PEOPLE 09 荻阪哲雄(株式会社チェンジ・アーティスト代表取締役 / 組織変革コンサルタント)

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歩んだ職業人生を見つめてみると、「私みたいな人」を助ける仕事をしようと思い立ったのが入口でした。人物が「師」を得るのは、何かを信念をもってやり遂げようとするからです。ぼんやりして待っていても何も起こらない。でも師匠に出会わないと、道が拓かないのも事実で、出会いが欲しかった。
INTERVIEW
組織変革はアートである 
日本で初めて組織結束力メソッドを開発するまでの道のり

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編集部ではこの4月に、日本経済新聞出版社から2冊目の著作「リーダーの言葉が届かない10の理由」を上梓されたばかりの荻阪さんにお話を伺った。Amazon の「企業経営部門」「オペレーション部門」の2部門で第1位を獲得して、発売から4か月以上たってもなお大型書店でも平積みが続き、海外からの翻訳版のオファーもあり、ビジネス書として評判も上々とのこと。組織変革コンサルタントという職業は、耳慣れない。しかし、これからの日本のビジネスにとって必要な分野なのだそうだ。

聞き手:深井次郎 (オーディナリー発行人 / 文筆家)

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【お話してくれた人】荻阪 哲雄(おぎさか てつお )
株式会社チェンジ・アーティスト代表取締役、組織変革コンサルタント
1963年、東京・浅草生まれ。多摩大学大学院経営情報学研究科修士課程修了(MBA取得)。 警視庁、ベンチャー企業勤務の後、一橋大学・山城章名誉教授の経営研究所へ。プロジェクトマネジャーを経て、 1994年、組織風土改革コンサルティングファームスコラ・コンサルトの創業期に参画。 No.1コンサルタントとして活躍後、同パートナーに就任。 2007年、独立。組織の結束力を高めて、ビジョンを行動へ変える『バインディング・アプローチ』を提唱し、 チェンジ・アーティストを創業。 著書に『結束力の強化書』(ダイヤモンド社)『リーダーの言葉が届かない10の理由』(日本経済新聞出版社) 『ここから会社は変わり始めた』(共著、日経ビジネス人文庫)がある。
株式会社チェンジ・アーティスト http://www.changeartist.jp結束力の強化書リーダーの言葉が届かない10の理由(帯付き) (2)

 

PEOPLE(ピープル)とは、オーディナリー周辺の「好きを活かして自分らしく生きる人」たち。彼らがどのようにやりたいことを見つけていったのか。今の自分を形づくった「人生の転機」について、深井次郎(オーディナリー発行人)と語るコーナーです。

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組織変革コンサルタントになろうと思った理由

 

深井次郎 荻阪さん、新刊の調子いいみたいでなによりです。ここに来る途中で日本橋の丸善に寄りましたが、2カ所平積みでした。いい感じ。

さて、今日は荻阪さんがどのように「やりたいこと」を探求し、今の仕事に行きついたのか。その紆余曲折をお聞きできればと思います。そもそも、組織変革コンサルタントというお仕事は、初めて耳にする方もいると思います。簡単にいうと、どういう仕事なのでしょう?

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荻阪哲雄 ビジョンの実践を通して、組織力を強化し、業績を変える仕事です。組織を変えようというのには大きくは、2つの方向があって、戦略・制度・仕組みなど、「目に見えるフォーマルの変革」と、意欲・行動・文化という「目に見えないインフォーマルの変革」を扱う場合があります。

見える部分を変えたけれど、うまく動かないというとき、組織の問題は目に見えない部分にある。働く人のものの見方や考え方、行動などが原因なことが多いのです。そこで人に働きかけて、企業のビジョン・戦略が動くように、実践者主体で従業員の「働き甲斐」に光りを当て、「組織の文化(カルチャー)」を変えながら、業績を向上させるというのが主な仕事です。

 

深井 コンサルタントは、会社の外から組織を変革するわけですか?

