面倒な映画帖42話 2008年、ふたりは防水シートにくるまる 『ベルサイユの子』/モトカワマリコ

面倒な映画帖貨幣経済の外で生きるのは、少しぐらい寒くても、病気の時に不安でも、自由ですがすがしいものなのかもしれない。しかも棲家があるのは、鹿が跳ねる美しいベルサイユの森。フランス史に残る王妃が贅を尽くして建てさせた優美な城を従えて無冠の王のように暮らしていたのだから。

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映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

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面倒な映画帖42「ベルサイユの子」

2008年、ふたりは防水シートにくるまる

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 マーク・レイはモデル兼写真家、夜な夜なNYのギョーカイパーティに顔を出し、乾杯の海に溺れるオヤジパリピーだ。その実は現住所を持たず、ビルの屋上の人目につかない隅っこにブルーシートで囲いを作って暮らしているホームレスという事実に驚愕。早朝、公園のトイレでひげをそり、ジムの利用料だけは必死で払ってシャワーとアイロンの電源だけは確保している。清潔感キープ、よれよれのジャケットでも、周りはデザイナーズ・ビンテージだと思ってくれる・・・たぶん。そうして10年近くの間、脆い虚像を演じつづけたフェイクの伊達男を題材にしたドキュメンタリー「ホームレス」はかなり面白かった。マークは映画のおかげで来日し、「ほぼ日」にまで登場、本物の有名人になってからも、屋上で暮らしているんだろうか。

 

偶然、しかし数学的対峙

ふっと、ずいぶん前に公開された『ベルサイユの子』を連想した。ドキュメンタリーとフィクション、舞台はNYとベルサイユ、相違は大きい、でも不思議なほど完璧なネガポジになっていやしないか。華やかな人生を夢見ていたが、どん底まで滑り落ち、セレブのふりをしているけど、実はホームレスという秘密を抱えた実在の男の話。一方では、リアルはセレブ俳優なのが、カメラの前で世捨て人のふりをする男。

その俳優、主演のギョーム・ドパルデューは2008年の10月に逝った。偶然、マークが路上生活を始めた頃にシンクロする。映画公開は訃報のすぐあと、フィルムに焼き付いた重苦しい虚構を追いながら、追悼するしかない。悲しい役が多かった。黙っていても、体から立ちのぼる怒りと哀切は、追従を許さないものがあった。威厳と弱さがないまぜになった、傷ついた獣の王めいた俳優だった、とにかく、絶対に死んでほしくなかった。

 

森の動物のように淡々と生きる時間

ベルサイユ宮殿の周囲に広がる森の中に、ホームレスがたくさん住んでいる。生活に困った子連れの母は、幼い息子エンゾを、偶然行き会った森のホームレス・ダミアンに預けて消えてしまった。子どもを残されて困惑しつつも面倒を見ることに。森の生活は、サバイバルだが、それでも即席親子には楽しい共同作業でもある。ぶかぶかのセーターを着て、顔に泥がついていても、ゴミ箱を漁っても、エンゾは幸せそうだし、そもそもこの「にわかパパ」を失うわけにはいかない、全力でついていくしかない。傍目には、汚い浮浪児、でもミニマムな生活の内側にいれば、どうということはないのかもしれない。ふたりは日々、社会の掟をかいくぐり、食べものを集め、火をおこし、眠り、淡々と生きていく。

そもそも、社会のシステムにハマり、歯車の一つとして生きていくことが不可能だから、路上で暮らす。芸術的な廃材テントを立てたり、ホームレス仲間のブレインとして頼られる能力があるのだから、ダミアンはむしろ頭脳明晰だ。でも、定住ができない。長い信頼関係を築いて、同じところで働き続けることも。モノを所有し所有され、人と関わって責任を負う、人の要求にこたえ続けて生きる赦しを乞うようなことが、どうしても嫌なのだ。普通の人が我慢できることが、まったくできない。 理由などない、嫌なものは頑固に嫌、彼らを屋根の下に押しとどめておくことなど、不可能なのだと思う。貨幣経済の外で生きるのは、少しぐらい寒くても、病気の時に不安でも、自由ですがすがしいものなのかもしれない。しかも棲家があるのは、鹿が跳ねる美しいベルサイユの森。太陽と称されたフランス史に残るルイが贅を尽くして建てさせた優美な城を従えて無冠の王のように暮らしていたのだから。

幼いエンゾに森の生活の実地英才教育をほどこし、父としてふるまうことは、新しい興味でもあり、不安でもあった。「愛」というものは厄介だ、ある時、自分が病気をして死にそうになったタイミングで、子どもが一人になったら生きていけないという恐怖を自覚し、エンゾの就学のために嫌悪する父親の家に身を寄せる。そして、子どもを父の元に置いて、永遠に去ってしまう。 母と、仮初の父に二度も捨てられて、エンゾはかわいそうな子だ。それでもフィクションだ、虚構にすぎない。監督がモデルにした実在の人物もいたかもしれないが。

 

青天井の下で、くるまって眠る

マークのリアルな生活を映した「ホームレス」は、都会の孤独と虚飾、苦労が伝わってきて、やるせない一面があるにはある。だけど、どうなんだろうか?チャンスさえあれば、NYで成功したいと思っていたのではないか。彼には健康な野心があり、人々の間で楽しく愉快に生きるだけの力もあるのではないか。経済的にはホームレスだというだけ、セレブとホームレス二つの役を演じている中間的な精神状態かもしれないということ。そこはわからない。マーク自身が心の中で「こうだ」と思っているだけで、あとはマークのリアルな人生が、カメラ抜きで流れていくだけのことだ。

一方、本当は成功したセレブなくせに、カメラの前だけやつれ果てた顔をしてホームレスを演じているギョーム=ダミアンがいる。もちろん、ダミアンはフランス映画が好きな「バガボンド」の典型だというだけ。それでも時空を隔てて防水シートにくるまる二人は私の中で対をなす。一方は死んでいて、一方は生きている。ふたりは、それぞれの朝がくるまで、虚実の境界を挟んで眠る。

ギョーム・ドバルデューは、ロケ中にルーマニアの森で肺炎になって死んでしまった。フランスの詩人の名前をもらった傷だらけの男は、暗喩だらけで嫌味な詩のような作品とともに鬼籍にいってしまった。次回作はなし・・・古いDVDを見ては、繰り返し自分に言い聞かせる。

C’est trop loin. Je ne peux pas emporter ce corps-là. C’est trop lourd.

~Le Petit Prince~


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在は、ウェブサイト、月刊誌プレジデントウーマンでライターとして、文化放送で朝のニュース番組の構成作家としても活動。趣味は映画と声楽。二児の母。