PEOPLE 05 たなか鮎子(絵本作家、銅版画家)

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 きのう読んだ物語を話すような社会に。ずっと本を作りたかった

interview
きのう読んだ物語を話すような社会に

 

絵本作家は憧れの職業だ。小学生女子の将来の夢ランキングで、イラストレーターが第2位。第4位の芸能人をおさえてランクインしている。絵を仕事にしていきたい人は実は多いもの。絵本を出版したり、本の表紙の絵を描いたり、個展を開いたり、アーティストとして活躍するたなか鮎子さんのバックグラウンド、人生の転機について編集部がお聞きしました。

【お話してくれた人】
たなか鮎子 (たなかあゆこ)
絵本作家、銅版画家
1972年福岡県福岡市生まれ、宮城県仙台市育ち、東京都在住。 福島大学経済学部、東京デザイナー学院グラフィックデザイン科卒業。 デザイン会社勤務を経て、個展を中心に活動中。2000年ボローニャ国際児童図書展の絵本原画展入選。おもな絵本に『かいぶつトロルのまほうのおしろ』、『フィオーラとふこうのまじょ』など。書籍装画に『1リットルの涙』『数学ガール』など。2013年12月より、世界中の人に作品を届けるため、実験的に活動拠点をロンドンへ。
たなか鮎子公式サイト ayukotanaka.com
アプリレーベル 「ピコグラフィカ」 picografika.com

 

空想好き、読書好き、絵が得意な子供時代
ずっと本を作りたかった

 

― 子供の頃ヨーロッパに住んでいたことがあるんですね

たなか 5歳から6歳までの2年間ドイツに住んでいました。美しい町並みやクリスマスマーケット、教会のステンドグラスは衝撃的で、世界観や想像力が飛躍的に広がりました。現地の幼稚園と小学校に通いましたが、向こうの学校教育はとてものびのびしていて、クリエイティブだったのを覚えています。イースターエッグを作ったり、クリスマスにランプを作ったり、絵を描いたり、外を歩き回ったり。日本に帰って小学校に入ったとたん、たくさんの規則があって驚きました。どうふるまってよいかわからず、なんと、円形脱毛症になりました(笑)。

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都内のアトリエで仕事をする。まだロンドンへ拠点を移す前の写真

― 規則になじむのに苦労したのですね。そんな中、鮎子さんは子供の頃から本をつくる人になろうと思っていたそうですが 

「絵描き」よりも「本(絵本、物語)を作る人」になりたかったんです。子供の頃から漠然と本を作りたかったんです。絵も好きだったのですが、絵だけをひたすら描く「絵描きさん」になるのは、どこか違う気がしていて。本を作るといっても、文筆、編集、イラスト、デザイン、印刷、書店まで、仕事は幅広いものです。漠然とし過ぎていて、どこからアプローチしてよいのかわからないまま、田舎で悶々と学生時代を過ごしていました。ただ、物語と美しい絵のある宝箱のような素敵な本を、まるごと作って人に届けたいという気持ちはありました。今も絵本を読んで、物語が好きな人が身の回りに増えたらいいなと思っています。そういう意味では紙の本でなくても、ウエブ、電子書籍、ZINE、アニメーション、立体や空間表現でも、物語を伝えることはできると思っています。

― 子どもの頃から絵は得意だったんですか?

物心着いた頃から絵を描くのが好きでした。学校でもコンクールで入賞したり、先生や友人からも上手だねと言われていました。家で試験勉強の参考書で隠しながら、宿題をするふりをして、こっそり絵や漫画を描いたり。弟も同じようにしていて、二人で漫画を見せ合っていました。友達を主人公にしたお話や漫画を描いたり。それから読書も大好きで、空想ばかりしていました。物語を読んで、印象的な一場面の様子を想像しては、それを描き留めようと絵を描いたりもしました。

― 物語の一場面を絵にするという作風は、子どもの頃にすでにできていたんですね。家にも本がたくさんある環境だったんですか?

