面倒な映画帖26「光の墓」 亡霊は忘れたころにやってくる…

面倒な映画帖 誰かと話している時に、相手の顔にかつての友人の表情が浮かぶのだ。顔は似ていない、でも刹那彼女は男の顔を乗っ取って現れ、独特な微笑をうかべ、消える。

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モトカワマリコの面倒な映画帖 とは 

映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

 面倒な映画帖26「光の墓」
亡霊は忘れたころにやってくる…

バンコクにはもう長いこと行っていない。

一番古い記憶は、誰かに会ったらニッコリして「触っていいか」と、何かもらったら「コップ食うか」と言う、と教えられて、ワタリガニのカレーやマナガツオの揚げ物で有名なバンコクのレストラン「孫文」に行ったこと。そこで何が食べたいかと聞かれて「ガイヤン」と応えたら、店の主人が「うちにはないのよ、でも近所の屋台で買ってきてあげるわね。」天下の孫文で屋台の焼き鳥を所望するという申訳ないことをしてしまったこと。言って見れば浅草の「今半」で屋台の焼き鳥が食べたいという暴挙に等しい。

陸続きで複数の国が接している。島国の人間の感覚では理解できないシビアな面もあることだろう。でも、子どもの私が接したタイの方々は誇り高く、情に厚く、気持ちに余裕のあるやさしい人たちだった。

普通の生活に織り込まれた彼岸

アピチャッポン・ウィーラセタクンの短編や長編「光の墓」まわりの数本には、そんなバンコクの人たちと同じような雰囲気、自分とそう変わりない21世紀の常温のアジア人が生きている。アピチャッポン・ウィーラセタクン、10回くらい声に出して言わないと覚えられない。タイの言葉は日本語とも中国語とも違う系統で、文字も違うし、文法などまるでわからない。ただ耳慣れると、特に女性のタイ語は澄んだ楽器の音色のような、伝統のキムやラナートやコンウォンの音にも似て、繊細で優美だと思う。いつまでも聞いていたい音楽のような言語だ。

タイはアジアきっての映画大国で、いろんなジャンルの映画がある。アート映画よりは、コメディとか恋愛映画などのジャンル映画の印象があるが、コンテンポラリーのアーティストとして認識していた監督の作品は、エスニックという強みをもちながら、21世紀に生きる人の普遍的なテーマを扱う。ポップでライトな音楽遣いが、全体の暗めトーンとずらしてあり祝祭的で面白い。両親が医師で留学経験がある。生まれ故郷のタイ北東部の伝説と自分が育った病院環境をテーマに伝統的な感覚と西洋的な合理主義、病院では身近な現象であり、精霊の領域との境界でもある死、そんなテーマを映像で表現する新世代のグローバルに活躍している。

舞台はタイ北部、古代王朝やら霊が出てくると思うと、さぞスピリチュアルなんだろうなと思うが、描かれる人間関係はインターネットもスマホもある21世紀の濃度で淡々としている。近くにいてもつながっていないような、血縁も地縁もあるはずが、そうかどうかも曖昧なような。

生きている人はお互いに生きているからこそ移ろう。親子だろうが、恋人だろうが、生き物が共存するためには必要な距離があり、変わり続け、動き続ける。でも精霊になった死んだ人と生きている人間の関係は時間的に閉じている分安定しているともいえる。この映画の世界では、死んだことを忘れてしまったように、この世のものではない人がその辺に座っていたりする。古代王朝の王女たちが普通に説明もなくいきなりキッチンでお茶を飲んだりする不思議なあいまいさ。生死の境界がすぐそこに存在し、いとも簡単に死者たちは垣根を超えてやってくる。起きているのか眠っているのか、誰かの夢を映画として見ているのか、だんだんぼんやりした気持ちになってくるのは、この監督の他の作品にも共通するマジカルな催眠作用のようなものだ。

精霊に呼応して、ドラマには度々僧侶が出てくるのもひっかかる。僧侶は精霊の存在をどう思っているのだろう。 寺も神社も教会もモスクもあり、神羅万象に魂があるという感覚は日本人とつながっているんだろうか。タイに仏教が入ってくる前から、タイ北東部の森には死んだ人や動物の魂が精霊になって留まっていたんだろうか。とはいえ人々が僧侶に払う敬意は大きく、ここの人たちには信仰があるということが目に見えてわかる。そして目に見えないもの、非合理な事ごとの存在がますますよくあることのような気がしてくる。

