面倒な映画帖34「カルラの歌」バカにしか歌えない歌もある / モトカワマリコ

面倒な映画帖親切は一面「フリフリのついた暴力」のようなものだ。だからどうしても奉仕したい場合はばれないように、あるいは「親切への報復」を覚悟して、肝を据えるべきだ。最悪仕事も愛も家族も捨てるほどの大きな勇気で徹底してやらなくてはならない。

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モトカワマリコの面倒な映画帖 とは 

映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

 面倒な映画帖34「カルラの歌」

バカにしか歌えない歌もある

人間の尊厳について描く監督ケン・ローチ。どんな人間のどんな時間にもドラマがあり、厳しい現実と戦う姿には見るべきドラマがある、シビアな物語だが、人間賛歌だというところが、魅力だと思う。ロバート・カーライルは、「リフ・ラフ」にも出演している。

悪い人じゃない、でもいい人でもない
ロバート・カーライルは人相が悪い。アメリカ映画やドラマで暗い過去のあるテロリストや邪悪なヒールで顔を売っている。イギリス映画では本作の監督ケン・ローチの初期の社会派映画や、ダニー・ボイル監督の「トレインスポッティング」など、社会の低層部に生きる暴力的な男を演じることが多い。人相が語るのは、打たれすぎた男、世知辛い目にもあい、心底悪い人間ではないけれど、いい人間でもない、人の好さもスマートさも縁がない雰囲気、どういう人か知らないから勝手にソフトヤンキー呼ばわりしているけれど、かなり真面目な人のようで、本作では大型バスの運転手という役だからと、わざわざ免許を取っている。私生活では子どもが3人もいて・・・エンタメ業界でバイプレーヤーとして成功しているんだからして、実際は大したやり手だと思うけど。

「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」を映画化するときに、もしかしたら私が好きなキャラクター「リーマス・ルーピン」を演じるんじゃないかと、期待していた。でも配役はデビット・シューリスで、ちょっとがっかり。でもそれは認識不足で、イギリスの堅牢な階級社会からしたら、カーライルが纏っているスコティッシュな気骨というものは、ボーディングスクール育ちの(魔法学校だけど)人物であるリーマスを演じるには違和感があるのだろう。私のような外国人にはわからないけど、イギリス人の目にはカーライルではクラスが違いすぎて、映画自体が嘘くさくなる。デビット・シューリスは階級的にクリアする容貌だったのだろう。

ただ、リーマスは「人狼」なのだ。シューリスではカッコよすぎるように思う。

どんな場所にいても、天秤のように公平な感覚がある人だけに、自分が半分狼であることに悩み苦しみ、心の平穏がない、変身するときな自分を咬んだり引っ掻いているから身体のあちこちに傷がある。人を不幸にするだけの生きる価値がない存在だと思い込んでおり、自虐的なあまり自己破壊衝動に走る、悲哀あふれる半獣。でもチョコレートが好き、とかいうイメージがロバート・カーライルにぴったりだと思ったのだが。

間抜けな大失恋がもたらすハッピーエンド
彼が主演の本作。信じられないほどの「バカ男」を描き切った社会派ケン・ローチ監督の佳作だ。本作のヒロイン・カルラは、内戦中のニカラグアからの逃亡者、無一文でスコットランドのグラスゴーに流れてきて、歌や踊りで日々の暮らしを立てようとしている。バスの運転手ジョージは、エキゾチックで美人だからと無賃乗車させてあげたり、不法占拠をお手伝いしたり、ナンパな気持ちでカルラに優しくする。しかし、彼女は謎めいていて深く傷つき、暗い心にとらわれている。気になってしかたがなくなり、やがてカルラのために、バスの仕事も、婚約者も、仲間も、お金も、恋心さえかなぐりすててしまう。

彼自身もグラスゴーの低賃金労働者だからギリギリの生活だ、でもカルラが元気になるならと、彼女の元カレの消息を知るために、有り金をはたいてニカラグアまで出かけていく。元カレの行方はわからない、ここでジョージは、カルラが故国に残していた子どもごと、連れて帰ろうと思うのだが、彼女の望みに気がついて、身を引く。おせっかいの仕上げには危険を冒して行方不明の元カレを探し出し、再び彼らが家庭をもてるように奔走する。恋を実らせようとした結果、カルラを別の男の手に渡すことに甘んじる鉄壁なバカなのだ。恋のためじゃないの?ジョージがなんのために必死になっているのか、だんだんわからなくなってくる。硬派なケン・ローチに甘い展開は無理な注文なのかもしれない。