本を通して人生に大切なものを学んだと思います。小さいころ、父が毎晩枕元で絵本を読んでくれました。グリム童話集と、学研のお話シリーズが好きで。絵の好き嫌いは小さい頃からはっきりしていて、どちらかというと西洋の絵やお話が好きでした。小学校に入ると、母が毎週図書館でたくさん本を借りてきてくれて、弟と二人で片っ端から読みました。児童文学全集や童話集、ファンタジー小説など。『指輪物語』や『ゲド戦記』など、今でもバイブルにしている本にもこの頃出会いました。親の教育方針で、テレビ番組をほとんど見せてもらえなかったので、読書や、絵を描いて過ごしていました。

 

机の上にはたくさんの絵の具。青色が好き

机の上にはたくさんの絵の具。青色が好き

― 学生時代はどうでしたか? これだけ絵が好きなのがわかっていたら、美大という選択も考えましたか?

何か成し遂げたい、自分にしかできないことをしたいという思いは、子どもの頃から強かったんですが、同時に優柔不断&臆病で、人生の方向を定める勇気がなかった。安全な「つぶしのきく人生」から離れるのが怖かったんですね。高校一年生の時、美術の先生から「あんたに美大に入るのは無理」と言われて、素直に諦めました。バンドブームに乗って、なんとなく音楽をやったりも。ここで学んだのは、「グループで夢を叶えるのは相当難しい、一人でやるべき」というシビアな教訓。大学は、父が経済学者だったこともあって、福島大学の経済学部に進みました。当時、特に勉強したいこともなかったし、父によろこんでもらいたかったというのもあったと思います。アーティストみたいなフラフラしたものを「仕事にする」とは思えず、芸術については一生封印するつもりで、高校生の時にあっさり辞めてしまいました。

― アートを仕事にできる人は一握りだと、現実が少し見えてくる年頃ですもんね。安全に堅実に生きていこうと方向転換した、と。

研究職にも興味があったし、故郷に錦を飾るとか、一旗揚げたいという熱い気持ちはありました。経済学部にしたのは、歴史や世の中の流れを勉強したいと思っていたし、後々にたくさんの選択肢が考えられる、安全な道だと思って。母が「芸大をあきらめなくても…」と、惜しがっていたのを覚えています。
学生時代を通じて、「自分にしか出来ないすごいことをしたい」みたいな話に共感してもらえることは、あまり多くありませんでした。自分の人生を自分で切り開きたいという気持ちはどこかに持ちながらも、私自身、しっかり将来像と向かい合うことを避けていたのだと思います。でもやっぱり本は読んでいたなぁ。昔の哲学者の言葉に胸を熱くしていたものでした。

― 「何かやってやろう」と熱くなってる若者というのは、実はけっこう少ないものかもしれません。他に熱中したものはありますか?

幼少の体験からヨーロッパ文化への興味が強かったので、大学時代はドイツ語と英語をよく勉強しました。語学と芝居にのめりこんで、ドイツ語の聖書とかアガサ・クリスティとかを読んでいました。お金を貯めては何度もヨーロッパに貧乏旅行もしました。英語劇のサークルで芝居をやっていたので、物語と接する楽しみを継続していましたが、友人がデザイナーになるために大学を辞めると言いだした時は、ひどい焦りを感じて。でも、自分自身が大学を辞める勇気はなく、不安と焦り、迷いの日々を過ごしていました。卒論は「グリム童話とヨーロッパ経済のつながり」という、無理矢理なテーマでした。別の道を選んだけれど、心の底ではどうしても童話に関わりたかったんですね(笑)

― 面白いですね。「安全な道を」と思いながらも、友人が自分の気持ちに正直な進路を選ぶのを見ると、心が揺れたわけですね。

 

はじめての就活
自分と向き合うことに

― 就活はしましたか?