 

荻阪 いえ、組織の中まで入り込みますね。私はいわゆる定量分析的な「データ型のコンサルタント」ではありません。会社の中へ深く入り、ビジョンの実践を通して、働く人が自分たちの仕事の仕方を自ら考えて、どうしたらいいか発見して、その解決のプロセスを助ける「実践型のコンサルタント」です。

具体的には、社内の問題を感じているトップとミドルクラスへコンサルティングを通してお会いしながら、実践手法「バインディング・アプローチ」を伝授して、そのクライアント組織の「実践のビジョン」を構築、展開、定着させるところまでお手伝いしています。問題というのは、自分のこととして認識し、なんとかしようとする人にしか解決できない。かといって一人で組織の文化を変えることはできませんから。

 

深井 リーダーたちの「参謀の役割」ですね。

 

荻阪 そう、意志と信念をもって、目の前の「現実」を変革しようとしているリーダーたちと共に悩み、作戦を立て、ビジョンの実現を助けるのが仕事です。

 

深井 荻阪さんの実際のお仕事は、著作にあるメソッド「バインディングアプローチ」によるビジネスコンサルティングが主だと思います。メソッドの説明はここでさらっと語れるほど簡単なものではない感じですよね。詳しくは新著『リーダーの言葉が届かない10 の理由』を読んでいただくとして。いま、お仕事でのやりがいはどんなことですか?


荻阪 
私は「真剣勝負の世界」が好きなんですよ。世の中にはそういうリスクを避けていきたい人もいるでしょう。でも私は勝負している時にやりがいを感じるんです。人や組織が変わる過程へ働きかけることは、ひとつの真剣勝負の世界です。ビジネスパーソンの方々の人生を左右する部分もあり、責任重大です。

だからこそコンサルティングの仕事には、毎回違うドラマの真剣勝負があります。クライアントと一緒に新しい組織のあり方を見つめて作り上げていく過程で、いつも大きな物語が生まれる、描いていなかった展開が起こる。関わる人みんなと共に、だんだん真剣になってきて、組織が大きく変化していく。それが、変革コンサルティングの「仕事の醍醐味」であり、組織変革は「アート」であると感じるところです。

 

深井 そもそもなのですが、この仕事をしようと思ったのはどうしてですか?


荻阪 
小学生の時からぼんやり、組織という言葉はわからなかったのですが、人と人の結びつきとつながりに強い興味をもっていました。古典が好きだったな。歴史の本ばかり、それも子供のころは、戦記物ばかり読んでいました。

 

深井 小学生で? それは早いなあ!


荻阪 
ませていました(笑)しかし「人類の歴史」は、なぜか「闘いの歴史」が続くのです。そして今だって闘いはなくならない。世の中を良くして行く、現実との闘いは、人と人の組み合わせで「実践の物語」が変わります。人が人になぜ集まるのか、集まった人の組み合わせで闘いはどう展開するのか、そればかり考えていました。

 

深井 小学生がそんな難しいことを考えるなんて、なにかあったんですか?


荻阪 
いわゆるいじめ問題を経験しました。子供のころに「仲間はずれ」を受けました。クラスで誰も私と口をきいてくれなくなった時期が長くあって。小学生が誰とも話せないのは生きるのが大変になるくらい辛いことでした。当時、親にも言えず、本の世界で生きるしかなかった。本は素晴らしいですから、自分なんて小さい、自分の悩みも大したことないと思えるでしょう。

 

深井 わかります。ぼくも転勤族の子で転校していたから、人の関わりには興味を持たざるを得なかった。新しい学校で友達ができるかどうかは大問題ですよ、自分ひとりがアウェイ。そういう体験から、場を見る目が培われた気がします。


荻阪 
よく考えてみると、クラスで起きていることも、歴史の中で起こったこともスケールは異なりますが、同じ「人生の闘い」だったんです。子供だから言葉にはできなかったけれど、感じとっていた。そしてうまくいかない、自分が入れない「疎外感」や「孤立感」が、それぞれの「世界の繋がり」の中にあることを知るんです。

