面倒な映画帖38「アフリカの女王」実は王道? 魔性のスーパーサブ男 / モトカワマリコ

面倒な映画帖さっきまでの「ダサダサオヤジ」は特殊メイクでした・・・みたいに、髭も剃られ、垢じみたシャツがなんとなくきれいになり(どこで調達したのだろう)ついには彼女をぐっと抱き寄せ、熱いキスをする姿も無理がないほどに、二枚目と化している・・・まさしく魔性の男。「

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映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

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面倒な映画帖38「アフリカの女王」

実は王道?魔性のスーパーサブ男

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今国営放送で放送中の大河ドラマ、「女上司」もとい女城主井伊直虎は、裏切り者の重臣小野但馬守政次を槍で刺し殺す。

あのドラマは国策なんだろうか。上司はかくあるべし、NHKは女性リーダーのお手本を示したいのでは。政府は2020年までに指導的地位に占める女性の割合を30%に引き上げる目標を立てているが、現実は平均6.9%、先進国では最低レベル、理想とはかけ離れている。

そもそも政次はお姫様の幼馴染で、叶わぬ片思いをしている。長じては重臣ブレインとして「お殿様」になった彼女の領地安堵のため知恵を絞り、果てには命も投げ出すわけだが、メロドラマだけではない、小領主が外圧を回避してなんとか体制を維持しようとする努力でもあった。女性たちの熱狂は政治的に難しい領地安堵プロジェクトを共に支えてきたスーパーサブ、献身的に支えてくれる理想的な相棒、そういう存在への渇望ではないのか。 優秀な実務家、目的のためには率直に進言もする、泥もかぶり、我が身を地獄へ投じることも厭わない、信頼できる気骨のあるスーパーサブ。女性が強くなり、難しい立場になるほど、支えてくれるNO2の存在が欲しいと思うのかも。

もちろんそういう部下は女性でもいいんだけど、そこは正直、独身男性で、まあまあの容姿で、矜持はあるが、どこか陰があり、華がないならボスの地位も安泰、しかも心の底には自分への溢れるような好意があるとなおよし、とか妄想する。もっとも、現実には人材は限られている、能力があったら、女の野心の犠牲になどならない。近世ならともかく、今は21世紀なのだから、組織など捨てて独立してしまうに違いない。歴史しばりあってのファンタジーなのでしょうけど、だからこそ。

 

ハリウッドには50年代からあった妄想路線

ハリウッドの50年代にも、強い女を支えるスーパーサブが出てくる映画があったな・・・と考えたらキャサリン・ヘップバーン主演の「アフリカの女王」が思い浮かんだ。あれも超限定的条件下での妄想っぽい。 監督は天下のジョン・ヒューストン。主演はヘップバーン、ハンフリー・ボガード、アフリカロケを敢行したけど、ほぼ意味がなかった。別にスタジオでも、アメリカの河でもよかったのではないか。実にアフリカに失礼なことに本当に「窮地の二人」の設定用に舞台を借りただけ。50年代の意識はまだまだ19世紀から抜け出せず、ヒューストンがロケを望んだのは、ただサファリがしたいだけだった?猛獣狩りばかりして撮影が進まなかった云々・・・ヒューストンの暴挙がのちに小説や映画にもなった、悪名高き名作だ。

映画はほとんどアフリカの激流を下る小さな郵便船「アフリカの女王」の上で展開する。第一次世界大戦が勃発したばかりのアフリカが舞台で、焼き討ちにあった村からイギリス人宣教師の妹を郵便船の船長が助けて逃げたのち、二人でドイツの戦艦を破壊しようとするという筋書き。身分が違うからと、水と油だった二人が、激流下りやワニ、敵の攻撃などをくぐりぬけ、意気投合していく。

 

「ボギーなんてかっこいいか?ハチマキ巻けばすし屋のおやじ」BY 松田優作

ところでボギー=ハンフリー・ボガードがハンサムかというのは、疑問だ。子どもの時から、「カサブランカ」や「サブリナ」を見て、どこがどう二枚目なのか、ずっとわからなかった。この映画の冒頭の冴えないさまはボギーの映画史上最低レベルといえるだろう。人生に負けてアフリカで郵便船の船長になったならず者、粗野で髭ぼうぼうで、社会の底辺で無気力に生きている。「未開の土地」にキリスト教を広めるという「崇高な使命」を帯びた牧師の妹とは身分が違う。本来なら、気位ばかり高い「お嬢さんおばさん」など面倒くさい。しかし、周囲をドイツ兵に囲まれた村に置き去りにするわけにもいかず、嫌々助けた・・・という感じだが、観客にしたら、これから船上で二人の密室劇を見るのに、こうも格差が開いていたんじゃ、なんの展開も期待できない、いがみ合うおじさんおばさんの川下りを眺めてもなあ、と思ってしまう。

