミンの街の本当の姿のような気がした。タクシーに乗って眺めていた時とは全然違う。街の存在が一気に身近に感じられた。たぶん、普段ここに住む人の目線と空気を感じられたからだと思う。
振り返ってみると、そんなバイクに乗った時間が何より印象的で、楽しい瞬間でもあった。ちょっとこわかったけれど。
きっと旅行で来ていたら、多すぎるバイクを外から眺め、こわすぎる道路横断に右往左往しながら旅が終わっていたと思う。でも、ホーチミンの街では「中に入ってしまうこと」の方がはるかにおもしろかった。ガイドブックには、そんなこと一言も書いてない。そりゃそうだ。街と仲良くなる方法は、いかに暮らしの中に入っていけることかなんじゃないかと思う。
そんな暮らしの中に入るきっかけなんて、しっかり準備すればいいというものでもないんだと思う。きっかけなんていきなりやってくる。周到すぎる準備なんていらないのかもしれない。いまの素の自分でまずは飛び込んでみることが、大事な気がした。
ホーチミンのおもしろさは、きっとバイクの後部座席にある。
いまでもたまにバイクにぶつかりそうになる。慣れた気になっていたら、実際そうでもなかったり。でも、いろんな積荷と人を載せて走るバイクは、実は突っ込みどころ満載で毎日見ていて飽きないのが不思議とおもしろい。
今日もバイクと呼吸をあわせながら、海を乗り越えて行くのだ。(了)
【写真でふりかえる ベトナムのバイク事情】
【第4期生 募集】武谷朋子さんがキュレーターをつとめる講義
自由大学「じぶんスタイル世界旅行」 – 旅軸のある、ひと味違う世界旅のつくりかた – @表参道COMMUNE246キャンパス 2015年11月8日(日) よりスタート 詳細は https://freedom-univ.com/lecture/world_travel.html 自分の好きなことややりたいことを軸に、自由に世界を駆け巡る。それが世界を舞台に自分が主役で楽しむ「じぶんスタイルの旅」。ただの観光や放浪の旅ではなく、未来に繋がる自分にしかできない旅のつくりかたを一緒に学んでいきます。 |
(次回もお楽しみに。3週間後、更新目標です)
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第1話 ベトナムで暮らそうと言われても(2015.9.24)
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