ずっとロンドンに滞在していた。表向きは今後の研究や仕事に関するリサーチのため。でも実のところ、その本当の目的は「誕生日に日本にいたくなかったから」。毎年6月が来ると、誕生日という一年で一番憂鬱な日がやってくる。40あたりに到達すると
誕生日は日本を脱出したくなる – 葛飾北斎から学んだ「年齢の呪縛」を解く3つのヒント –
吾郷智子 ( 元高校教師のポジティブ心理学研究家 )
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自由に生きるために
自分だけのものさしで、己の成長を測ろう
誕生日という一年で一番憂鬱な日
6月のある日、ロンドンの大英博物館に「北斎展」を観に行った。
5月下旬から6月にかけ、わたしはずっとロンドンに滞在していた。表向きは今後の研究や仕事に関するリサーチのため。でも実のところ、その本当の目的は、
「誕生日に日本にいたくなかったから」。
毎年6月が来ると、誕生日という一年で一番憂鬱な日がやってくる。憂鬱というより、呪われた気分になると言ったほうがぴったりくる。35を過ぎ、そんなつもりもないのにうっかり40あたりに到達すると、その「呪い」は、ますますひどくなる。どうも日本にいると、その呪いはさらに濃縮し、容赦なくわたしに襲いかかる。
「年齢」は、しばしばその人を測る「ものさし」になる。
個人的な感覚ではあるではあるものの、日本は年齢で人を測る傾向が、比較的強いような気がしている。その人がどんな生活を送って、どんな価値観を持って、どんなことに興味があるか、要はその人の「中身」を、年齢という「ものさし」で推し測る。
同時に、そのものさしは、時に人生の「到達度」も規定する。
「30までには結婚(していて当然)」
「40歳頃には、安定した仕事につき、家庭も持ち、貯金もいくらかあって(当然)」
ベタな例で言えばこんな感じに。
「何歳ならこうであるべき」「こうであるはず」という言葉には、望ましきライフステージという幻想がぶら下がっている。
これだけ、個人で生き方が多様化している時代にも、この幻想の魔力はけっこうしぶとい。わたしには関係ないと言いつつ、どこかひどく息苦しい。それはたぶん、そんな世間の「ものさし」を、実は人一倍気にしているから。
母によると、わたしは親の言うことをきかず「勝手に自分の思い通りに生きている」のだという。確かに、わたしはこれまで、長く勤めた教師の仕事をいきなり辞めてニューヨークへ行ってしまったり、いくつも仕事を転々としたり、俗に言う「アラフォー」だというのに、結婚もせず、はたまた真面目に婚活するでもなく、いきなりロンドンに心理学を勉強に行ってしまったりと、定年まで高校教師の仕事を勤め上げた母には、わたしの行動が、むこうみずで勝手きままに見えるらしい。
けれど実際は、自由気ままなんかじゃ全然なかった。思いのままに生きているようで、内心はずっと荒れ狂う大波と闘っていた。
「もっと前進したい、もっと自分の可能性を試したい、やりたいことを思い切り表現したい。もっと自分を活かしたい。」
そう思う一方、世間から賞賛される生き方、誰からも受け入れられる生き方、いわばあるべき人生という「ものさし」で自分自身を測っていた。
「いい年して、まだマトモな仕事もしていない。」
「いい年して、まだ自分探し。」
「いい年して、家庭も持っていない。」
「いい年して、まだ夢みたいなことばかり言って。」
そんな声に反発しつつ、目盛りに応じた生き方にほど遠い自分を、ほとんど無意識にダメ出しする。
ある時は、「もう遅い」「よくその年で… 」と言われるのが怖くて、ついつい、自分の夢や願望を悟られないように、蓋をしてしまう自分もいる。
「ものさし」なんて気にせず、やりたいことに向かって突き抜けてゆきたいと思いつつ、わたしはいまだ足踏みしたまま。心理学の知識や日々の経験から多くを学び、昔に比べ、はるかにうまく自分の気持ちとうまくつきあえるようにはなったものの、長年わたしをしばっている枷(かせ)は、いまだしつこくわたしの足に絡まっている。
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年を重ねることは、下り坂に向かうことではない
芸を深化させ、本物になっていくことだ
そんな中迎えた今年の誕生日、わたしにとっての「呪われた日」に、わたしは「他人のものさし」なんてものから完璧に自由な人物に出会った。
それが、葛飾北斎だった。
展示に足を踏み入れ、自分は北斎についてほとんど何も知らなかったことに気づいた。江戸時代の浮世絵師であること、「富嶽三十六景」の作者であること、ただそれだけで、これまでわたしは北斎について何かを知っているつもりになっていた。
