日焼け止めもせずに真っ赤な顔でプールから帰ってくる日もあれば、口紅をつけてイヤリングを揺らし、ハイヒールで出かける日もある。少女は大人の片りんをチラチラさせながら、時には子どもの表情に揺り戻し、少しずつ完成されていく。
< 連載 > 映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。 |
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面倒な映画帖36「カンフーマスター」
老いる母と花咲く娘の交差点
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サザエの偽物を作っていた娘がパソコンの画面を見てゲンコツを振り上げる。
「うげえ、なにこれ! おばさんが子供を襲っている!」
彼女は朝からずっと紙粘土で学校の課題に取り組んでいる。サザエの、彼らが生きていく上では大変に重要な突起の間穴が上手に模倣できない、石灰質のごつごつ感が紙粘土のフワフワした質感と真逆。すでに3度粘土の塊に戻っているサザエらしきものは、ゲンコツを食らってまた塊に戻った。もったいない、何時間もかけて作ったものを数秒で壊してしまうなんて、この人はとても若いのだ、と感心する。
ジャック・ドゥミもセルジュ・ゲンズブールも20世紀フランスの伝説。もはや実在の人物かどうか怪しいほどの逸話まみれの二人だが、いくつか共通点がある。そのひとつがこの映画「カンフー・マスター。」すでに故人になって久しいドュミとゲンズブールの家族がまるで法事に集まる親戚のごとく出演しているからだ。
セルジュの元妻、今年70歳になる親日家のジェーン・バーキンは、この映画にも出ている次女のシャルロットとほんの先日コンサートのために来日(2017年8月17日)している。東日本大震災の時はニュースを見るなり飛行機に飛び乗って来日、東北の被災地のスーパーの横で歌っていた。やさしい歌声に日本にもファンが多い。
本作の監督はジャックの妻アニエス・ヴェルダ。ジェーンが恋をする少年には、アニエスの息子、今も俳優のマチュー・ドゥミ。揃って出演し、辛辣すぎて、甘すぎる、濃厚なフレンチテイストを醸しまくっている。
その極めつけがJKが嫌悪のあまり、サザエを叩き潰した少年とおばさんの濃厚なキスシーン。この映画では、娘の同級生の少年に本気で恋愛感情を抱いて、どんどん迫っていく大人の女と、その彼女をなんとか受け入れようと背伸びする少年、周囲の困惑を描く大真面目な恋愛映画。「カンフー・マスター」はモチーフになるゲームのタイトルで、ほとんど関係ない、戦闘シーンはゲーム画面だけである。
もちろん、ジェーンは当時40代で3人の娘の母でもまだまだ美しい。恋愛映画の主役になってもまったく違和感のない魅力的な女性だ。だったら、普通に大人の男をあてがえばいいのに、どういう事情で、アニエス・ヴェルダは自分の息子をキャスティングしたんだろう。道義的に他人の子役を40代の大人の女性とキスさせるわけにもいかなかったのかもしれない。生まれた家が家だけに、マチューはそんなに気にしなかったのかもしれないし。ジェーンはカリスマだったセルジュの才能を受け継ぎ、父親に溺愛されていた娘にライバル意識をもっていたかもしれないし、アニエスは日々、愛しい死んだ夫の面影が濃くなる息子に特別な感情を抱いていたかもしれない。ただの子どもたちじゃない、カリスマの忘れ形見なのだから、関係は普通の親子よりも複雑で濃厚なのか。
ジェーンが飛行機で持ち物をかごにつめて移動しているのをみて、エルメスの社長が彼女のためにガバっと開くカバンを作ってくれた話や、若いころの可憐なシャンソンを知っていても、心優しいエピソードを聞いても、いざとなると自分を最優先するような、10代の少年とディープキスをする「おばさん」は許せないらしい。娘よ、これはお仕事なのよ。いや、そうじゃないか、恋愛至上主義者の主張、愛は全能、それもありえる。
私は母親ぶって、フランスの個人主義について娘に力説する。
「エマニュエル・マクロンは、15歳の時に24歳上の学校の教師に告白して、人前でキスしたんだってよ。親があきれて転校させてもめげなかったんだって。ブリジットさんとはその後結婚したし。恋愛観と人格は別採算なのよ、大統領になれるんだもん。うっかり愛してしまった相手が誰でもそれは個人の問題、そういうのがおフランスなのよ、きっと。」
「げーっ! ないない・・・お母さんがうちのクラスの男子とキスしてたら、私マジ吐くわ。」
いや・・・それはそうかも。
あり得ないカップルをあえて考え出して、恋の力でこそ乗り越えうる険峻な試練に感動し、愛のパワーに溺れたい・・・そうまでも恋愛が大好きなのかフランス人。だって「カエルの王子様」とか「美女と野獣」とかさ、普通の男は山ほどいるのに、何を好き好んでおぞましいレアな相手にこだわるわけ?
