【第015話】同じ誕生日の兄弟が双子ではない理由

牛がうろうろしています

牛がうろうろしています

【インド旅篇】


会ったことがないからといって

存在しないわけではない

 

診療所で点滴を打たれ、寝ている時だった。
状態も落ち着き、少し余裕がでてくるとドクターの助手と世間話をした。
「ジロー、きみはいくつなの?」と聞かれ、誕生日の話になる。

「あと数日で34歳の誕生日だよ」
「そうか、俺も明日、誕生日なんだよ」
「なんだ、近いねー」といろいろ話してたんだけど、彼がこの言葉を言った時からなぞなぞのようなやりとりが始まってしまった。

「俺には同じ誕生日の兄弟がいて、毎年みんなで祝うんだよ」
「それはいいね! そうか、きみは双子なんだね」と聞くと
「いや、双子じゃないよ」と言う。

同じ誕生日に生まれているのに双子じゃない? あー、そうか、母親が違う異母兄弟かなと思って聞くと「いや、母親は同じだ」と言う。

「それじゃ、双子じゃないか」
「だから違うって」
「同じ誕生日で、同じ母親から生まれた兄弟でしょう?」
「そうだよ」
「そういうのを双子って言うんだよ」
「だから違うって」

そんなやりとりをくり返して、ようやく真相が判明した。
彼は双子ではなく、三つ子だったのだ。

思い込みというのは、こわいもので、双子以外ありえないものだと思ってしまっていた。三つ子なんて今まで会ったことがなかったから。

「きみが会ったことがないからといって、存在しないわけではないんだよ」

笑いながら、彼は諭した。

そういえば、バラナシに来て初めての夜のこと。暗闇を歩いていて、牛を蛇だと間違えたことがあった。しっぽがくるっと腕に巻き付いたから「蛇に触った!」とギョッとしたんだ。闇の中、目を凝らしてみるとパタパタしてる牛のしっぽにかすっただけだった。

人は、はじめに触った部分によって全然ちがう想像をする。もし、はじめに牛のつのを触っていたら、木のようだと言ったかもしれない。足を触れば、馬だと思うかもしれない。しめった鼻を触れば苔だとか。そのたった一部分だけで全体を決めつけてしまう。

人は自分が知っているものだけで、勝手に判断してしまうものだ。自分のまわりにいない人は存在しないものになってやしないか。

 

日本でのことを思い出す。真夏の朝のラッシュ時、スーツばかりの満員電車。ぼくもかつてスーツの新人サラリーマンだった時代があった。息をするのもやっとなくらいの圧力で押されギューギューの蒸し風呂状態。連日の営業ノルマも肩にのしかかり、ストレスはピークだった。そんな中に、登山にいくおじさんが大きなリュックをかついでグイグイと乗り込んできたことがあった。そのとき思ったのは、「空気読んでくださいよ」ということ。

「でかい荷物持って、まわりに迷惑でしょう。レジャーにいくならこの通勤時間帯は避けるべき」

本当にね、お前は何様だ、と叱ってやりたいですよね。本当に恥ずかしいことを思ってしまった。当時の自分に言ってやりたいのは、「勝手にレジャーって決めるな」ということ。

いまならわかる。山に行くのがレジャーじゃない、仕事だって人もいるんですよ。あのおじさんは、山岳ガイドや山岳ライターだったかもしれない。だれも好き好んで満員電車には乗らない。その時間に行かなきゃいけない事情があるかもしれない。世の中は、スーツ着てオフィスワークしてる人ばかりじゃないんです。自分の友人に山岳ガイドがいないからと言って、存在しないわけじゃないんだ。

さっきインド人の彼に言われたこと、そのまんま。あーあ、ぼくはあの満員電車から、なにも成長していないのかもしれない。少ない過去の経験で決めつけないこと。世界はもっと広いのだ。(約1418文字)

三つ子だっているんだよね

三つ子だっているんだよね


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。