北斎は、90歳まで生きたという。世界中で知られる傑作、「神奈川沖波裏」を含む「富嶽三十六景」シリーズは、北斎が70歳を越えてからだということも、それ以降、80代、
90歳と亡くなる直前まで絵筆を握り、創作に打ち込んだということを、恥ずかしながらわたしは今回始めて知った。
葛飾北斎は、江戸時代後期1760年に生まれた。6歳から写生を始め、その後20歳で浮世絵の修行を始め、30代では役者絵、40代で小説の挿絵、50代では「北斎漫画」の制作等にうちこみ、その頃には絵師としての地位は不動のものだったという。地位も人気も得た北斎は、しかしそこで満足する絵師ではなかった。
「“Hokusai – Beyond the Great Wave” 北斎、大波の向こうへ」と題した大英博物館での北斎展は、「大波」のその先、「富嶽三十六景」シリーズが制作された以降、70代から最晩年までの北斎の作品とその人生に光をあてている。そのタイトル通り、北斎はあらゆる点で超越していた。
その1つ、北斎は世間で考える年齢という枠を飛び越えていた。というより、まったくオリジナルに自身の人生の時間を捉えていた。おもしろいことに、北斎は、「年を重ねると、下り坂に向かう」とは一切考えなかった。むしろ、齢を重ねれば重ねる程、自身の芸術は深化し、自分は「本物の」絵師になることができる、と北斎は本気で考えていた。
北斎が75歳の頃に発表された「富嶽百景」の巻末に北斎のこんな言葉が記されている。
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「己 六才より物の形状を写すの癖ありて半百のころよりしばしば画図を顕すといへども七十年前画く所は取るに足るものなし」
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自分は6才から物の形を写生する癖があって、50才(半百)の頃から本格的に数々の作品を発表してきたが、70才より前には取るに足るようなものはなかった。(永田生慈著「葛飾北斎」p.189より抜粋)
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北斎の生きた、江戸時代後期、人々の平均寿命はせいぜい50代かそこら。そこから考えても北斎は当時としては仙人級なご長寿と見なされていただろう。けれど北斎は、おそらくそんな世間的な見方を一切寄せ付けない。北斎はあくまで自身の芸術の深化を「ものさし」にして自分の年齢を数えていたように見える。
その感覚はどこか筋トレ的だ。トレーニングを重ねれば重ねるほど、以前は10回しか持ち上げられなかったダンベルを今は15回、その次は20回、という具合に、北斎は努力の成果記録のようなものとして自分の年を捉えていたのかもしれない。
ちなみに先の北斎の言葉は、次のように続く。
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「七十三才にして稍禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟氏得たり故に八十六才にしては益々進み九十才にして猶其奥以意を極め一百歳にして正に神妙ならん歟百有十歳にしえは一点一格にして生けるがごとくならん願わくは長寿の君子予が言の妄ならざるを見たまふべし」
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73才になって禽獣虫魚の骨格、草木との出生をいくらか悟り得た。であるから(努力をつづければ)、86才になればますます進み、90才でその奥義を極め、100才になればまさに神妙の域になるのではないか。百何十歳になれば、一点一角が生きているようになることだろう。願わくば、長寿をつかさどる聖人(神)、私の言葉が偽りでないことを見ていてください。(上述より抜粋)
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芸への情熱を燃やし、技を磨き続ける
北斎はまた、その絵のスタイルも超越していた。彼は若い頃から様々なジャンルの絵、画法に挑戦したという。びっくりしたのは、北斎はなんと、西洋画の技法をとりいれた、「これが北斎?」というような西洋風の作品も残していた。1つのジャンルにとらわれることなく、年代ごとに取り組む課題を変え、「浮世絵」を越え、幅広い作品に取り組んだ。
