陸から国境を越える時には、不思議といつも緊張してしまいます。それと比べて、海から他の国に入ることはいつも、どこか明るくて開放感を感じます。それは道路の検問所がなにかを防ぎせき止めるための場所なのと比べて、港は様々なものが出入りする場所だから感じるイメージなのかもしれません。
TOOLS 32
旅でその地を味わう方法 – 風の力で進む帆船で口之島まで航海した話 –
田中 稔彦 ( 海図を背負った旅人 )
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自由に生きるために
ときには海から国境を越えてみよう
ひょんなことから、ぼくは1998年から2013年までの15年間、二隻の帆船でボランティアクルーとして運航のお手伝いをしてきました。
帆船(はんせん)とは、帆を張り風の力で走る船のこと |
二隻は50人ほどが乗船できる中型の帆船でした。自分の仕事(舞台照明家)の合間に無給で、毎年少なくとも一ヶ月、長い時には二ヶ月余り、帆船のベッドで眠ってきました。
おかげで、普通に暮らす中では「あまり行かない場所」にたくさんいくことができましたし、あまり出会わないような人たちといろいろな航海をすることができました。そしてふだんはうかがい知ることの少ない船乗りの世界なども垣間見ることができました。
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あまり行かない場所
大阪から口之島まで航海した時の話
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これから、ぼくが帆船の航海の中で見聞きした、いろいろなことを書いていこうと思っています。
「あまり行かない場所」で思い出したところに、トカラ列島の口之島(くちのしま)があります。トカラ列島は屋久島と奄美大島の間にある島々で、鹿児島県に属します。 その一番北にあるのが口之島。ここは昔、島を分断して国境線が引かれていました。
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何年か前の皆既日食に絡んでトカラ列島の名前を聞いた方もいらっしゃるかもしれませんが、そうでもなければ注目を集めることもない小さな島々です。交通手段も鹿児島から奄美大島までそれぞれの島に立ち寄りながら丸一日かけて走るフェリー一隻だけしかありません。それほど遠いわけではないけれど多くの人がその存在を知らない、トカラ列島とはそんなところです。
2004年の夏に帆船「あこがれ」のクルーとして、この島を訪れました。大阪を出帆して口之島に上陸、そして大阪に戻る11日間、トレーニーと呼ばれる乗客33人と10名ちょっとのクルーでの航海でした。
ちょうど進路上に台風があり、最初は大阪から南に下って太平洋に抜ける予定を比較的海が穏やかな瀬戸内海経由に変更。台風をやり過ごすためにワザとゆっくりと進んだのですがうまくいかず、出航して二日目には小豆島(しょうどしま)に投錨予定だったのを急遽変更して大阪に引き返して港に入ったりもしました。
「ホントにトカラまで着くの?」みたいな雰囲気も船内には流れていましたが、三日目以降は順調に航海を重ねていきました。明石海峡大橋をくぐり来島海峡(くるしまかいきょう)を抜けて瀬戸内海を西に。九州と四国を隔てる豊後水道(ぶんごすいどう)を南に下って太平洋に出て九州南端の佐多岬(さたみさき)を越えていきました。
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航海6日目の朝、無事に口之島に着岸
島民140人しか暮らしていない静かな島だった
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口之島は屋久島の少し南にあり、周囲20km、人口が140人ほどの小さな島です。中央部が盛り上がった火山の島ですが有志以来噴火の記録はなく、山は一面緑に覆われています。商店は一軒だけ。小学校と中学校には合わせて8人の生徒しかいない。静かで何もない、そんな島でした。
この日は島の方に車を出していただいて、港とは反対側にあるセランマ温泉へ。車1台がやっと通れるような狭くて曲がりくねった山道を30分。
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途中には日本で唯一の野生の黒毛和牛がのんびりと草を食むところを眺めたりしながらようやく温泉に到着。
集会所のような建物の奥に男女別の内湯と混浴の露天風呂が。露天は湧きだした温泉がそのまま斜面を流れてきて溜まるだけのシンプル&ワイルドな構造でした。
翌日は朝食後にみんなは車でビーチまで海水浴に。ぼくは少し疲れていたので船に残り、船底についた貝を落とす作業のお手伝い。
船は常に水に沈んでいる部分に貝が付きます。そのままにしておくとスピードが落ちたりするので時々これを落とす作業をします。とは言うものの大きな船ではそれほど頻繁にやる作業でもないのですが、着岸していた港の水があまりにもキレイだったので、ここならやれるんじゃと機関長が言い出したのです。
機関長含め4人でシュノーケルと足ヒレをつけてスクレイパーを持って海に入り、スクリュー周りを中心に作業を開始しました。最初は安全のためにライフジャケットをつけていたのですが、当然のようにそれでは潜ることができなくて作業が進みません。港の中だし、潮も流れてないし、他の船もいないし、ということでライフジャケットを脱いで作業を続けることにしました。
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しかし潜っても自分の体を固定するのが難しく、その上1〜2分作業すると息継ぎしなくてはいけないのでほとんど作業は捗りません。ということで作業は中断されて、結局港の中で海水浴をすることに。5mほどの深さなのですが、岸壁から覗き込むだけで底まで見通せるほどの透明度で充分楽しめました。
この島にはかつて国境があり
密貿易が行われていた
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この日の朝、本隊が海水浴に出発する前に、トカラ列島の唯一の公共交通手段、フェリー「とから」の船長の中村さんから口之島のお話をいろいろとうかがいました。