とりかえしのつかないことをした、らしい。

音信不通になるのに任せ彼女とそのままなのは、きっと取返しがつかないことをしたからだ。何をしたのかわからないのだが、おそらく私は何かして彼女の怒りを買ったのだと思う。SNSで友達申請を無視されるほどのこと。もっとも、彼女は長い付き合いの中でずっと私がしくじって「友情に値しなくなる」のを待っていたふしがある。「こんなに愚かな人とは縁を切らなくては危険」そう思うきっかけを待ち望んでいた、たとえ無意識でも。ついにその時がきて、彼女のお友達テストに落第した、私にはわからないうちに。だから蝶を宙に放つように開放し、傷口に土をかけ、心の奥に埋葬してしまった。

取り戻す方法はあった。とにかく謝るとか、誰かにとりなしを頼むとかすればうわべの関係だけは保つことはできたように思える。でも何度かそういう修羅場を経験してきて、もう仮初の友好関係はやめにしようと思った。彼女は美しく賢く、なにもかもハイスペックだった。元々無理だったのだ。友達にはつり合いというものがある。それでも友情のために私のレベルに引き上げようとしてくれていたのだろうが、彼女はついにあきらめたのだ。

そんなことで何年もたった最近、彼女の亡霊が現れるようになった。

その亡霊がどういう形で現れるかというと、こんなふうだ。誰かと話している時に、相手の顔にかつての友人の表情が浮かぶのだ。顔は似ていない、でも刹那彼女は男の顔を乗っ取って現れ、独特な微笑をうかべ、消える。笑っているのに、眉根を寄せて、上唇を四角くもちあげる特有の表情だ。それまで豪快に笑い、冗談を言っていた恰幅のいい男性の友人が、ほんの瞬間そういう暗澹たる笑みを浮かべる。能面でいうなら在原業平の顔を模したというあれ、中将のような生霊の顔。

ある時は、電車で席を譲った老女の「すみませんねえ」という声が彼女のようなトーンだった気がする。仕事で知り合った若い女性の白い手が触れた時に一瞬彼女の気配を感じる。誰かとすれ違う一瞬に、同じ匂いがする、ブルガリのプールオム、主香料はダージリン。気のせい、偶然、サイン、それとも狂気の予兆?

それは前に窓の外を通りかかる親子と目があって、あまりにじっと見るのでなんだろうと思った。あのうっかりした感覚と似ている。大学の古い校舎の3階だから、そんなことはあるはずがない。その時のあの半分眠っているようなうっかりした感覚、生霊を見た気がしたり、3階を親子が通ったり、現実のような夢だったような、ぼんやりした体験、アピチャッポン・ウィーラセタクンの映画は、そんな醒めたまま見る夢にすごく近い。

例えば森から死んだ息子が精霊になって現れる。赤く光る眼をサーチライトのように光らせて戻ってくる。死んだ人がすぐとなりに座っている。何かを訴えるわけでもなく、ただ淡々と出現する。生きているか死んだ人なのか、説明もないから、良く分からない。後でよく考えるとあれは死者だったかもしれないなあと思うような感じだ。それが自然なことのように思える酩酊したようなメコン・ジャングルの霧と光、深い影、深い闇、気持ちがそこに吸い込まれていく。東京には潜む森が少ないから、人の精は人に憑りつくのだろうか。インフルエンザのように人を介して、目的の相手にたどり着き、存在を誇示する。

渋谷のスクランブルくらいのカオスになら、生物学的に死んだ人が数人まじっていることもありそうに思える。さいたまトリエンナーレでは新作を作って上映していた。さいたまの町の喧騒を素材に使っているのだそうだ。ならばもう少し本気にならないかな、日本はどんな場所なのか、彼に教えてほしい。タイの映像作家が何を撮るのか、誰かオファーをしてみてくれないかな。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在はフードを中心としたウェブサイトの企画・編集の傍ら、ORDINARYに参加し、インタビューサイト「タコショウカイ」ではスタートアップの人を紹介するメディアも運営している。趣味は料理と映画と声楽。二児の母。