就活がターニングポイントだったなと思います。自分と向かい合うことをこれまで避けていたのが、どうしても向かい合わなくてはいけなくなった。銀行や一般企業を回るうち、自分の価値観とはまったく違う世界に行こうとしていることに気づいたんです。クリエイティブな方向に近いと思って地元の印刷会社に希望を出したのですが、採用が決まりかけた頃、デザイン室への配属を希望すると「専門教育を受けた人しか入れない」と言われ、このままではクリエイティブな仕事ができないと悟りました。「つぶしのきく人生」から「専門家の世界」へ飛び込まなくてはいけない、と思った。そこで初めて、一度きりの人生、危険を冒さずに生きるか、大きな博打を打つか、どちらかだと認識しました。それには大きな覚悟が必要でした。心はほぼ決まったので、仕事をしながら上京の準備を整えたり、絵の基礎勉強を始めながら二年間貯金生活をしていました。

 

迷いが晴れる
勉強と制作、デザイナーに

 

ー「つぶしのきく人生」にさよならして、ようやくアーティストの道を歩み始めるわけですね

実はこの時点では、デザインとイラストの区別もろくについていなかった。とにかくこれまでのロスを取り戻そうと、がむしゃらに勉強&絵の制作。体力的にはキツかったけれど、心に迷いがないので精神的には非常に幸せな日々でした。そのまま今に至る感じです。まずはデザイナーを目指して東京の大学に通っていた弟のアパートに居候させてもらいました。私は長女で弟がふたりいるんですが、この弟は昔からクリエイティブな子で、ずいぶん影響を受けた気がします。上京当時も力を貸してくれました。それからデザインの専門学校に通いました。まわりよりも年上なので長老扱いされ、あだ名は「適齢期」。卒業後は、原宿にあるデザイン会社に就職しました。本の仕事がしたかったのでエディトリアル中心の会社に。ファッション誌中心で、デザインの基礎をしっかり勉強することができました。朝から夜中まで働いて月収10万円で、キツかったなあ。

―忙しい中、また経済的に材料費を投資できない環境。どういう思いで自分の作品づくりをしていましたか?

忙しかったですが、作りたいものがあとからあとから湧いてきて、忙しい中でも製作のモチベーションが下がったことはなかったですね。デザイン会社でイラストレーターの絵を扱っていると、自分も早くそちらへ行きたい、という思いが強まってきてしまった。どこに応募しようか調べているうち、好きな外国の絵本がこのコンクールを機に出版されていて、世界の絵本画家の登竜門であることを知って、ボローニャ国際絵本原画展に応募しました。それが入選したのです。イタリアの会場では、世界中の絵本出版社や売り込みをするエネルギッシュな絵本作家の卵たちを見て、大いに刺激を受けました。

―受賞後、なにか変化はありましたか?

受賞後すぐに仕事は来ませんでしたが、名のあるギャラリーでの個展が決まったり、絵本の世界が見えてきて、次の目標を定めやすくなりました。そこで制作時間を取るため、もう少し時間に余裕がつくれる別のデザイン会社へ転職。Macでの作業やビジネス誌(日経BPなど)のレイアウトを担当、経済学部での知識も活かせて、楽しく仕事ができました。ボローニャ入選のつながりから、東京でも有名なイラストレーション専門ギャラリー(MAYA)での個展が決まったり、順調でした。

ボローニャ原画

ボローニャ国際絵本原画展(2000年)入選した作品のひとつ。チェコやドイツの絵本に影響を受けています。


初の絵本出版から独立
イラストレーション中心の仕事スタイルへ

 

―そして30歳で独立したんですね。独立後、一番つまづく人が多いのは営業活動です。仕事の依頼がない、という状況。特にクリエイターは制作はできますが、営業のことは考えたことがない人が多い。鮎子さんは、初めての仕事はどのように生み出しましたか?

いわゆるデザインではないイラストでの初依頼は、それまでのつながりで入ってきました。細々したイラストカットの仕事でしたが。その頃に自分のWEBサイトもつくって、作品を載せたりブログを書いたりしていました。そうしたら「WEBサイトを見て、絵を気に入った」と絵本作家のかんのゆうこさんから突然メールをいただいて、あれよという間に講談社さんから絵本の出版が決まりました。かんのさんは絵本の世界へ飛び込むきっかけを作ってくれた恩人です。独立を考え始めるのに、この最初の絵本やその後の個展が大きなターニングポイントになりました。勤めていたデザイン会社が副業禁止だったこと、その頃に結婚が決まったことも重なって、独立に踏み切ることに。それまでの仕事も社長と話してフリーランス契約し、一誌を引き続き担当させてもらうこともできましたし。会社員じゃなくなって、デザインに割く時間が減った分、イラストや絵本の仕事を積極的に受けていけました。絵本出版後は知り合いの編集者さんからつながって、子供の本のイラストの仕事が入るようにもなりました。この時点では、絵を描くので精一杯。絵本も、イラスト部分だけ依頼を受けて描く形でした。幸いなことに、独立して以降、こちらから営業をかけることはせずに、お仕事をいただいています。本の装画など仕事にはクレジットが入りますので、それを見て、「ぜひ、たなかさんに」という依頼をしてくださる方が多いです。作品が私の代わりに営業活動をしてくれているようで、助かります。