その中で印象に残ったのが今では140人ほどしか住人のいないこの島に、一時期2000人を越える人が住んでいたという話でした。それはここがかつて国境の島だったからでした。
昭和21年、日本が太平洋戦争に負けて、連合軍司令部は北緯三十度より南側の島を米国占領軍の軍政下におくことを宣言しました。それによって沖縄や奄美大島などがアメリカの統治下におかれました。そして口之島はまさにその北緯三十度の線上にあったのです。
島の3分の1ほどのところの引かれた一本の真っすぐな線。たまたま引かれたその線の北側は日本のままで南側はアメリカになりました。
国境線が引かれたことによって、この島にはたくさんの人が移り住んできたそうです。今の島の主要な産業は漁業と牧畜です。そのころも島にそれほど多くの仕事はありませんでした。
人々がやってきた目的は密貿易です。
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アメリカ占領下の奄美諸島と本土
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口之島は密貿易の中継地として、時ならぬにぎわいを見せていたそうです。島の海岸沿いは二百軒あまりのほったて小屋が並び、そこで暮らす人々のために島には何件かの飲み屋が並んでいたといいます。今の静かな島の様子からは想像できないような話でした。
口之島の密貿易はあまり知られていませんが、終戦後の沖縄での話ならいくつか本などにも書かれています。例えば立松和平さんの『砂糖キビ畑のまれびと』は沖縄、とりわけ与那国島について書かれたエッセイ集ですが、そこでも与那国の密貿易について書かれたものがあります。
日本の西の端の島、与那国島
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地図を見るとすぐに分かりますが、台湾と与那国との距離は西表島や石垣島までとほとんど変わりはありません。
最盛期には毎日五十隻あまりの密輸船が押し寄せた、料亭が四十軒もあった、ドラム缶に金を詰めて運んだ、金を分けるのに目方で計った、などなど、本の中では当時与那国が密貿易で賑わったエピソードが次々と語られています。
またジャーナリストの奥野修司さんが書かれた『ナツコ 沖縄密貿易の女王』という本は、昭和20年代に密貿易で巨額の財を成した金城夏子の生涯を追ったノンフィクションです。
誰でも密貿易に関わることができて、運と才覚があれば大金をつかむことができる。戦争で焼け野原になり何もなくなった、だからこそ危険な橋を渡っても挑戦しようとする人が後を絶たなかった、そんな時代の沖縄について書かれています。
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辺境であると同時に
異なるものが出会うところ
海は人を結び付けるのです
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国と国との力関係でたまたまそこに引かれただけの一本の線かもしれませんが、そこは確かにいろいろな物語が生まれる場所でもあるのです。
日本で暮らしている限り「国境」を意識することはほとんどありません。いやたとえ海外に出かけても、飛行機で空港から空港へ移動するだけでは、「国境」を実感することは少ないかも知れません。
ぼくは陸路で国境を越えたことがあります。 海を越えて国から国へ旅したこともあります。 それはどちらも空港で国を越えるのとは違う体験だった気がします。
陸から国境を越える時には、不思議といつも緊張してしまいます。それと比べて、海から他の国に入ることはいつも、どこか明るくて開放感を感じます。それは道路の検問所がなにかを防ぎせき止めるための場所なのと比べて、港は様々なものが出入りする場所だから感じるイメージなのかもしれません。
古いイタリアのことわざに「海は人を隔てない。海は人を結び付ける」というのがあるそうです。
かつて地中海はヨーロッパとアフリカと中東が海を通して混じり合う、そんな世界だったそうです。もちろん対立や争いもあったでしょうし、海を通して災いがやってきたこともあったでしょう。それでも「人を結びつける」力が海にはあるのだと多くの人が感じていたからこそ、このことわざが今でも残っているのでしょう。
帆船の旅が好きなのは
かつてその地で暮らしていた人と
時間や距離への感覚を共有できるから
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点と点を結ぶように旅するだけでは見えないことがあるんじゃないか、ぼくはこの頃そう思うようになりました。
なぜこの街はこんな風景なのか、なぜこの人々はこんな習慣を持っているのか。一瞬だけその土地を通り過ぎる旅人にとってそんなことを実感するのは難しいことです。
けれどひとつのやり方として、揺れるバスに揺られて景色の移り変わりを見つめながら旅をしたり、潮の流れと季節風の向きを読みながら帆船で航海したりする。そのことで今そこで暮らす人やかつてその地で暮らしていた人と、時間や距離への感覚を共有する。より深くその場所に根付く人たちの思いを感じるためにそういうやり方もあるかもしれない、そう思うのです。
人の動きをなぞるように移動してみる。そういう旅がぼくには合っている、ずっと旅を重ねてきて、ぼくはそう思うようになりました。これがぼくにとっての旅のスタイルなんだと。帆船で航海することを好きになったのは、ぼくの中にそういうところがあったからなのかもしれません。
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旅でその地を味わう方法
1. 陸から、海から、空から。それぞれの越境の違いを感じよう
2. 国境は多くの物語が生まれる場所です
3. 帆船の旅ならその地で暮らす(した)人たちと時間や距離の感覚を共有できる
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田中稔彦さんが帆船に乗ることになった話
TOOLS 11 帆船のはじめ方(2014.5.12)
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写真提供:筆者本人