面倒な映画帖31「罪の手ざわり」 親密度と唾液の量は比例するか。/モトカワマリコ

面倒な映画帖友情を証明するのにディープキスでは唾液が多すぎる。挨拶でつばを掛け合う国もある、相手が信用できるかどうか判断するために必要なのだという。理屈はわからないけれど、人と人の親密度は受け入れうる唾液の量で決まるのだろうか。

< 連載 >
モトカワマリコの面倒な映画帖 とは 

映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

 面倒な映画帖31「罪の手ざわり」

親密度と唾液の量は比例するか。

ジャ・ジャンクー監督の名作。市井の普通の人が罪に落ちていく様、不条理に怒りと悲しみを感じる作品。最近泣いてないな、心が動かないと思うならぜひ。あまりのことに拳を握りしめてしまいます。最新作は同じ主演女優さんで少し柔らかくファンシーな「山河ノスタルジア」常に未来に向けて進化していく、信じていいビジョナリストのひとり。

ジャ・ジャンクー監督の名作。市井の普通の人が罪に落ちていく様、不条理に怒りと悲しみを感じる作品。最近泣いてないな、心が動かないと思うならぜひ。あまりのことに拳を握りしめてしまいます。最新作は同じ主演女優さんで少し柔らかくファンシーな「山河ノスタルジア」常に未来に向けて進化していく、信じていいビジョナリストのひとり。

喜怒哀楽に揺さぶりをかける天才監督
何を食べてもおいしい食堂なみに、どれを観てもデフォルトでザワザワした気持ちにさせられる監督にジャ・ジャンクーがいる。中国という広くて、人が多くて、歴史の長い隣国の、魅力というには大きすぎるエネルギーに心底打ちのめされてしまうのが、この監督の作品だ。人はなぜ罪を犯すのか、どういう前提でそれは始まり、その時を迎えるのかが4つのケースで克明に描かれる。4人の犯罪者は世代も抱える事情もいろいろだが、自分だって同じ境遇なら、同じように行動したかもしれないし、あるいは逆に犠牲者になってしまったかもなあと、己の立っているところと地続きだと思わせる普遍性がある。身に迫るような血の通ったドラマ性だけではない。圧倒的な映像センス、徹底的に美しく、殺伐とした地方都市を、普通の人が追い詰められた末に陥る人殺しを撮るのだ。辛くて観ていられない物語なのに、映像の力で惹きつけられ、ずっと観ていたいと思ってしまう、この監督の映画には、美しいものを愛する人の本能に訴える力がある。

どんぶりを共有しないやつは殺す
一番印象的だったのは、殺人ではなく、寒い四川省の駅の食堂が出てくる場面だった。炭鉱のおじさんがいっぱい、湯気のあがる店内で湯麵を食べている。そこに主人公の男が入ってくると、知り合いに挨拶がてら、その人が食べているどんぶりと箸を奪い、何も言わずに一口か二口すするのだ。歩きながら、他人の麺を食べては、どんぶりを戻す。取られたほうも当たり前のようなのが、スゴイ。寒いから麺を食べて温まる、ということに特化すれば、他人の食べているものだろうが、関係ない。一口くらいとられても、ほとんどは自分で食べられるんだから、いいじゃないか、そんな共同体感覚なんだろうか。それとも正反対、彼は仲間にマーキングして歩いていたのだろうか、自分はボスであり、まもなくみんなのために犠牲になるつもりだ、というような。その後に、男が猟銃で斬殺するのは、仲間を害する外の人間だった。

体液の量と好意の相関関係
学生時代Hさんという人がいた。その人はそつなく誰とでも付き合うけれど、どこか底が知れないところがあった。たまたま彼は缶コーヒーを飲んでいて、ふと私を見ると「飲む?」と聞いたのだ。子どものころから私は他人が口をつけたものを飲むことができなかった。人の唾液の味がわかる気がして、抵抗があったのだ。彼は怪訝そう顔をして「人が飲んだものは汚い?飲めないの?」という。「汚い」とは感覚が違う。むしろ「影響が強すぎる」感じなのだ。「私はあなたが嫌いじゃないけれど、でもあなたの体液を体にとりこみたいと思えるほど好きじゃないの」本心は言えないけれど、なんだか後ろめたくてまるで恋人に「愛しているのかいないのか」問い詰められているような気持ちになってしまった。軽い友情を試すのに、どうしてこんな危ない橋を渡らなくてはいけないんだろう。Hさんのことは好きでも嫌いでもなかったけれど、この試練を超えないと、顔見知りくらいの親しさでも失ってしまうんだろうなあと思うと、むげにもできない。まさか唾液の絶対量の問題なのだろうか。軽い友情=コーヒー缶の飲み口についている唾液量の摂取。何も「ディープキスをして」と言われたわけじゃない。友情を証明するのにディープキスでは唾液が多すぎる。挨拶でつばをかけ合う国もある、相手が信用できるかどうか判断するために必要なのだという。理屈はわからないけれど、人と人の親密度は受け入れうる唾液の量で決まるのだろうか。唾液は遺伝情報のスープのようなものだ、科学が解明する前から人間関係に強い影響力をもっていたはずだ。そんな意味深なものを簡単に受け入れていいのか、「神経質」といえばそうなんだけど、油断したら想定外なことが起こりかねない。