― 当時を振り返って、独立前に準備しておけばよかったと思うことはありますか?

美術の基礎的なことですね。デッサン力をつけたり、美術史の勉強をもっとしておけばよかったな、と。あとは人脈をできるだけ広げて、深めておくこと。個展をやるうち親しくなったギャラリー(MAYA)のスタッフを三年ほど勤めていたのですが、ここで飛躍的に人脈が増えたのは幸運でした。

― 会社員時代と比べて、独立するにあたり、心がけていたことはありますか?

とにかくなんでも勉強だと思いました。来る仕事は好き嫌いせずに何でも受ける。初めて描くものもシラッとした顔で「○○描くの好きなんです」と言って受けるんです。(だいたいすぐバレますけど)。それでもやはり、物語が最も好きなのはすぐに編集者には伝わるらしいです。大人向け、子供向けに関わらず、依頼が入るのは本の仕事ばかりですから。

かいぶつトロルのまほうのおしろ カバー

初めてお話と絵の両方を手掛けた絵本。中の迷路のシーンは、きっと楽しんでもらえると思います。

 

― 絵本作家としての本格始動はどういうきっかけでしたか?

30代半ば頃、アリス館の編集者さんから、「絵本のお話も執筆しませんか」という話が来ました。(「かいぶつトロルのまほうのおしろ」)これをきっかけに、自ら絵本の物語を創作して企画を持ち込むスタイルもあるのだと思うようになりましたね。好きな物語世界に回帰する気持ちが強くなり、執筆を開始しました。未発表ですが短編、長編の物語からエッセイまで、いろいろなスタイルに挑戦中です。「フィオーラとふこうのまじょ」(09年、講談社)は、一番苦労して、自分らしさも出ている作品です。フェミニズム、運命論、童話。本当はもっと大人向きの作品ですが。深井さんの自由大学の『自分の本をつくる方法』に通ったのもこの頃。哲学をテーマにした画文集を作りたいと思っていたので。(絵のみ、のちにアプリ『佐門准教授と12人の哲学者』で実現)
一方、出版業界の変化(ネット&SNS、電子書籍などメディアの急激な変化)への危機感から、「これからの本作りとは?」という問いかけが強くなりました。出版、デザイン、執筆、イラストレーションの枠を超えて、自分にできることを模索。旦那さんのIT会社起業をきっかけに、2010年にアプリレーベル「picografika」(ピコグラフィカ)を設立し、アートブックとデジタル書籍の融合を目指し、いくつかのアプリ絵本、Kindle書籍を試験的にリリースしています。

― チャリティー展などの活動も始められましたね 

震災(3.11)をきっかけに、アーティストとして社会に何か還元できないかということを考え始めました。命のはかなさを考え、一度きりの人生に何ができるか、改めて自分に問いかけるきっかけとなりました。少しでも社会貢献の一助になればと、チャリティーアプリ「Art Tails」を主催したり、チャリティー展「手から手へ展」などで絵を巡回展示、販売したりして活動を続けています。
他にも何かできないかといろいろ考えた時期もあったのですが、結局、なによりも自分が人のためにできるのは「いい物語を作って届けること」だと思うようになりました。少しでもクオリティを上げるために、自分の意識をより高いところに置いて、よりクリエイティブなものを作る努力を続けなくては、と思っています。実は、海外に拠点を移してみたいという気持ちはずっと持っていました。このArt Tailsの活動を通して海外のアーティストたちと交流したのをきっかけに、より具体的に海外のアートシーンを意識するようになったように思います。

― そういう自主的な誰に頼まれたわけでもない仕事って、縛りがないので怠けようと思えばいくらでも怠けてしまうし、一時期盛り上がっても、熱が続かなかったりすることもある。その辺の仕事のモチベーションはどう維持していますか? 思いがあったら「モチベーションの維持」とかいう質問は愚問なのでしょうか?

