いっぱいいっぱいで、常にもがいていました。何かを掴もうと、手当り次第いろんなことに手を出してはみるけれど、触れても温度を感じない、雲や霞や蜃気楼を探っているような感じ。しかしこのような状況こそが、今自分が行っているアートという表現活動を始める発端となりました。
TOOLS 50
暗闇にいる自分との付き合い方
うしこ ( Artist / ソウゾウ家 )
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自由に生きるために
観客として自分を観てみよう
早いもので30代も半ば、今は普段は明るい人のように見られることの多い私ですが、前回のお話でもちらっと触れたように、大学生時代の自分は、というか自分の内面は割と暗かったです。“内面は” と付け加えたのは、“外面ソトヅラ” はあくまで(私の本名である)「陽子」をしていましたし、そういう内面は表には出していなかったと思うので。
あまり書くとこの話自体が暗くなってしまうので、この点については簡単に触れるだけにしたいと思いますが、どんな風に暗かったかというと、この世の中、地球に生きていることへの絶望感や、それに対して自分が何もできないという無力感、何者でもないという自己否定。そんな自分に反してキラキラと笑い、生きることを謳歌しているような周囲の人たちへの嫉妬、蔑み、憤り。自分でもイヤなヤツだなと思うぐらい、常に何かに苛立っていたり、人里離れた山奥に隠居したい、仙人になりたい、もう生きていなくてもいいんじゃないか、なんて思っていました。
はい、いわゆる「アイデンティティクライシス」とか「モラトリアム」と呼ばれるような状況です。当時はこんなきちんとした名称が付けられた、誰にでも起こりうる心理的状況だったとは露も知らず…。
今振り返ってみれば、「若いな」と上から目線で当時の自分を微笑ましく思えたり、「そういうことも、ひとつの経験」なんて大人ぶったことを思えたりもしますが、当時の自分はそれなりにいっぱいいっぱいで、常にもがいていました。どうにかしたいのだけど、何をどうしたらいいのかわからない。何かを掴もうと、手当り次第いろんなことに手を出してはみるけれど、触れても温度を感じない、雲や霞や蜃気楼を探っているような感じでした。
しかしこのような状況こそが、今自分が行っているアートという表現活動を始める発端となりました。
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1人称、2人称、3人称
3つの視点を切り替えてみたら
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こんな状況だったある日の帰り道、ふと見上げた夜空の遠くにまんまるの満月が。
「あ~、あの向こうの世界は眩しく光輝いている。あっちの世界に行きたいな」
なんともなしに、ふとそんな言葉を心で呟いていました。そして、「えっ?」と我に返りました。
満月の光によって星が消された夜空は漆黒で、その中に満月だけがポツンと佇んでいる。それはまるで、真っ暗な洞窟の中から見つめる、遠く先にある別の世界への穴=出口のようでした。真っ暗闇の中にひとつの希望。なんとも神々しい。
そして次に、その穴を暗闇の奥底から見上げている自分自身の姿が脳裏に浮かびました。
はじめは、自分の目で見ているように映っていた情景(なので自分の姿は見えない)が、一歩後ろに下がったところから周りの景色とともに自分の姿をも眺める情景に変わったのです。まるで、地上にある穴を見ているもぐらの視点から、かぐや姫が縁側でもの思いにふけりながら満月を見上げている映像を、TVの前で見ている視聴者の視点に変わったように。
この瞬間、これまで自分を包んでいた「苦しい、しんどい、ツライ」という感情がすっと消えた感じがしました。
ぐるぐるを抜け出すには
自分を他人として観るといい
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自分の経験上、何かの感情に自分が翻弄されている時というのは「自分は、自分は」という1人称で物事を見ているように思います。1人称で語る時というのは、自分の感情と直結しているためとても強い調子になります。気分のいい時や、自己主張をするときにはその方がよかったりもしますが、こと不調の時ですと、どんどんその不調のるつぼに「自分は、自分は… 」と落ちていってしまいます。自分以外の視点がないので、自分でそこから救い出せない。先や周りが見えないからただただ不安と恐怖。
そうすると今度は、「あなたは間違ってないよ、悪いのはあの人だよ」と自分を慰めたり正当化したり、「あなたのこういうところ、直した方がいいんじゃない?」とアドバイスする2人称で語る自分が現れてきます。この時というのは、友達や家族のようにまだ自分に寄り添ってくれているので、自分の感情と同調しています。現状をどうにかしようと次の声をかけるあたりは1人称の時と比べて一歩進んではいますが、あくまで心は自分と同調しているため、結局はまた元のところに戻ってきてしまいやすいです。
おそらく、この暗闇と満月の出来事があるまでは、ずっとこの1人称と2人称で自分は物事を感じ取りながら生きてきていたと思います。どうにも抜け出せないループの中をグルグルグルグル…。そして、そのように物事を見ていたということにさえも気づいていませんでした。それもそのはず、3人称の客観的な視点で自分を見つめていなかったから。
客観 ⇒ 観客として自分を観る
同じ映画やTVを見ても、泣いてしまうぐらい感動する人、そうでない人、登場人物の言葉に共感する人、不快に感じる人がいる、そういうことはよくあります。それはなぜかと考えると、その物語を観ている側の人が、その物語や登場人物に同調する心的要因を持っているかいないかということにあると思います。つまり、同じものを観ても、人によって感じ方が違ったり、作者の意図とは違うことでも感じたりするのです。
闇夜の満月を見上げている自分の姿を観客として観る側にまわった私は、「苦しい、しんどい、ツライ」と思っていた1人称の自分の心情をその情景からは感じとらず、ただ「かぐや姫のシーンみたいだな」と客観的にその情景を捉えていました。そしてその状況が面白いな、美しいなとさえ思いました。かぐや姫の時代的に言えば「いとおかし」。
自分を他人として観ることで、自分の感情が切り離されました。そして、その状況を「次はこうしよう」と自分で創造しようとしていました。自分のことだとついテンパりがちなことも、他人のことだと案外冷静に見て、「こうしたらいいのに」と思えるあの感じです。
それまで自分を包んでいた真っ暗な感情が一瞬にして消えてしまったこと、この情景は大きな物語のひとつのシーンと捉えることで、この物語を創るのは作者や監督である自分自身なのではないか、とふと思えたことは、自分にとって小さなきっかけで大きな転換でした。
それと同時に、自分から湧き上がってくるグツグツした感情や情景、もっとそれを吐き出してしまいたい。そしてそれを客観的に表現したらどんな風になるんだろう。そう思ったことが、アートという表現活動に興味を持つ始まりとなったのです。
暗闇転じて光となる。
深い闇があるから強い光を感じられる。陰陽不二。
太極図。
“陽極まれば陰となる。陰極まれば陽となる。”
“陽の中にも陰があり、陰の中にも陽がある”
これが宇宙の理(ことわり)に則った出来事だったと捉えられるようになったのはもっと後のこと。そのお話はまた改めて。
宇宙っておもしろいです。
暗闇にいる自分との付き合い方 |
※考えたり想像することはタダですし、誰に話す必要もないです。せっかくなので、悲劇のヒロインを楽しむぐらいの気持ちで想像してみるだけでも。
うしこさんがアートで自分をつくってきた話
【レポート】うしこさん「大河の一滴」インスタレーション(2015.6.21)
TOOLS 45 自分をつくるためのArt(2015.6.09)
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写真:Ovi Gherman