一身上の都合 第6話「意志があれば道は拓けると信じているから」 福田岳洋さん(元プロ野球選手)の場合

murakami_in_banner

遅咲きで辿り着いたプロのマウンド。野球選手の戦力外通告と新しいスタート

第6話  福田岳洋さん(元プロ野球選手)の場合

意志があれば道は拓けると信じているから

 

 

10月1日と聞くと、内定式を連想する。就職活動を終え、学生最後の夏が過ぎてとうとう社会人になることを意識させられる日だ。

だが、この日付はプロ野球界では別の意味を持つ。この日から戦力外通告が解禁されるのだ。通告を受けた者は、別の球団、あるいは日本野球機構(NPB)以外の場所で野球を続けるか、現役から引退するかを選択しなくてはならない。

2013年10月に福田岳洋(たけひろ)さんは戦力外通告を受けた。それから1年、人生で初めて野球選手になるという夢が失われた時間を過ごしている。

福田岳洋

連載「一身上の都合」とは、むらかみみさと(オーディナリー編集部)が聞くみんなの退職ストーリー。「一身上の都合により」そのひとことの裏には十人十色の事情や決意がありました。辞めることからはじまったゲストの人生からは、私たちが学べることがきっとあるはず。
—-
ーーー
—-

挫折の中で見つけてきた道

 

26歳でプロ野球選手になり、30歳で現役を引退した。多くの選手がそうであるように、プロになる夢を追いかけた時間のほうが、プロでいた時間より遥かに長かった。

野球をはじめたのは小学2年生のとき。出会いは偶然だったけれど、以来野球が生活の中心にあった。プロ野球選手になるという夢をずっと持ち続けていた。高校では甲子園を目指し、京都の大谷高校に進学した。1年で野球をしない日は両手で足りるような野球漬けの高校生活を送るが、甲子園に出場することはできず、チームのエースにもなれなかった。

福田岳洋

福田岳洋さんとむらかみみさと。福田さんが現在勤める会社は皇居のお堀の近く。

日本でプロ野球選手になるためにはドラフトで指名されなければならない。最初のチャンスは高校3年生のときやってくるが、そのとき道は開かれなかった。これからの進路を考えたとき、野球と関係のある勉強をしたいと思いスポーツ科学を学ぶことを決め一浪後に高知大学に進学する。大学でも野球は続けていたがまだまだプロの世界は遠い。大学を卒業する頃になってもプロ野球選手になるという夢は現実から隔たったところにあった。

プロを目指すか、それ以外の道を探すか、再び選択のときが訪れた。選手としてではなくても、野球に関わって生きていきたい。その思いから研究を続けることを選び、京都大学の大学院に進んだ。小田伸午教授(現関西大学)のもと身体の使い方といった行動制御学を学んだ。ずっとピッチャーをやってきたから、自分を実験台として研究する事ができた。院生の中には陸上のトップアスリートとして陸上を研究する者や、歩行や姿勢の研究する者もいた。高度な設備とレベルの高い学生たちの中で研究を続ける中で、研究者の道がおぼろげながらに見えてきた時、図らずも野球の能力も伸びていった。

大学院に進むことを決めたとき、もうプロ野球選手にはなれないかもしれないという思いが片隅にあった。それでもすっぱり辞めず、社会人野球のクラブチームに所属しながら野球を続けてきたのは、まだ夢を諦めきれないからだった。

福田岳洋

手にはタコが。「主にバッティングでついたものですね」

ーーー

ーーー

もう一度、回り道

 

気づけば24歳になっていた。既にプロの世界で活躍している同世代もいる。野球以外に目を向けても、社会に出たり家庭を持ったりする同級生が増えていく中で、いつまで夢を引きずっていくのかと迷うこともあった。プロ野球選手という夢にまだ指先は引っかかっている感覚がありながらも、立っている場所は現実に呑まれようとしていた。

一歩を踏み出すきっかけを与えてくれたのは、大学院で出会った先輩だった。

大学院で出会った人達は優しく優秀だった。研究者としての能力の差に悩むこともあったが、お前は勉強の時間も全て野球に費やしてきたのだから、その差は当然のことだと励まされた。勉強ができるか野球ができるかは、優劣ではなく、有限の時間を何にどれほど使ったのかそれだけの違いでしかないことを教えてくれた。そしてそれは自分が野球に費やしてきた時間を肯定してくれる言葉でもあった。