いつも面白く仕事をするために、飽きないように同時平行して複数の作品をつくっています。波はどうしてもありますよね。個展のあとは、毎回寝込む。毎晩、夢にも出る。なんであんなのを出してしまったんだ、もっと良い物をつくれたはずだ、という思いが毎回あります。いつも成長の余地がある。完璧だと思ったことはないです。

ヨーロッパを旅しながら仕事をする

ヨーロッパを旅しながら仕事をする

― 今までの人生の歩みを振り返って、後悔していることはありますか。もし人生をやり直せるなら、どこをどうやり直しますか?

やはりスタートが遅かったのを後悔しています。子供の頃からこの世界に入るという具体的な目標を持って、物事を違う目で見るように心掛けていれば、今頃どうなっていただろう、と。でも、結局今思うと、迷ってきたどのプロセスも自分にとって必要だったと思うし、迷った分、いろんな分野の友人や知り合いがいるので、幅広い目線やいろんな話題への興味が尽きない面もあるかなと。また、以前迷っていた分、今はさっぱりして前に進むだけだという開き直りが自分を強くしていると思う。いろいろなことを経験できたおかげで今の自分のクリエイションがあるんじゃないかと思っています。

― アーティストを辞めようと思ったことはありますか?

ありませんね。もうこの道以外の仕事が勤まらないだろうことも知っているので。特にベテランの上の世代のアーティストや批評家に低評価をもらったときなど、落ち込むこともあります。でも、事務職や営業職の仕事には戻れないな、と思っています。新しい仕事を覚えるとか人間関係を上手に築くとか、器用にできない。彼らを本当に尊敬しています。好きなことしかできない私は、社会のクズだとも思っています。アーティスト仲間でもそう自覚している人は多いですよ。だから、私は生きてることに感謝していますし、せめて良い物をつくって、喜んでくれる人を増やしたい。すこしは社会の役に立てたらという気持ちがあります。

― パートナーの存在も心強いですか?

夫のクリスは、メキシコ人でエンジニアです。知り合ったのは仕事で、彼の会社の名刺やステーショナリーのデザインを手がけたことがきっかけでした。ちょうどその時期に開催していた私の個展のフライヤーを手渡したら、来てくれて。彼もアートが好きなので、理解がありますし、アドバイスをしてくれます。穏やかな人で、仕事を続ける上で、支えになってくれています。メトロポリタンな外国人で、根っからのノマド人間。パソコンさえあればどこに住んでも大丈夫、という気楽な人です。世界のどこにいてもできる仕事なので、スカイプで得意先と打合せして進めています。今回ロンドンへの移住も一緒に来てくれます。日本へ来た時はサラリーマンでしたが、起業してからは互いの仕事をサポートするパートナーでもあります。起業や会社運営も、大変だけどリアリティがあって面白いですね。新しいテクノロジーにも明るく、とにかく何でも受け入れて楽しめる「柔軟性」がある。私の生き方にも大きな影響を与えていると思います。

滞在先からの窓から

滞在先からの窓から


ロンドンへの想い
アーティストとしてのこれから

 

― 今後 目指すもの、成し遂げたいことはなんですか 

日本でぬくぬくしてちゃいけないという気持ちがあるんです。断捨離が必要。世界のどこにいても仕事はできるんだから、実験的にロンドンに拠点を移してみようと決めました。世界中に自分の作品を届けたい、理想の本をつくりたいという思いがあります。
変容と創造を繰り返す「言葉」に喚起されたイメージをグラフィカルに表現すること。人間の想像力の素晴らしさ、可能性の大きさを示すことが、過去から未来に渡っての私の制作テーマです。結局自分は子供の頃と何ら変わりない。物語を想像しては手を動かして絵を描く、自分はそれだけの人間だと思うんです。物語って本当に素晴らしいもの。物語とは、他の人生や世界観を凝縮された形で「疑似体験」することができる。スケールの大きい宇宙や別世界を旅したり、哲学書にも書いていないような、深い人間の心理を学んだり、人生を二倍にも三倍にも広げてくれるものです。
人が争ったり、生きるのが辛くなるのは、心が狭く、固くなっているから。間接的なやり方ではあるけれど、物語を通して心を豊かにできる子供や大人が一人でも増えてくれたら嬉しいですね。
これまでは、小説、童話、詩集などなど、好きな物語に触発されて絵を描く、ということをやってきました。自分が描いた絵を通してその物語に興味を持ってもらったり、世界観を理解してもらいたいと思っていたから。これからも同じテーマで作品を作り続けたいですね。