晩年まで衰えることのない北斎の絵に対する情熱にも驚嘆した。常に自身の絵の革新を求め、70代で風景版画の分野の先駆者となり、さらに80代では、肉筆画の創作に魂を注ぎ込んだ。「90歳からは、また画風を改め、百歳になったあとは、さらに改革を進める」などという言葉を聞くと、なんだか自分の生死も飛び越えたところで、生きている人なんじゃないかという気さえしてくる。
展示の最後のテーマは「神の領域へ」。そこでは北斎の最晩年の肉筆画の数々が、それぞれ確固とした光を放ち、薄暗がりの中はっきりとその姿を顕わしていた。北斎は亡くなる同じ年にも、少なくない数の作品を残している。その中の1つ、「雨中の虎図」は死が直後に迫っているとは思えない活力と、長い年月の中で吸収し、磨き抜かれた技のすべてが、余すところなく具現化していた。
こころが真に求めるところに向かい、自身の才と可能性を徹底して磨き、存分に自己を表現して与えられた生を生ききる。結果、「自己」さえ超越し、「大波」を遥か越えた高みへと到達してゆく。
(もしかすると、わたしはこんな生き方に憧れているんじゃないだろうか? )
北斎の最後の作品たちに向かい、身の程知らずとわかりつつふとそんな考えが頭をよぎった。そしてわたしは奇妙に明るい気分で、展示室を後にした。
大英博物館を後にし、そこからほど近いブックカフェで、( ”これぞ本物の” と能書きされた)アールグレイとヴィクトリアスポンジというケーキを注文した。ちょっと誕生日のお祝いでも、してみてみようかと。
年齢という「ものさし」を気にするとき、私は「外からの目」にギュウギュウに縛られていた。「こうあるべき自分」、「こう見えているであろう自分」、「こう見えていたい自分」。自由に生きたいと思いつつ、囚われ続けた「他人のものさし」。それは他人の目に囚われている自分の自意識そのもの。これまで今ひとつ乗り越えられなかった「大波」は、わたしの中にあったのだ。
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年齢にとらわれないための3つのヒント
とはいえ、その波を越えるにはどうすればよいのか?
北斎はそのヒントも与えてくれた。
1. 好きなことに徹底的に焦点を合わせる
普段から、できるだけ自分が好きなこと、前向きになれること、自分の心が芯から喜ぶことに、とにかく徹底的に、意図的に心の焦点を当てる。自分の好きなこと、やりたいことで、毎日を忙しくすることで「他人の目」や、ダメな自意識が入り込む隙を与えないこと。
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2. 自分に新しいラベルをつける
自分にラベルをつける=自分に暗示をかける。例えば、「わたしは自由に生きる人生の冒険者」なんて感じで、自分の気持ちが上がるようなラベルをつけ、自分で自分のありかたを決め、行動していく。
北斎は、生涯に30ものペンネームをもっていたという。例えば、還暦を迎えた際は、「もう一度一から始めるという」意味で「為一」、他にも「絵を描くの大好き!な老人」という意味の「画狂人」など。こうしたペンネームの数々は、単なる芸名というよりは、ほとんど自分自身に対する「ラベル」かあるいはキャッチコピーのように見える。もしかすると北斎は、折りにふれて名前を変えることで、自らを新たに定義し直し、自身を鼓舞するための暗示をかけようとしたのかもしれない。
3.「何を残したいか?」をものさしにする
普段はつい忘れがちになるが、生は有限だ。「自分の人生で、何を残したいか、何が一番大切なのか」という問いは、百歳を超えて生きたいと願った北斎は、同時に自分の「最後」を常に心の隅にはっきりと刻んでいたように思う。だからこそ限りのある肉体に向かい、自分を鼓舞し、自ら求める究極の画への道を邁進していったのではないか。
「自分は人生で何を残したいか? 何を成し遂げたいか?」で人生を測ると、人生の見え方は次元を越えて変化する。「もう遅い」とか「いい年で」なんていう言葉は、そこでは何の意味も持たない。そこにあるのは、純粋に自分自身と自分を越えた「何か」。
本当にやりたいことがあるなら、何かを残したい、生を全うしたいと望むなら、他人のものさしなんかに囚われている暇はない。
そのことを北斎は、はっきりとわたしに教えてくれた。
“Beyond the Great Wave” 「大波を越え、その向こうへ」
甘いケーキのかけらとともに、Hokusai がじわり、私の中にしみ込んできた。
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PHOTO:Georges Nijs 及び本人