面倒な映画帖20「ユマニテ」 サイキックおじさん、あらわる!

面倒な映画帖 郊外の市街地で静かに生きているこの人が、サイキックかもしれないという奇妙な説得力が気に入ったのか。あまりにも打算ばかりの生活を送りながら、どこかで人知の及ばない何かを信じたい、そういうものが存在して、ありえないことが起こる可能性、その時はそういうものを欲していたのだろうか。

< 連載 >
モトカワマリコの面倒な映画帖 とは 

映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。


面倒な映画 20

「ユマニテ」

寡作な映画作家、ブリュノ・デュモンのフランス映画。地方都市のなんでもない人生に潜む残忍さを描きつつ、目をそらさせない画力で人を惹きつける。演者に素人を使うのもその一助となるんだろう。心が崩れそうな破壊力がある怖い映画。

サイキックおじさん あらわる!

エリ・エリ・レマ・サバクタニ

国際映画祭あたりで評価の高い文芸作の例にもれず、興業的には成功しなかったこの作品は「ユマニテ=人間性」という意味の奇妙なタイトル。監督ブリュノ・デュモンは、ナイーブで無垢な存在と、それをあからさまに踏みつけにする獣のような人間を残忍な実験のように同じ檻に入れてみせる。

およそ刑事らしくない男、ナイーブなファラオン警部補。妻を事故で亡くし、母親と暮らす30代の彼は近所に住むドミノに思いを寄せていたが、彼女には恋人がいて、ファラオンの想いを知りながら、恋人との性行為をまともに見せつける。こんなに獣めいた悲しい女を愛する理由はなんだろうか、ファラオンが担当する少女強姦殺人事件の不穏な空気感。北フランスの農場を舞台に展開する閉鎖的な村のドラマはいたたまれない。

人はひどいことをされたときどうするのか。攻撃的な人ならまともに復讐するだろうし、繊細な人なら相手の気持ちに打ちのめされて、精神に異常をきたすこともあるだろう。あるいは受けた波動を別の対象に向けることだってある、八つ当たりってやつだ。残酷さというものはエネルギー保存の法則のように、一度人の心に入り込むと、そこで巣食いいつまでも消えることはない。

でも映画では奇蹟がおこる。ファラオンは常人では打ちのめされそうな人の残酷さを不思議な方法で昇華してしまう。特に文脈もなく、よく見ているとラストシーン近くで赴いた畑、多分少女が惨殺された畑の近くで、ほんの30センチくらい宙に浮くのだ。浮いただけで、状況は何も解決もされないけれど、宙に浮いた彼を見た時、それまでのフラストレーションがすうっと楽になる。言葉では説明できないけれど、そういうのが映画の不思議なところ。ただ映像上で人が宙に浮いただけで、弱い男が聖人に見えてしまう。サクリファイス、それだ。エリ・エリ・レマ・サバクタニである。彼は罪にまみれた世紀末に降臨した人の子の王なのかもしれないけれど、あまりにもわずかな変化で、親切な表現ではないから、気が付かない人もいるかもしれない。監督は普通に撮影していたのに、この俳優が異能でつい浮いたのかも、とさえ思える。信じるか、信じないか、それはあなたの問題です。

超常現象を信じる所要時間、3秒。

ある時、コーヒー屋のおじさんとおいしいパン屋の話をしていた。地元にはパン屋がたくさんあるけれど、人口比でいうと地元のパン屋の天然酵母使用率が日本一だという話題。なんでそんなどうでもいい話題になったのか覚えていないけれど、戦慄が走ったのはその数秒後である。

「さっきの地図に近くのパン屋の場所を書き込んであげましょうか。」

え?

私は確かにその店に入る前に、2キロほど離れたパン屋の店先で地図をもらっていた。でもそれはカバンにたたまれて入っているし、出してもいない。それなのにおじさんは、まるで見ていたように地図の話をするのだ。なんで私が地図を持っていて、それを見ていたことを知っているのだ。

背中を冷たい汗が流れる、え?この人サイキックなの?こだわりのコーヒー豆を輸入して、住宅地の中の小さなお店で焙煎して売っている人である。以前はコーヒー業界では有名な人だったのだそうだが、今は引退して、半ば趣味で優雅に自宅でお店を開いている。いかにも穏やかな紳士にして、本当はクレヤボヤンスかテレパシーの使い手、それともサイコメトラーなのではないのか。信じられないことだが、超能力は存在するのか。3秒で私はそういうものを信じようという気になっていた。その紳士がまるで邪気がなく、紳士的だからなおさらそういうものが存在する、という事実に慣れようとした。

もちろんそれは勘違い

場所がわかりづらいこのお店には小さな地図が用意してあって、お客さんにはそれを配布していたのだが、たまたま店が混んでいて、私に渡すのを忘れていただけだった。「あ、地図渡していなかったですね、店の場所がわかりにくいから地図のついたショップカードを作ったんですよ。」

ほんのひと時でも、どうして「サイキックおじさん」を信じる努力をしたのだろう。

郊外の市街地で静かに生きているこの人が、サイキックかもしれないという奇妙な説得力が気に入ったのか。あまりにも打算ばかりの生活を送りながら、どこかで人知の及ばない何かを信じたい、そういうものが存在して、ありえないことが起こる可能性、その時はそういうものを欲していたのだろうか。

誤解だったことを残念に思いながら、ファラオンが宙に浮いた光景が目に浮かんだ。私の人生にも、あんな小さな奇蹟が起きたのかと、安易な期待をしてしまった。

でもそんなことは起こらない。超能力など存在しない、コーヒー屋のおじさんはサイキックじゃない。無垢な男は宙に浮かないし、私は永遠に暗愚なままだ。

数分の内に変な期待と興奮、失望に翻弄されていた私に、おじさんはサービスだよといいながらコーヒーをごちそうしてくれた。「これはきっと今の気分だと思いますよ。」やはりこの人は超能力があるのだろうか、ペルーのエルパルゴ、コンドルが舞う高山で取れる希少な豆。それはコーヒーというよりもチョコレートのように濃厚な甘さで、心とろかす味がした。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在は、ウェブサイト、月刊誌プレジデントウーマンでライターとして、文化放送で朝のニュース番組の構成作家としても活動。趣味は映画と声楽。二児の母。