こんな状況の時、歴史上の英雄とか偉人にはいるでしょう、わかってくれるメンターが。「お前の強みはこれだ、ここを伸ばせばいい。」と助言してくれる。私は真剣にそういう人が出てくるのを待っていて、いつかそういう道を示してくれるんだと思っていたんです。

 

いじめ問題も、歴史上の戦も、同じ「人生の闘い」だった

 

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深井 自分の長所を見出して、引っ張り上げてくれる人が欲しかったんですね? 若いころに、そういう時期ありました。でも、なかなかそんな人現れない(笑)


荻阪 
自分は何かを成し遂げるために、いいところでそういう人物が助けに来て、苦難を共に乗り越えて、状況を逆転するイメージを持っていました。歴史の本ではそんな場面がありますよね。でも現実は違った(笑)。私の才能を理解して、評価してくれる人、深いアドバイスをくれる人が欲しかったけれどいない。ならば、逆の発想で、自分が相手を助ける人物になろうと思ったんです。

 

深井 待っていても何も変わらないってことですね。


荻阪 
幼かった私は、まだまだ受け身で、自分では、気づけないんです。今、歩んだ職業人生を見つめてみると、そんな「私みたいな人」を助ける仕事をしようと思い立ったのが入口でした。人物が「師」を得るのは、何かを信念をもってやり遂げようとするからです。ぼんやりして待っていても何も起こらない。でも師匠に出会わないと、道が拓かないのも事実で、出会いが欲しかった。

 

深井 それで師匠には出会えましたか?


荻阪 
はい、幸運にも2人のプロフェッショナルの先人(師匠)に。その1人は、スコラ・コンサルトの柴田昌治さん。この出会いは大きかったですね。自然体で表現する経営者の生き方を学びました。そして、自分自身の中にある個性は、強烈な個性のある人物との葛藤の中でだけ、自分の「真の個性」を発見できるのだと感じました。でなければ今のように本は、出せなかったですね。なぜなら、自分が何者かわからければ、著作は上梓できないからです。

 

深井 自分が何者かわかって、自分だけの役割が見つけられないと本は出せない。その通りだと思います。

 

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警視庁で働く経験から、コンサルタントへ転身することを決意

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深井 組織に興味があった学生が、どうして警視庁に入ったのですか?

 

荻阪 幼い頃の原体験もあり、「直接、人を助ける仕事をしよう」と思って選びました。警察で学んだことは組織力のすごさです。警察は上から下に情報が乱れずに届く。犯罪を未然に防ぐという目的がありますから、どんな情報も真剣に伝える組織です。3万人の大組織にも関わらず情報伝達が正確で速い。そこは素晴らしい組織でした。

そこで、働くうちに、日本という国をより良く変えるためには、最も優れた組織である「企業組織」が変わらなければならないと気づくんです。そして、「組織変革コンサルタント」になることを志し、お世話になった警視庁を退庁することを決意しました。智恵で勝負することを決めたんです。

 

深井 公務員だし、周りは反対したのではないですか?

 

荻阪 はい。今と違って、転職が少ない時代でしたからね。日頃、静かに応援してくれていた亡き父が、この時だけは反対しました。「せっかく入ったんだから」と、親心で止めましたね。親になった今、その父の思いが届きます。その時、止めた父には、自分の描くビジョンを語りました。どうしても勝負してみたいと。

未来を想像して、これからの日本を考えると、衣食住が足りて、「余暇を楽しむ時代」が過ぎたら、次は「変革の時代」がやってくる。その時に、「組織を変革するコンサルティング」が必ず必要になる。米国では実践されていましたが、すべてが個人の意見で動く米国社会での方法論では、日本にそのまま取り入れてもうまく行かない。日本発の「組織変革の方法」があるはず。日本ではまだそんな職業は知られていなかったけれど、「参謀型の組織変革コンサルティング」の仕事をしたいと思っていました。

 