― これからさらにオリジナルの物語も発表していくつもりですか?

はい、これからは、どんどんオリジナルの物語を作って発表したい、と思います。私が作った物語が人を喜ばせたり、何かに気づくきっかけになったらと思う。子供の本だけでなく、思春期の少年少女や、大人のためにも物語を作りたいですね。

― 鮎子さんにとってこれからの本作りとは何でしょうか 

デジタルの時代、出版業界は新たな転機を迎えていますが、今の時代により楽しい形で読者に届ける方法を模索中です。デジタル、ネット、立体、平面、いろんな媒体を通して物語を語っていきたいですね。ロンドンの大学院でも同様のテーマで、大人〜子供問わずに楽しめる様々なアートブックづくりを研究したいと思っています。アーティストは人に影響を与える仕事。責任を伴う仕事なので、広い視野と深い洞察の必要性を常々感じています。違う文化を持った人々、海外のアートシーンに触れて、より作品に幅と深さを持たせたいと考えています。

― 最後に鮎子さんにとって、仕事の成功とは?

いい物語の本を作って、たくさんの人が喜んでくれること。人々が、会うたび「昨日読んだ物語」の話をするような社会になったら、さらに嬉しいです。

 

 

星うさぎと月のふね カバー

初めて出版した絵本「星うさぎと月のふね」(講談社/2003年)のカバー。かんのゆうこさんのお話に、自由に絵を付けさせてもらいました。

 

2012年グループ展より グスコーブドリカバー

宮澤賢治「グスコーブドリの伝記」を題材に描いた絵に、装丁家の大久保裕之さん(ベターデイズ主催)が素敵な装丁をつけて下さいました。

2013年個展より DM画像

2013年の個展「仮想空間実験室」のDM。現実と空想を行き来する不思議な言葉の世界「溶ける魚」(アンドレ・ブルトン著)が題材です。

立体「司書:バベルの図書館より」

同個展にて初めて発表した立体作品。物語の世界を立体で表現することで、よりその物語をリアルに体感してもらえたら…という思いで作りました。

 

 

【いってらっしゃい、鮎子さん】
たなか鮎子さんは、オーディナリーのロゴデザインなどを手がけたり全体のアートディレクションをしてくれています。そして先日、2013年12月10日に日本を離れ、ドイツ、スイスなどヨーロッパ各地をぐるっと回ってからロンドンに活動拠点を移します。日本だけでなく世界の人に作品を届けたいとの思いからです。ロンドンのアートシーンは歴史もあるし面白い。近年だとストリートアートとしてバンクシーが世界中の人の心をつかんだのは有名です。鮎子さんは現地で最先端のアートを学べる大学院にも潜入したり、仕事をしたり、ネットワークを広げていくようです。WEBのおかげで世界は小さくなりました。どこにいても仕事はできる。引き続き、日本との仕事もしてくれるようで我々オーディナリー編集部も大変心強く感じています。最新の様子は、こちらのブログをチェックしてください。すぐにまたお便りが届くはず。ご期待くださいね。(編集部一同より)

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編集部

編集部

オーディナリー編集部の中の人。わたしたちオーディナリーは「自由に生きるための道具箱」がコンセプトのエッセイマガジンであり、小さな出版社。個の時代を自分らしくサヴァイブするための日々のヒント、ほんとうのストーリーをお届け。国内外の市井に暮らすクリエイター、専門家、表現者など30名以上の書き手がつづる、それぞれの実体験からつむぎだした発見のことばの数々は、どれもささやかだけど役に立つことばかりです。