さすがに映画なので、川下りが始まると10分毎にまるでディスにーランドの「ジャングルクルーズ」のように事件が起こり、二人は命がけで危機を乗り越えていく、不思議なのは、ハードルを越えるたびに、非常に微妙なステップで、ボギーの器量が上がっていくこと。彼女にとって最初は野蛮人そのものだったが、アフリカの川は危険が多く、急流も危ない岩場もわかっているガイドなしには下れない。どんなに下卑ていても、彼だけが命綱であり、次第に認めないわけにはいかなくなる。彼も、他人ごとだったはずが、彼女の純粋さにほだされ、信者だった村人や、牧師だった兄を死に追いやった敵に復讐するための協力者になっていく。

 

支えない男より支える男がかっこいい

クライマックスを迎え、コンビがすっかり意気投合して、恋愛さえ始まってしまってしまう中盤あたり。あれれ?と気づくと猫背だった船長は、しゃっきりと背筋を伸ばし、あまつさえ大人の男の色気さえ漂わせはじめる。さっきまでの「ダサダサオヤジ」は特殊メイクでした・・・みたいに、髭も剃られ、垢じみたシャツがなんとなくきれいになり(どこで調達したのだろう)ついには彼女をぐっと抱き寄せ、熱いキスをする姿も無理がないほどに、二枚目と化している・・・まさしく魔性の男。そんな変身具合を評価されてか、本作は彼にアカデミー主演男優賞をもたらしている。 この変化は恋をした女性の目を再現しているともいえる。何かのきっかけでスイッチが入り、恋愛モードに切り替わった女性の目には、まったく同じ男が、頼もしく、好ましく見えてくる。好かれている相乗作用で男女のコンディションがそろい、恋愛が始まる、ということかもしれない。映画はそんなこともできるのだ。

彼女の悲願は、復讐。ボロボロの郵便船に爆弾を積んで、ドイツの戦艦に突っ込んで沈没させることだった。船長はそんな義理もないのだが、彼女の復讐に全力で力を貸すのだ。しかし相手は世界に冠たるドイツの軍隊である、二人きりでどうにかできるわけもなく、あっさりつかまってしまう。船長は処刑前の最後の望みを聞かれ、死ぬ前に結婚させてくれと願う。・・・二人の恋愛は、終焉と同時に成就し、幸福と不幸のずんどこで映画もクライマックスを迎える。

彼女みたいな我の強い、思い込んだら命がけみたいな女性と同じ船に乗りうる男は、彼女のプロジェクトを全力で支える無私なスーパーサブでなくては務まらない。自分の野心よりも女性の意向を汲み、槍で刺し殺されても彼女の幸せ願う、3歩下がって彼女の影を踏まず、そんな心の闇を抱えた超ドM献身男に命を差し出してほしい、俺様よりNO2、王子様よりも宰相に萌える、これからは、そんなお殿様女が増えていくのかもしれないし、恋愛ドラマの構図もそんな方向が受ける時代がやってきているのかも。でも彼は犠牲の見返りに何を得るんだろう?そこがスーパーサブ男の謎であり、魔性の根源だ。ハイスペックなのに表に出ない、どうにも深い闇がある、何が目的かわからない、サイコパス?そういう人に近寄ると、人生が複雑になりすぎる。

そろそろみんなわかってきている、実は人間の主従はスペックよりも、性別よりも、生まれ育ちよりも、エネルギー、その人がもつ熱量と世の中に対する使命感によるものじゃないか。力のある人は、立たなくちゃならない、お姫様でもなんでも逃れられない、人口比的に。さあ、これからは有望な女性を影で支えるのも「かっこいい男」の型、固定観念を捨てて、与えられた役割を果たそうね、みたいなスーパーサブの↑イメージモデルを、当局は磔串刺しが及ぼす魔性の力で国民の脳裏に焼き付けようとしたのかもしれない。萌えゲーのパターンにも、すでにあるかしらん、自己犠牲しまくるスーパーサブ。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在は、ウェブサイト、月刊誌プレジデントウーマンでライターとして、文化放送で朝のニュース番組の構成作家としても活動。趣味は映画と声楽。二児の母。