深井 それで公務員をやめて、ベンチャー企業の法人営業職に転職しましたね、それはまたどうしてですか。

 

荻阪 生々しいビジネスの実践を、ベンチャーの企業組織で学びながら「組織変革コンサルタント」になる準備をするためです。御縁があったこのベンチャー企業に、今、とても感謝しています。当時、警視庁で働いた経験はありましたが、ビジネス組織を知らないわけです。どんなに志があっても、一足飛びに「コンサルティングの世界」には入れませんからね。一段、一段、実践の力。人間力を磨きながら進みました。

また、警察という組織は、働いても、売上や利益などの結果がでるわけじゃない。やったらやったぶんだけの結果が出る仕事を体験したかった。そして、何よりも「ビジネスの実務経験」がなければ、真の組織変革のコンサルタントにはなれないと感じていました。なぜなら、企業組織で、働く人の痛みが感じられないからです。つらさがわからずに、他人に綺麗事や、べき論のロジックを言うようなことだけでは、変革は続かないと考えていました。

このベンチャー企業では、ビジネスをゼロから学ばせて頂き、真剣にがんばってトップセールスの結果を出したところで、次の「学びの場」へ転職をしました。組織変革の「一流のプロフェッショナル」になるには、「変革の研究」と同時に、自分自身が「新たなコンサルティング」を創り上げる「実務体験」がいると判断しました。

 

深井 それで、一橋大学 山城章名誉教授の経営研究所へ入ったのですね。

 

荻阪  そうです。御縁があり、「新たな事業づくり」の修業を積ませて頂きました。この新たな機会に全力投球、無我夢中でしたね。先人のプロフェッショナルの後姿を通して、厳しい「プロの世界観」を学びました。

掃除をすることから始めて、コンサルティングの「新事業立ち上げ」の実践を通して、武道を修練するように、日米におけるOD(組織開発)理論とスキルを学び抜きました。未熟な自分ですから、うまく行かない失敗を無数に経験しました。涙が浮かび、悔しくて椅子から立てないこともありましたね。でも一流の人の考えを身近で見聞きして学ぶことは成長のために大事なことでした。プロを観察する学び方を学びました。

この研究所での「コンサルティング事業」のプロジェクトマネジャーの経験から、知りようもなかった一流のプロフェッショナルの目配りと気配り、新たなコンサルティング事業づくりの厳しさを教えて頂きました。このベンチャー企業と、経営研究所での「プロフェッショナル修業」は、若き時代に、目の前の仕事に全力で取り組む、自分の基礎を磨いて頂いた「かけがえのない時間」でした。

 

深井 いよいよ次がスコラ・コンサルトですね。

 

荻阪  幸運な出会いであり、柴田さんを含めて、創業期のメンバー5人。新たな出発でした。皆で使命感に燃え、創業の息吹きを感じながら、朝から動き、終電まで語り合い、一緒に大きく成長させて頂きました。

今でこそ、スコラ・コンサルトは、人事・組織系の方からは有名ですが、20年前の当時は、まだ「企業風土改革コンサルティングなんてなんだかわからない」って時代でしたから、営業すると「うちは、読まないよ」とか言われて、雑誌社と間違われたこともありました(笑)。

 

深井 あはは、雑誌の『スコラ』ですね!

 

荻阪  当時、雑誌があったでしょう。これも無名時代にある、懐かしい創業期の物語の一つ。でも、はじめから「スコラ・コンサルトは、世界へ向かって、日本初の組織風土改革コンサルティング・ファームになれる」という確信がありました。スコラ・コンサルトの組織運営は、自由と自己責任の原則を根幹にして「責任はあっても、上司はいない組織」を、皆で目指しました。グループで働くメンバーが50人を超えても、上司を作らないフラットな組織でプロジェクトごとにリーダーを決めて仕事をしていました。

