面倒な映画帖29「非現実の王国で」芸術に抱くギラギラした欲望の行方 / モトカワマリコ

面倒な映画帖 マンテーニャが欲しいと思う、ルネッサンス絵画を見に行く動機の底には無意識にそれがある。本当の私は目の前のマンテーニャに手を伸ばし、家に持って帰りたいのだ。

< 連載 >
モトカワマリコの面倒な映画帖 とは 

映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

 面倒な映画帖29「非現実の王国で」
芸術に抱くギラギラした欲望の行方

20世紀アートのひとつの事件、ヘンリー・ダーガーの想像の秘密を追うドキュメンタリー

20世紀アートのひとつの事件、70年代のアーティスト、ヘンリー・ダーガーの創造の秘密を追うドキュメンタリー。アウトサイダーアートであるからには、好き嫌いはあるが、作品が存在してしまったことを知ったら、無視するのは難しい。アートビジネスについての映画でもある、ある意味。

私は美術好きではなく、美術好きな自分が好きなだけなんじゃないかと思うことがある。美術愛好家のふりをするかわいそうな不感症女。どんな名画を見ても、正直何もわからない、作品との間には気の遠くなるような距離があり、何かを感じようとしても撥ねられてしまう。目録を買うだけで十分なんじゃないのか、本物を見る必要があるのか、私は「本物」を見ているという感動や喜びを感じられない。絵を味わえる人間になりたいがために、上野の山を彷徨い、感動できない欲求不満に苦しむ。

あるいは、小林秀雄の言うように、ガラスケースの中に入った茶碗をいくら眺めても芸術の良さなどわからない、使ってみて、触れて初めてわかるというのが真実なのか。ガラスケースや、係員が睨んでいるラインの外から、ご同類に交じって美術品をただ「見ている」自分には、資格がない。庶民には美などゼイタク品にすぎない。奇蹟が起こり名画を買うことができたなら、わかるかもしれない。美術コレクターだけが所有することでしかわからない秘密の味を知っているのではないのか。

マンテーニャが欲しいと思う、ルネッサンス絵画を見に行く動機の底には無意識にそれがある。本当の私は目の前のマンテーニャに手を伸ばし、家に持って帰りたいのだ。そしてあの陰鬱な緑がかった絵を毎日眺めて暮らしたいのだ。私が絵を見に行く理由は、そんな風にギラギラした欲望なのかもしれない。不感症の原因は、美術館で本物が見られても、いつかは絵から去らなければならない事実、その束の間の関係に深く絶望しているからなのかもしれない。手に入らないものは恐ろしくて本気で愛せない、いくじなし。

それでも感動に焦れ美術館に行く。誰かの作品を見る、作者のエネルギーを感じ、心が動く可能性を渇望する。冷え切った感受性を抱えて美術館を回っていると、救いの光が見えることがある。07年に原美術館で開催されたヘンリー・ダーガーの展覧会もそうだった。映画「非現実の王国で」は美術展とは別に公開されたダーガーの生涯と作品をめぐるドキュメンタリーで、映画は画家の背景を丁寧に追い、挿絵を使ったアニメーションで構成している。それは展覧会で展示されていた作品の数々、おびただしい資料や絵の具や固まったパレットが散乱する仕事机、カビの匂いを映像が強烈に補足していた。

物語はシカゴの古い建物から始まる。画家の死後、40年間暮らしたアパートからは、「非現実の王国で」と題した15,000ページを超える小説の原稿と、数百枚に及ぶ挿絵が発見された。邪悪な大人の男達から子供達を救うべく壮絶な闘いを繰り広げる7人の無垢な少女ヴィヴィアン・ガールズにはペニスがある。美しいのか醜いのか、その特性はすぐに判断がつかないが、作者の熱情が物質化して迫ってくる、そのパワーは尋常ではない。展覧会の入り口に掲げられたコラージュ、貼りこまれ、描きこまれすぎて、何が描いてあるかほとんど判別できない、黒々とした巨大な四角い塊は未知のエネルギー体のようにギラギラとオーラを放ち、私は茫然自失、しばらく衝撃で動けなくなってしまった。

ダークな少女戦隊モノとも言えるかもしれない。

闇の深いダークな少女戦隊モノとも言えるかもしれない。

ダーガーはシカゴでひっそり暮らす、生業もわからない内気な老人だったが、部屋を掃除していた家主が膨大な作品を見つけて、世の中に出した。この膨大な作品は、世に出た結果、美術界の評価を受けたから芸術なのか、それとも膨大な熱情があった時点で世に出ず消えても、やはり芸術なのだろうか。誰かの仕事が芸術になるには、他者は必要なのか、つまり芸術とは評価なのだろうか。

私の夫はソリッドで一見控えめだけれど、底の方に独特な個性を隠している。地味な彼らしく、30年以上淡々と続けている趣味は音楽。暇さえあればベースを弾いているのだ。休みの朝、何時間も彼は「ボンボンボンボンズンズンズン」とベースギターを練習している。何かの曲のベース演奏をしているのだが、メロディーが鳴っているのは彼の頭の中なので、私にはただただミニマルなリズム演奏が延々延々続いているようにしか聞こえない。ブルースだろうが、モダンジャスだろうが、ラテンだろうが同じように聞こえる。しかして、彼が在宅しているときには、ミニマルミュージックの生演奏が聞こえ続けることになる。

ベース弾きというのはちょっと変態だなと思う。容易に面白さが理解できない音楽を自分だけの感覚で磨き上げる。彼にとってズンズンズンとボンボンボンはそれぞれが別の音楽で、全く違う面白みがあるのだという。うまくいったり、失敗したりしているらしく、思うような感じに弾けないのだという。そのさじ加減は、奏者にしかわからないことなのだろう。地味すぎて、わからないけれど、音楽の底に沈み楽曲を支える役割、いいベースならその上に築かれる音楽は迫力をもつ。ベースを弾きながら、彼の頭の中では、人には聞こえないが、いい音楽が鳴り響いていて、彼にだけわかる感動がある。だから嬉々として何時間もベースを弾き続けるのだろう。ズンズンズンボンボンボンは、夫にとっては積み上げ、磨き上げた自分だけの芸術。人にわかろうがわかるまいが、ベースを弾き、音楽に触れていることがとても大事なのだ。

毎日生きる事、好きなことをやめないこと。ベースを弾き続ける彼はベーシストでありつつけ、ヘンリー・ダーガーもしかり。そうだ、第一義に芸術は芸術家のものであり、鑑賞者は、たとえ権威ある専門家であっても作者でない以上、創造作品との間には神聖で不可侵な距離があるものなのだろう。どうしてもそれを味わいたいなら、筆をとる他に道はない。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。趣味は料理と映画と声楽。二児の母。