電光石火で考えて、一番簡単なのは、ここで微量の唾液を受け入れることだという結論を得た私は、Hさんが差し出す缶コーヒーを飲んだ。そして気のせいか口元に浮かんだわずかに満足そうな笑みを見て、瞬間私の中で彼への友情が瓦解した。心に「服従」の文字が浮かび、Hさんの思い通りになった自分が、とてもみじめな気がしてきたからだ。我慢することで人は成長する、という考え方もあるが、嫌悪を抑え込んで人間関係を維持することは、かえって逆効果だ。フェアな関係を壊してしまうこともあるのだ。「いらない」と言えばよかった。そうすれば私はみじめにならず、Hさんのことを嫌いにもならずに済んだのだ。多分、友情が消えたのは、私の弱さのせいだったのだ。いやだと感じたら、拒むべき、そうしないと、相手より先に自分から関係を捨てるはめになる。

要するにホルモン
ゲンキンなのは、もしその相手が好意のある異性だったら、ハナシが違うということだ。同じころ、ちょっといいなと思う男友達がいた。彼はものすごく女性にもてるし、狙った相手は必ず落とす上に、かなりの八方美人ゆえに、誰彼構わず流れ弾に当たって落ちてしまうこともあった。好意は取り巻きにも本人にも気づかれないようにしないと危ない。ちょっといいなと思っているくらいで、政所やら、何人もの側室や腰元と死闘を繰り返し、血まみれになるなんてハイリスクすぎる。しかし本能的に女の好意を嗅ぎ取る彼は、調子よく私を利用していた。彼はことあるごとに自分が飲んでいるものを「飲む?」と聞いてくる癖があった。それはお茶だったり、ジュースだったり、コーヒーだったりしたけれど、そのたびに「ギクリ」とする。「こいつは私の好意を感づいている。助長すると面倒だが、利用価値もあると思っているので、持ち出しの少ない報酬として自分の唾液を与えて手なずけようとしているのではないのか。」その手には乗らん、と思いつつも「うん」と言ってしまう自分が情けない、無意識に「体液ゲット」と思って幸福感を感じてしまうのが浅ましい。男女関係の親密度こそまさにあられもない「体液の共有量」と比例する。ホルモンの力があれば、潔癖は乗り越えることができるのだ。実際、男性の唾液にはテストステロン(男性ホルモン)が入っていて、女性が口にすると興奮作用があるのだそうだ。盛りを過ぎてみると、ああ、やつぱりHさんとの葛藤はホルモン問題だったかと、若き日を懐かしく思い出す。

安定した社会では痴情のもつれで起こる犯罪は少なくない。人はホルモンが絡むと、理性を抑えて不可能を乗り越えてしまいがちだからだ。しかしながら「罪の手ざわり」の4つの罪は、痴情のもつれでは起こらない、だから恐ろしい。事件の張本人は正気で悪意さえないのだが、監督はどうしても切りぬけられない重層の罠をかけて彼らを罪に落とす。唾液の量は関係ない。親子でも、どんぶりを共有する関係でも油断はできない。ジャンク―が描くセカイの一面、この世のセーフティネットが機能不全になった24時間365日四面楚歌の世界で、罪なくして生き抜けるのかと、途方にくれながら見る映画なのだ。あまりにも救いのないリアリズムに、世界で絶賛されて久しい今も中国本土では上映されていない。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在は、ウェブサイト、月刊誌プレジデントウーマンでライターとして、文化放送で朝のニュース番組の構成作家としても活動。趣味は映画と声楽。二児の母。