また「賃金は、果たした責任に応じて払われる」という賃金観を文化に持っていたんです。基本給でなく「責任給」。そのうえで、働く人間の「信頼感」と「創造性」を大切にしたプロフェッショナル組織でしたから、20年前から「在宅勤務」をスタートさせていました。時代の先取りをスコラ・コンサルトは、していましたね。今の私があるのは、スコラ・コンサルトでの学びの御蔭です。

 

深井 珍しい組織のカタチ。


荻阪  
そして、スコラにいるのは長くても10年と決めていました。結果的に、パートナーになった時代を入れて、12年間、スコラ・コンサルトで大変お世話になりました。皆で「スコラの未来ビジョン2006」をつくる中で、新たなキャリア・パスに「経営型」と「独立型」を定めました。コンサルティング・ファームとして、最終的に「経営を担うプロフェッショナル」と「独立するプロフェッショナル」のキャリア・パスの方向を創りました。

私は、2006年ビジョンを作った後、スコラ・コンサルトから独立する第1号になることを選びました。組織変革には、先人がリスクテイクして、勇気をもって、次の「挑戦する後姿」を見せることが、新たな組織づくりには大切と感じています。

 

リスクテイクして挑戦する後姿を見せること、これが先輩の役割です

 

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「自分が出す本を読者は待っている」と信じていた

 

深井 スコラから独立されて、2007年に会社を創業されましたが、社名の「チェンジ・アーティスト」というのはどういう意味ですか。荻阪さん自身のこと?

 

荻阪 社名は、1年間、登記を遅らせて納得行くまで、考え抜きました。「チェンジ・アーティスト」は、私自身のめざす姿でもあり、実践のビジョンを描き、語り、行動に変えて、助け合って「仕事の作品」を、創る人たちの姿です。新著『リーダーの言葉が届かない10の理由』で、一挙公開した「バインディング・アプローチ」を実践して、ビジョンを実現する「仕事の作品」を創れるリーダーが、10万人以上になれば、日本を変えることができる。その志を定めて「チェンジ・アーティスト」という言葉を定義して、社名にしました。

 

深井 いよいよ本を書くわけですが。書籍化までの道のりは大変でしたね。

 

荻阪 もう一人の師匠であり、出身母校である多摩大学大学院の指導教授で、私が最も学ばせて頂いた、恩師の田坂広志教授から「若書きはするな」という学びの教訓がありました。「本を書くなら、若書きすべきではない。自分の中に、価値あるものを蓄え続け、ある年齢に達し、それが外に溢れるようになった時、自然に本は生まれている」と教えて頂きました。

私の場合は、結果的に、47歳の時に、単独の処女作を出しました。それが2011年に、ダイヤモンド社から上梓・出版させて頂いた 『結束力の強化書 』です。当時、20年間にわたる組織変革コンサルティングの仕事で、1万人以上のリーダーを支援していて、自分の方法論で助かる人がいるとわかってきました。

このタイミングで「変革の作品」として「書籍」を通じて「独自の方法論」を表現できれば、私と一生会わなくても、読者が立ち上がり、本を抱えて、行動を起こしてくれるんじゃないかと。読者と著者の邂逅です。待ってくれている読者のために、何としても書くぞと30歳の時から決めて、人にも言っていました。

「声にならない声を感じているんだ、私の本を待っている読者がいる」とか(笑)。まわりは「こいつおかしいんじゃないか」と思っていたかもしれませんが、人に言いながら、実は自分に宣言していた。言葉に変えることで、退路を断てるでしょう。もうやるしかない。これは変革のための技の一つです。世に役立つ本を、上梓すると決めてから「17年間の歳月」と向き合いました。長い道程でしたが、悔いはありません。

 

深井 最初の本『結束力の強化書』を出す前に「自分の本をつくる方法」の講義に参加されて、ぼくや他の同期メンバーとも「出版戦略」のやりとりがありました。結果的に、良い本、読者のためになる本ができてよかったですよね。当時、団結力と結束力のちがいは何か、とか夜な夜な話をしたのを覚えています。

 