福田岳洋

インクは飛んでいるが先輩の文字がかすかに見える。「本当にこの計画通りに実現できたんです」

先輩はこのまま未練を残すよりも、2年という区切りを決めてもう一度野球に専念するように背中を押してくれた。そのときレシートの裏に描いてくれた未来予想図を今も大切に持っている。

家族も力になってくれた。これまでずっと、ひたむきに野球に取り組むことを肯定してくれたように、まだまだ先が長い人生、20代で少しくらい足踏みしてもなんの問題もないと応援してくれた。

周りの声援を受け、大学院を休学し独立リーグへ入団することを決めた。そうして約束の2年目を迎えた2009年10月、とうとうドラフトで自分の名前が呼ばれるのを聞くことができた。

福田岳洋

「それまでも野球に全力で励んできましたが、プロ選手はさらにストイックです。トレーニングも食事も、質が別次元。自分なりのこだわりも相当なもの」

ーーー

 ーーー

夢の場所に立つ

 

ドラフトで指名された瞬間は合格発表のような気分だった。高卒でプロになった同世代とは10年近いキャリアの差があり、中堅と呼ばれる年齢からのスタートである。だが、とうとう夢焦がれていた場所へ辿りつけたのだという喜びでいっぱいだった。

初登板は横浜スタジアムでの阪神戦。サードゴロに打ちとった球を村田選手(現巨人)がさばくのを見て、プロ野球選手になったのだと実感した。憧れてきた場所で、全ての時間を野球に使うことができる。それまでも野球中心の人生だったけれど、プロになってからが最も野球のことだけを考えて生活していた。しかし現役生活は予想よりも早く終わりを迎える。

2013年、プロになって4年目の8月が一軍での最後の投球となった。厳しい状況での登板で打ち込まれ、即日二軍行きを告げられる。もう二度とここへは戻って来られないのではないかという予感がよぎった。それでも翌日は二軍で練習をしなくてはならない。空元気を出してみたけれど気持ちがついていかずに力が入らない。まるで色が消えたように自分のいる世界が変わって見えた。

福田岳洋

「あの日を境に世界から色がなくなりました」

二軍で練習をするのは一軍で投げるためであるから、チャンスを与えられないとしたらなんのためにそこにいるのかわからなくなる。気持ちを切り替えなくてはいけないと理解していたものの、なかなか整理を付けることも吹っ切ることもできなかった。そして2か月後、戦力外通告を受けることになる。

10月になってから、電話が鳴るのが怖かった。残暑も去り日に日に秋の空気が濃くなっていく中で、悪い予感がずっと心の片隅に残っている。そして球団事務所に呼び出された時、やっぱりと思う気持ちと共に、それでもわずかに持ち続けていた希望が打ち砕かれたことで大きなショックを受けた。

まだプロで通用する球を投げられる自信はあった。トライアウトを受け、最後まで現役を続けるためにもがいたけれどプロ野球から引退することになる。

ーーー

新しい道のみつけ方

プロ野球選手だったときは、この日々が終わるということを考えたことはなかった。 “その後” を考えてしまえば全てを賭けることもできなかった。

福田岳洋

「最速150km/hを投げますが、同じ球を放れるなら、より若い選手を獲るもの。それはわかっています」

夢に辿り着くまで時間がかかったことを悔いてはいないけれど、同じレベルの投手ならば若い選手にチャンスが与えられるというシビアな現実もあった。

これからどうしようか、と夢を失い大きな空白だけが広がったとき、手を差し伸べてくれたのはこれまで関わってきた人達だった。プロの舞台に上がるまで他の選手よりも大きく遠回りをしてきた。だがその道の途中で出会った人達が、野球だけに費やした日々と外の世界との繋ぎ目を作ってくれた。

選手時代から応援してくれていた社長から「うちで働きながらこれからのことを考えたらいい」と言ってもらい、今年の4月から会計事務所で働きながら、次の目標へ進むための方法を模索している。大学院で野球の研究も再開した。今後は大学院でスポーツ科学を研究しプロ野球に貢献できるような実績を作ろうとしている。

プロ野球選手としての人生は終わった。選手としてマウンドに立つことはもうない。だけどこれからも、誰かがその場所でボールを投げる。その一球一球が最高のものであって欲しいと願い、その手助けができたらと考えている。

