【編集日記】 5年後の仙台をあるく – 東北の復興ハウス閉幕へ –

きっとこれからも日本にいる限り、地震とつきあっていかないといけないのだと思います。 身軽に動けるようにしておくこと。何かあったときに頼りになるのは、仲間のつながりだと思いました。絶望せず、明るい未来を描ける。
取材旅シリーズ
5年後の仙台をあるく

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こんにちは、深井次郎です。

5月のGWに、オーディナリー編集部は「5年後の仙台」を訪れました。

なぜ仙台かと言いますと、ぼくたち自由大学まわりのメンバーが立ち上げにかかわった団体 HEART QUAKE 仙台ハウスのラストパーティー & 撤収作業が行われるからです。仙台における5年間の復興活動で一定の成果をあげたということで、この拠点がひとつ役目を終えることになりました。

 

HEART QUAKE (ハートクエイク)とは

被災地復興団体。東日本大震災がきっかけで「eartHquakeからHeartquake へ」「H – 叡智を前に、心を震わせることをしよう」をコンセプトに、仙台市若林区に復興ベースキャンプを地元の農家さんと共につくる。2011-12年、遠藤農園の復興のお手伝いをしながら、納屋を改装して被災地を訪れる人たちのベースキャンプを運営。2013-15年、遠藤農園隣の被災家屋だった平屋を、スウェーデン大使館からのご寄付を元に、多くの人の手を借りながらDIYで改修作業をして新たな拠点とした。被災地で初めてAirbnbに登録し、国内だけでなく世界から東北の被災地を訪れる人に宿泊場所とした。自由大学の講義プラグラム「キャンプin仙台」の拠点としても、3年間で延べ500人以上の人々を受け入れ、学びの場として活用。この5年間で大きな人の輪が生まれた。
https://www.facebook.com/heartquakejp/

 

ふりかえると、311の19日後に初めてこの仙台市若林区、荒浜に足を踏み入れました。まだ余震も続き、高速道路も緊急車両しか通れない時期。ワンボックスカーで東京原宿を出発し、ボコンッボコンッとゆがんだ道路を、車が大きく跳ねながら進みました。まわりは自衛隊の車や、物資を運ぶ貨物用の車など、普段と違うものものしい異様な雰囲気。福島原発が爆発するかしないか、状況がわからない中で、福島付近を通過する時、特に緊張感があったのを覚えています。

荒浜に到着し、はじめに視察したとき記録した映像がこちらです。正直この惨事にカメラを向けることに葛藤がありましたが、「いま各自にできることは? 」と問いかけた時、ぼくにできることは「伝えること」だと思い直し、シャッターを切りました。

5年前に撮影した荒浜。

遠藤農園さんなど現地の農家さんたちと協力し、ここに復興活動の拠点をつくりました。

それから、ガレキの撤去や被災家屋の修復、農園のお手伝い、東京での復興野菜の販売、ボランティアの受け入れ、など定期的に行ってきました。


あの浜から眺めた 5年後の風景

 

これが荒浜、深沼海岸の現在です。はじめの映像と同じ場所から、海を背にして内陸を眺めた景色。慰霊のための聖観音がかつて住宅が多くあったこの場所を見守っています。


津波の被害にあったこの一体は、公園になるようです。もともとは住宅が建ち並んでいました。右端に見えるのが、荒浜小学校。映像にも写っています。

防波堤は新しく整備されています。高さは震災前と同じですが、超えても大丈夫なように奥にもうひとつ大きな防波堤の建設が進んでいました。

海は、相変わらず。

 

大きな被害を受けた荒浜小学校。140年の歴史ある学校でしたが、現在は閉校して、震災遺構として遺されます。

復興が進み、被害を受けた家も新しくなり、新しい生活が始まっています。かつては復興関連の重機が砂埃をあげて働いていましたが、いまは前ほどではありません。空気が澄んでいます。

 

東北での活動拠点
仙台ハウス が幕を閉じる

 

ここが東北での拠点。HEART QUAKE HOUSE @仙台。
みんな集まって、これからバーベキューの準備です。


東京やその他の地域、現地の仙台の方など、関係者が集まります。


中の様子。この家も津波で被災しましたが、みんなでDIYでリノベーションしました。


中心になって続けてきたメンバー。左から清田直博さん(NKDF )、立花香澄さん、大内征さん(低山トラベラー / 自由大学教授)、みずさわみつるさん。みんないい顔!


大内さんはもともと仙台出身という縁から、この復興活動にかかわり自由大学の「東北復興学」「キャンプIN仙台」を担当、当時は会社員でしたが、いまは独立して低山トラベラーとして活躍されている頼れるアウトドアな兄貴です。


自由大学初代学長の和泉里佳さんも、家族でかけつけました。自由大学をたちあげた仲間。当時、水もトイレも整備されてない中で、自由大学運営チームみんなで奮闘したことを思い出します。

極限の状態を共にしたことや、何をするにも不謹慎と批判された当時、何が本当に大切なのか、みんなで議論をして、まわりとの軋轢もあり、いろいろあった。そのおかげでもうひとつ自由大学チームの結束が強まったと思います。

 