荻阪  ありがとうございます。まさに不屈の挑戦でした。まわりの人に助けられて形になった。これまでの人生で、出会った人たちのおかげでようやくたどり着いた感じでした。ダイヤモンド社の編集者との出会いが大きかったです。そういう人に出会える自分になれるかも勝負でした。

その編集者には知人の紹介でお会いすることになりました。まず出版社の企画会議が厳しい。企画を通るまでは私の方から何度もダイヤモンド社に通い、編集者と出版企画の打ち合わせを重ねました。著者になるまでは、どれだけ忙しくても、版元になって頂けるダイヤモンド社へ、自らが足を運ばせて頂くということを決めました。それが、ご縁あった編集者の方への心配りと感じていたからです。出版を果たした2011年は、震災の年で、あの瞬間もダイヤモンド社の会議室にいたんですが、地震で書棚から大量のドラッカー本が降ってきましたよ。

 

深井 「どうすればさらに良くなるか」と編集者に尋ねてそれを確実に企画に反映させる。それを粘り強く練り続けられました。そのこだわりと粘りが荻阪さんの勝因だと感じます。

 

荻阪  ひたすら「難しいことをいかにわかりやすくするか」が挑戦で、くじけそうになったときもありました。けれど、編集者から「この本は、日本で、荻阪さんにしか書けない企画ですから」と言われたのが支えになりました。

「これでいきましょう」と言われるまで夏、秋、冬の半年間、12回に渡り「出版企画書」を書き換えました。暮れに「この企画書で行きましょう」とやっと編集者からGOサインが出た時は嬉しかったですね。その時、「本当に、この企画書で、ダイヤモンド社の厳しい企画会議を突破できますか?」と尋ねると、「荻阪さん、これだけ企画を詰めて、やったんだから、文句を言える人は誰もいませんよ。」と、言って頂きました。そこまで付き合ってくれた編集者には感謝しかないですね。出版は投資ビジネスですからね。著者に賭けている編集者に勝ちを取らせなければならない。ようやく震災の年に最初の本「結束力の強化書」を上梓・出版しました。

 

深井  本を出して、周囲や自分はどう変わりましたか?

 

荻阪  著作は世に出たら、もう内容は変えられないものです。書いたことは形になってしまうのだから、著者として「責任をもって生きる」と思うようになりました。責任をもって生き、語り、問い続け、人を助け続ける。

しばらく前から、ビジネス書の著者で、本を自分のビジネスに結び付けていくっていう流れがありますが、それだけでは、いい本が出ないように思います。著者としては、命をすり減らして書いていても、読者に届くのか、本当に役立つのか、その問いを立て続けて、書き続けなければいけない。私は、まだまだ道半ば。修業中の身です。

 

深井 変えられないのが紙の本。だからこそ著者は考え抜き、今後10年も100年も変わらない真理を綴っていかなければなりませんね。「ちょっと思いつきで言ってみました」レベルの言葉ではわざわざ紙で刷る必要がない。

興味深かったのは、すでに早くから20代で組織変革コンサルタントが天職だとわかっていたのに、ひとっ飛びでそこに行こうとしなかったところです。まわり道に思う人もいそうですが、じっくりと基礎を固めてから、満を持して独立された。「コンサルタントは元手もいらないし、簡単に始められるのでは?」と考える独立志向の若者も多いですが、人を助ける仕事は人間力がないとできないものです。今日は、ありがとうございました!(了)

 

 

 

 

構成と文 :   モトカワマリコ/ オーディナリー編集部
取材日 :  2015.7.9



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編集部

編集部

オーディナリー編集部の中の人。わたしたちオーディナリーは「書く人が自由に生きるための道具箱」がコンセプトのエッセイマガジンであり、小さな出版社。個の時代を自分らしくサヴァイブするための日々のヒント、ほんとうのストーリーをお届け。国内外の市井に暮らすクリエイター、専門家、表現者など30名以上の書き手がつづる、それぞれの実体験からつむぎだした発見のことばの数々は、どれもささやかだけど役に立つことばかりです。