・・・別に、私はこの映画が好きなわけじゃない。たまたまTSUTAYAでDVDを借りるときの数合わせでカゴに入れただけなのだ。ただ、「おばさんの恋愛最低! しかも子供相手に吐きそう!」というので、ちょっと気になってしまっただけ。
ジェーンとシャルロットのような(比べる愚をあえてさらすなら)40代の母と娘盛りに向かうティーンの娘の関係は微妙なのだ。映画の中で「あなた私に嫉妬しているんでしょう? おばさんなのに私のほうがキレイでもてるから」となじる娘をなじり返すセリフがあるけれど、それはなかなかイタイ。
ニキビ対策に追われ、化粧どころじゃなかった子が、密かにマスカラを持っていたり、大人びたチャコールグレイのワンピースが似合ったりする。日焼け止めもせずに真っ赤な顔でプールから帰ってくる日もあれば、口紅をつけてイヤリングを揺らし、ハイヒールで出かける日もある。少女は大人の片りんをチラチラさせながら、時には子どもの表情に揺り戻し、少しずつ完成されていく。
日々の変移を見守ることは、丹精した花が開くのを待つ庭師の喜びのようでもあり、いつまでも手の中にいてほしい時を惜しむ気持ちでもある。しかし間違いなく、エネルギーに満ち溢れ、太陽のほうへ伸びあがる美しい時代なのだ。
そんな「イキモノ」と暮らしているならば、私が傍らで、どんどん生気を失っていくのは摂理というものだ。家庭内の女性ホルモンの絶対量が決まっていて、私は大急ぎで娘のために現役を引退しなくちゃいけないような気がしてくる。自分でも滑稽だけれど、娘が光を浴びるためには母は袖に引っ込むべきじゃないかと思うのだ。
そこが東アジア的であり、個人主義的ではないところだ。私は女である前に母であり、娘の女性としての魅力に責任があるようなマインドがある。だから娘の同級生と恋仲になるようなことはありえない。「私はお前より魅力的だ」と娘の領分を奪ったり、勝利宣言する母にはなれない。鏡を見つめて呪いをつぶやくのはなにも邪悪な継母だけではない、母親がいつまでも「女でいる」ということはそういうことだ。
人生は100年時代を迎えるのだという。まだ長い時間を生きるのだとすると、40代で引退は少し早すぎるかもしれない。世界で一番面白いゲームが人間関係だとしたら、フランス映画が語るように恋愛はもっとも複雑で楽しい謎解きゲームで、ホルモンも活性化するし、まあ、退屈しのぎに第二の人生を考えることもありえる。しかしそれもオトナしかいないセカイでのお話。まかり間違って「老女趣味」の若者がいたとしても自意識とニキビと性ホルモンにズブズブ浸かった連中と、愛を語るなどしんどそうだ。
私生活も仕事も生涯現役、ジェーンのように選ばれた人もいるだろう。でも人生の折り返し地点を過ぎ、自分が身も心もなだらかに下りはじめていることに、心からの安堵と女であるという重圧からの解放を感じる50代最初の夏をすごしている。