面倒な映画帖21「ストリートオブクロコダイル」ワニのサルマネと言われ逆上したお話

面倒な映画帖 あの肝臓はお前の中から出てきた表現だったのか、他の人間には撮れない映画というわけか。俺はすごくいいと思う、支持する。他の先生は評価しないかもしれない、でもね、作品というのは、誰か一人でもすごくいいと評価してくれる人がいれば、それはいい作品なんだよ。

< 連載 >
モトカワマリコの面倒な映画帖 とは 

映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。


面倒な映画 21

「ストリートオブクロコダイル」

ワニのサルマネと言われ、逆上したお話。

一卵性双生児の兄弟が撮ったストップモーションアニメの伝説。作家性の強いアメリカの映画監督はみんな観ている、多分ね。ブラザーズクエイ監督作品

見ると伝染するシュールで陰鬱な世界

アメリカの映像作家ブラザーズ・クエイの代表作がこの作品。原作があるのか!と思ってびっくりするが、ゲシュタポに惨殺された作家ブルーノ・シュルツの「大鰐通り」という短編だ。いくら見てもどこがクロコダイルで、どうストリートなのか、わからないが、悪魔のおもちゃ箱のように、陰鬱な人形たちがぎこちなくうごめく幻想的な世界が描かれている。ストップモーションアニメ―ションという手法で一コマ一コマ手で撮られていて、頭の中の世界を形にしようとする執念が物に命を与える、与えすぎるほどに。これを全部見ると、晴天の午後2時であっても真夜中のような気持ちになる。

古ぼけたショウウインドウからネジが自分でねじれて抜け、どこかへ移動すると、古ぼけた子どもの人形が鏡を反射させて、誰かに意味ありげな合図をする。懐中時計が開くと、中は機械仕掛けではなく筋肉でできていて…ロジカルな人はここらあたりで「わからん…」とつぶやく、そんな感じ。

映像を学ぶ学生が課題の前にこの作品を見ちゃったりすると、オソレオオクモ影響されて作品が意味もなくシュールになってしまったり、安易に肉と機械の組み合わせに走ったり、言葉を介さないグロテスクでメランコリックな美しさは圧倒的で、伝染するのだ。

私の肝臓は私の肝臓、クエイの肝臓はクエイの肝臓

さて、私は若いころ映画を撮っていた。初めて撮った映画は8ミリで3分の作品だったが、最初の課題だったし、一人で解決できない問題がありすぎて、ようやく間に合った作品だった。講評はさんざんで「ブラザーズ・クエイのサルマネか!肉を出せば斬新だと思っているんだろう。」と酷評された。私は見かけによらず沸点が低い。ブッと理性が吹き飛び、怒りに震えながら反論しはじめた。

作品のタイトルは「暗愚」それは私の物語である。

一人の中年女がバラの花を育てている。初夏と秋にベランダ一杯に何十個も並んだバラの鉢はつぼみをつける。つぼみが膨らみ、いよいよ開くというタイミングで、女はバラをちょん切ってしまう。だから彼女のバラ園では花が咲いたことがない。切った咲きかけのつぼみはバラバラにほぐされて古い衣装箱にふりまかれる。カラカラに乾いたところで、空き瓶に詰められ、古いピアノの上や、納戸や、家の空いている場所に積み上げられていくのだ。

ポプリ、ではない。香りや色を保存する処理は何一つなされない。後で香りを楽しむというような実用的な目的ではない。ただ乾かして保存するだけ。小さな娘が尋ねる。
「どうして咲く前に摘んでしまうの?」
「開いてしまったら、バラの香りが弱くなってしまうから。」中年女は曖昧な笑みをうかべてそう答え、カサカサと乾いたバラの花びらをかき混ぜる。