そしてひとりでも多くの人が野球を愛し、それに勇気づけられるような役割を果たしたいと思っている。野球にだけ使っていた時間を解放し、まだ見ぬたくさんの人と出会い、新しい世界を見て、自分がその中でどんな役割を担えるか次の夢を探している。

 ーーー

編集後記 : 夢を追う日々でしか味わえない幸福がある

 

ある人に「転職経験者は落伍者」と言われたことがある。特別深刻な場面ではなく、文脈も忘れてしまって真意も定かではないが、同意と反感の混ざり合った複雑な気持ちになったことだけは覚えている。

多様な働き方が増えてきたとはいえ、まだまだ堅実なライフプランを立て、そこから外れないように生きることが  “賢い選択” だとする声は大きい。そんな中でレールから降りようとすると、短絡的だとか、忍耐がないと言う人もいる。私の場合、目の前の安定にしがみつくために、もっとワクワクする未来を手に入れるチャンスを諦める気になれなかった。人生の責任を取るのは自分しかいないから、思うように生きていきたい。

野球に限らず、スポーツ選手は引退後の “余生” の方がずっと長い。大きな夢に到達し、プレイヤーとして活躍した時が輝かしいほどに、その後の人生とどう向き合っていくか悩むことも多いだろう。経済的な堅実さから言えば、リスクの高い選択であるし、ほとんど割に合わない。子供の頃は好きで熱中していたことが、成長し人生を考える局面が近づくに連れ、どこまで夢を追いかけるのかという決断に迫られ続ける。

福田岳洋

「目先の安定よりもワクワクする未来を選んでいきたいですよね」

福田さんにうかがった野球人生も挑戦と挫折の繰り返しだったけれど、その浮き沈みの中でたくさんの人と出会い、それがこれからの人生の糧になっていくのだと感じた。

プロになることを決意して独立リーグに行くことを選んだとき、先輩が描いてくれたという未来予想図を見せてもらったが、インクが飛んで真っ白になってしまっていた。光の加減でうっすら見えるだけになったその地図を、今度は自分で描いていくのだろう。

好きなチームが負ける、特に目も当てられない負け方をしたとき、いっそ好きになんてならなければよかったと思うことがある。でもまた応援してしまうのは、また次の試合があるからだし、何よりそのチームや競技が好きでエネルギーを与えられるからだ。

その感覚は夢見ることと少し似ている気がする。苦しい状況に追い込まれた時、いっそこんな夢諦めてしまえとか、夢見た事自体を悔いてしまうかもしれない。けれど、夢を追う日々でしか味わえない幸福や感情があるはずなのだ。そして夢が終わった後も、そのとき得たものが次に向かう動力になる。誰もが心の何処かで、理屈ではなく情熱で駆け出したいという思いを持っているはずだ。(了)
ーーー

福田岳洋福田 岳洋(ふくだ たけひろ)
元プロ野球選手
1983年生まれ、大阪府出身。大谷高等学校、高知大学を経て京都大学大学院に進学。2007年独立リーグ・香川オリーブガイナーズ入団。2009年度ドラフト会議で横浜ベイスターズから5位指名を受け、翌年入団。2013年戦力外通告を受け現役引退。現在、株式会社東京総合経営勤務。現役時代の成績はWikiにて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(次回をお楽しみに。月一更新目標です)

連載バックナンバー

第1話 「できることを増やすため」 むらかみみさとの場合 (2014.4.20)
第2話 「旅に出るワクワクを抑えられないから」 小林圭子さんの場合(2014.4.30)
第3話 「今の自分に耐えられなかったから」 伊藤 悠さんの場合(2014.6.16)
第4話 「夢を叶えた後の人生を歩き続けるため」坂本那香子さんの場合(2014.7.14)
第5話 「ずっと戦い続けたかったから」 尾和 正登さんの場合(2014.9.25)


むらかみ みさと

むらかみ みさと

1986年阿蘇生まれ。生きた時間の半分を読み書きに費やしてきました。 ORDINARYでは広報・PR、ユーザーコミュニケーションなどを担当。 公私ともにコミュニケーションにまつわる仕事をしています。 円の中心ではなく、接点となる役割を追求したいと思っています。