グラスゴーに帰ろう、と言えば、弱ったカルラはきっと手に入る。でも、それは違う、ニカラグアの空気を吸ってわかることだ、それは自然の流れじゃない。仮に帰って家庭を持てたとしても、カルラは元カレが作って彼女に贈った「カルラの歌」を歌い続ける。彼女が本当に生きたい世界はニカラグアで、グラスゴーじゃない。ジョージはどうがんばろうと「すごく親切ないい人」にしかなれない。

田舎のほこりっぽい道で、帰りのバスを待つジョージ。悲しげだけれど、すっきり満足した顔が印象に残る。帰ってもグラスゴーには仕事もないし、無一文だし、待っている人もいない、それでも彼女が彼女の国で生きるように、彼は彼の国で再出発するしかない。ニカラグアまで来なくても、そんなことはわかりきっていた、でも行動してみないと、本当にそうかどうかははっきりわからない。理屈じゃない、理解というのは。

「ありがとう」は危険
仕事に行こうと、朝の六本木通りを歩いていたら、閉まったシャッターの前に、人が倒れていた。明け方まで遊びすぎたか、ストリートで暮らしている人であれば、あえて何もしないのが礼儀というものだ。でもその人は真新しいブルーのワイシャツを着て、いい靴を履き、高そうな腕時計をしている。それが開いた脚の片方を道に投げ出して店前の傾斜にダイノジに倒れているのだ。「大丈夫ですか?救急車を呼びましょうか?」そう声をかけるのが常識だろう、でも、できなかった。白目をむいていて、10秒くらいの間も微動だにしなかったから、怖くなったのだ。しかも外国人だから、何語で話しかけたらいいかわからない。見なかったことにしよう、関わったらどれだけ時間がかかるかわからないし、事件かもしれないし・・・心臓がどきどきするほど動揺して、小走りにその場を走りすぎたところで、視界に交番が入った。そうだった、日本には交番がある、なんて素晴らしいシステムだろうか。交番に駆け込んで、事情を話すと、巡査が大急ぎでその人を助けに向かってくれた。関わりたくないけど、放っておけないという私のようなだらしのない偽善者が、当事者にならず、でも冷酷にならずにすむ、日本発信のシステム。気の弱い市民のトラブルを引き受けてくれる専門家がわりとその辺にいる、セフティネット。

そんな小心な私だが、たまには誰かに何かしてあげたいと思うことがある。でもなかなか行動できないのは、思い知っているから。奉仕は上流から下流に流れる、流れ込まれたほうは、一時的には助かるにしても、川上川下の上下関係を挽回できないと、やがてそれは憎しみに変わる。やられっぱなしというのは、暴力行為でも親切でも、実は同じような気がする。親切のお礼というのは「報復」とあまり変わらない。

親切は一面「フリフリのついた暴力」のようなものだ。だからどうしても奉仕したい場合はばれないように、あるいは「親切への報復」を覚悟して、肝を据えるべきだ。炎上を恐れず、最悪仕事も愛も家族も捨てるほどの大きな勇気で徹底してやらなくてはならない。そして任務完了次第忘れてしまうこと。誰にも知られないまま、砂ぼこりのあがる道端に放り出され、バカな自分を静かに笑い、ビールでも飲むのが関の山だ。聖書には「天に宝を積め」とある、善行は神様預かりにして、現世で人間との間でやりとりしない。ありがとうといわれてもいけない、シビアな砂漠で生まれた教義の知恵は「善良さ」の教えというより、処世術だという気がしてくる。

・・・それよりは冷たいろくでなしのほうが楽ちんだよなあ、と、電波と思惑だらけの世の中に過剰適合し、人間らしく蠢く心を両手で押さえて知らん顔するのだ。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在はフードを中心としたウェブサイトの企画・編集の傍ら、ORDINARYに参加し、インタビューサイト「タコショウカイ」ではスタートアップの人を紹介するメディアも運営している。趣味は料理と映画と声楽。二児の母。