暗い居間の片隅にはピラミッドのように乾いたバラの瓶詰が何十個も積み上げられている。ある時、瓶の蓋が一斉に回り、いくつかの蓋がくるくる回りながら外れていく。すると暗紅色にわずかに色の残った花びらの中から、血のような赤い塊が這い出てくる。それは回りをうかがい、瓶を倒して外に出る。出口を探して、明るい方へ移動するのだが、バラの鉢が見える窓のところで力つきてしまう。

まあ、そんな話だ。バラの中から出てくるのは、ブタのレバーで、確かにブラザーズクエイの映画の中でも、肝臓が単独でうろうろしたりするシーンがある。でも私のモチーフは肉というより、中年女の鬱積した年月であり、生気を奪われて保存された女の精のようなものなのだ。

主演女優は実母で、肝臓以外はドキュメンタリーだ。私は山のようにストックされた瓶詰の乾いた花びらとともに育てられた。バラの手入れは入念で牛糞をやったり、虫をとったり、それは大事に育てられていたのだが、家で花は咲かせない。どうして?と尋ねると決まって香りが飛んでしまう前に切るのだと母は言う。
あるとき数本の咲きかけのバラを切って、友達の家に持って行った。「お母さまのお庭のバラはキレイだけど、色が濃くて花びらが厚くて艶めかしくて、なんとなく気持ち悪いわね。」と言われてしまった。

母は無口で気持ちを話してくれることはなかったけれど、何かの重たい想いをバラに託していた気がしていたし、溜まっていく花びらは、母の中に鬱積する何かを視覚化している、資本主義的に言って無意味、つまりある意味ではアートだったし、言葉にならない心の中を語っているようにも思えた。娘として母のメランコリーを開放してあげたい、そういう気持ちで作った映画だった。そして私の中にもきっと流れている暗くて愚かな業のようなものに、いずれ心を食い荒らされるかもしれない。咲かぬ間に花の命を奪い瓶詰にするような静かな狂気に薄い笑顔を浮かべて生きる中年女になるのだろうか。その時にこれを撮ったのは、そんな怨念の浄化にもあった。

先生は必死で説明する私の話を黙って聞いていた。「そうか、悪かった。クエイのサルマネじゃなかったのだな、あの肝臓はお前の中から出てきた表現だったのか、他の人間には撮れない映画というわけか。俺はすごくいいと思う、支持する。他の先生は評価しないかもしれない、でもね、作品というのは、誰か一人でもすごくいいと評価してくれる人がいれば、それはいい作品なんだよ、それを忘れずに作家の仕事をしなさい。」映像作家でもあるK先生は、前言を覆して絶賛してくれた。でも、その場にいた人はそれが過分な称賛だったことを知っている。

どうしてか?

私の最初の映画「暗愚」の映像が3分のうち大半ピントが合わず、強度の近眼の人が眼鏡を忘れたような映像だったからだ。何が映っているか、よくわからない。レンズの焦点が合った瞬間だけはっきり映る。その瞬間に映ったのが「瓶から這い出る肝臓」のストップモーションアニメーションだったので、シーンの背景など伝わるわけはなかった。先生が「また内臓か、クエイか」と思っても無理はない。課題とはいえ、時間がなかったとはいえ、そんなプアスキルな作品を見せておいて、怒り狂うなんて、とことん間抜けな奴だ。お前が暗愚そのもの、批判されてもしょうがない。

それまでも舞台を作ったり、絵を描いたりしていたけれど、その映画で私は初めて作品のようなものを披露し、玉砕し、再評価されるというまるで芸術家のような経験をしたのだ。学校を卒業するまで数本の映画を撮ったが、その後は何も作っていない。だいぶおまけでも「俺は支持する」と先生に言われたことが、今まだ何か作りたい、表現してもいいはずだと思い続ける根拠になっている。

たった一人でも本気でいいと思ってくれる人がいたら、それはいい作品。あとは誰が何と言おうとそれでいい。本当の作品は生まれるべき運命にある、そんなこと心配しなくていいから、自分の仕事をすればいい。

 


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。趣味は料理と映画と声楽。二児の母。