ラストパーティーはじまる

15時すぎ、お昼ごはんを食べてないみんなはお腹ペコペコ。ゆっくりとバーベキューの準備が進んでいきます。


さあ、「乾杯!」

後ろの畑やビニールハウスは遠藤農園さんです。ここの場所に埋まったたくさんのガレキを手で掘り返す作業を当時、みんなでやりました。


震災後飼い始めた犬を連れて、遠藤さんが見えました。日本酒を差し入れてくださって、最後の挨拶をします。


日が暮れてくれると、肌寒くなってきます。火を囲んで歓談。
「あの当時はさぁ」
「そうだったねぇ!」


地元を中心に活躍するBBQプロデューサー小野誠さん(左端)が、縄文土器をつかったメニューを披露してくれました。

見たまんま、すごくおいしい! たくさんのお肉を食べて、みんなご満悦。


プロのサックス奏者の生演奏です。
「火があったら、吹かないわけにはいかないでしょう」

お酒を飲みながら、まったり語りタイム。

初めましてのメンバーもいたけど、火と美味しいごはんがあれば、自然と話が始まります。


夜も更けてきました。追加でおにぎりを握ります。お米は、農園で収穫したお米!
お風呂に入りたいメンバーは車で近くの温泉へ。


深夜になり、力つきたメンバーから寝袋で雑魚寝。
これは1:30ごろの様子。

朝早いのに、みんなタフだな。語りのテーマは、「好きなことを仕事にするには」。大内さんが独立して、どうやって今の仕事(低山トラベラー)に行きついたのかの試行錯誤。サックス奏者、経営者、BBQプロデューサー、などなど、あとぼくもだけど、それぞれユニークな仕事をしている面々。この話、密室でするにはもったいない、そのままトークライブにしたほうがいい。ためになる内容でした。

この写真を最後に、ぼくはダウンして寝ました。大内さんの隣のBBQプロデューサー小野さんも寝落ちしてる(笑)

 

翌朝。ゆりあげ港朝市 へ

 

朝7:00に起床。
朝ご飯を食べに、みんなで近くの漁港、ゆりあげ港朝市へ。この閖上港の魚介は、おいしいと評判で、三ツ星レストランから「ここの貝しか使わない」と言わしめているほどなのだとか。

サザエ、カキ、タコ、エビ、はまぐり、をたくさん買って、その場で焼いて食べました。なんと贅沢な朝ごはん! 魚介以外にも、地元の野菜や、水餃子、汁物などがあり、たくさんの地元の人で賑わっています。

 

 

忘れないためにつくられた
せんだいメディアテークを訪問

 

次は、せんだいメディアテークへ。こちらでつくられている本、「ミルフイユ」シリーズを気に入っていて注目しているのです。セレクトされた本棚をチェックして、ここでしか手に入らないレアな本を何冊か購入。

(通常は館内撮影NGですが、許可を得て撮影させてもらいました)

 


311を忘れないために、たくさんのイベントやワークショップが開催されています。

黒板に書かれている「14:46」は地震の起きた時間です。当時、被災地でみた時計はみんなこの時刻で止まっていました。

 

帰りによりみち。いざ秘湯へ
那須湯本温泉 雲海閣

さて、仙台を後にして高速道路で帰途へつきます。しかし、予想通りGWの渋滞に遭遇してしまいます。休憩するため、那須で降りて、秘湯へ。ぼくが、「秘湯が好き」という話をしたら、同行した安藤さんが教えてくれました。

「それなら、すごく渋い温泉がありますよ」

ここ雲海閣は、とにかくボロい! いい意味で。屋根なんか、崩れている。ただし、お湯は絶品である、ということで秘湯ファンの中では一目置かれている歴史ある温泉なのだ。

「だ、大丈夫か… これ」
「渋すぎる… 」

不安がる一行をよそに、経験者安藤さんが案内してくれました。

この小さな玄関からは想像がつかないが、中に入ると迷路みたいに広い。長い階段や防空壕のような地下道を歩いてようやく、お湯へたどりつけます。穴場なので、GWにも関わらずすいていて、温泉をぜいたくに独占できました。すっごいヌルヌルなにごり湯。好み。

というわけで、パワーを充電し、渋滞に巻き込まれながらも無事に今回のイベントを終えました。

 

さいごに。「5年間の仙台」をふりかえって 

 

今回、東北での活動拠点である仙台ベースキャンプが役割を終えました。支援が必要なくなることを目指しているので、それはとても喜ばしいことです。

地元の識者によると、震災後、支援団体はたくさんあったそうです。でも、1、2年して行政からの助成金が出なくなったタイミングで、手を引いてしまう団体が多かったとのこと。(それも無理もないと思います)そんな中、5年間ひとつの役目を終えるまで活動を続けた仙台HEAT QUAKE に感謝の言葉をいただきました。

継続して粘り強く、楽しむことを忘れず(これがないと続かない!)5年間やってきた仲間たちに拍手を送りたいです。続けることが、一番難しい。本当に、おつかれさまでした! そして、活動のきっかけを与えてくれた遠藤農園の遠藤さん、ありがとうございました。

しかし、熊本でも大きな震災があり、関東でもときどき地震があります。きっとこれからも日本にいる限り、地震とつきあっていかないといけないのだと思います。 身軽に動けるようにしておくことも大事です。そして、何かあったときに頼りになるのは、仲間のつながりだと思いました。物理的に助かるということももちろんだけど、仲間がいると心理的にポジティブになります。絶望せず、明るい未来を描ける。

ひとりひとりが自分にとって「本当に必要なもの」と、「余計な荷物」とはなにかを考えることが必要なのでしょう。(了)

 


編集部

編集部

オーディナリー編集部の中の人。わたしたちオーディナリーは「書く人が自由に生きるための道具箱」がコンセプトのエッセイマガジンであり、小さな出版社。個の時代を自分らしくサヴァイブするための日々のヒント、ほんとうのストーリーをお届け。国内外の市井に暮らすクリエイター、専門家、表現者など30名以上の書き手がつづる、それぞれの実体験からつむぎだした発見のことばの数々は、どれもささやかだけど役に立つことばかりです。