面倒な映画帖44話 圧倒的な異質さは古くならない『ラ・ジュテ』/モトカワマリコ

面倒な映画帖デジタルの力で、4万の断片であることをやめ、なめらかに動く「ラ・ジュテ」が何を語るのか、知りたいような知りたくないような。世界にはどんな先端技術でも補えない崇高な欠落というものがある、たぶん。

< 連載 > モトカワマリコの面倒な映画帖 とは 

映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

. .

. .
面倒な映画帖44「ラ・ジュテ」

圧倒的な異質さは古くならない

51D1qIenkjL

 

舞台は近未来のようである、空港の送迎台で、気になる女性を見た主人公の少年は、同時に男性が殺される場面を見てしまい、強迫的に脳裏に焼き付いて離れなくなる。その後世界は第三次世界大戦に入り、ほぼ壊滅、少年は混乱の中、大人になる。遺された人類は生き残るために時間旅行を試みることになり、弱者が実験台になる中、少年が選ばれ、過去に旅をする。そしてかつて空港で見た女性と出会い、恋に落ちるが・・・というSF作品。送迎台に始まり送迎台で終わる、30分の送迎台映画。(LA JETEE=送迎台)

しかし、ここまで最低の結末を他に知らない。「奈落の底」とは、このラストそのものだ。最初のシーンから30分後、観客は最初に観た送迎台に連れ戻され、完璧な絶望に迎えられる。サルトルの弟子だったという世代の監督のクリス・マルケルはデジタル映像に関心が高かった。あと数年長く生きていたら、どんな映画を撮っただろう。50年前の作品だが、ここまで圧倒的に異質だと比較対象がない、古くなりようがない、映画の表現力は映像技術の問題だけではなく、作家のビジョンなのだと思う。 この映画がいつまでも映画関係者の口にのぼるのは、物語性だけではなく、映画とはなにか、という根本問題に取り組んでいるからなのではないだろうか。映画が成立する最低条件は、画像とプロット=時間の進行。この映画はそれだけ、美しい風景も人間も心を打つエピソードもなく、感情のないナレーションで話の道筋が駅のアナウンスのように淡々と告げられるだけ。ミニマムな手法、たった30分足らず、それでもあまりにも多くの映画人に存在を焼き付けた。

映画だが動かない。スチールの連写で構成されている。1枚ほぼ1秒、つまり1分で60種類、30分なら1800種類の静止画を連続スライドショーされるということだ。静止画と静止画が飛び石のように物語をつないでいく。30分というのはさして長くもないが、動画であれば、狙い以外の過程も映っていてこそ動くので、あまり意味を背負いこまない「絵」もある。でも、この場合は、丹念に構成された絵を点滅させながら24回ずつ、1800種類見せられ、合計で静止画4万枚以上、緊張を強いられる硬質な写真を見つめていることになる。

「ラ・ジュテ」が話題になるたびに、脳裏には、他の映画よりもくっきりと絵が浮かぶ。一枚の絵を24回も点けたり消したりして見ているから、脳にはそれだけ強く焼き付いているのだろう。一人の少年に強迫的に焼き付いた記憶についての映画だから、観客にも同じような体験をさせようと、ご親切にこういう手法で撮ったのかもしれない。ヌーヴェルバーグの問題児、クリス・マルケルの考えは計り知れないが。
     

 映画とは時間=要するにフィルムの長さ

映画とは何か、かつて私に映画製作を教えてくれた先生は、3秒にこだわっていた。 「キャメラが3秒同じモチーフを撮影したら、そのモチーフは特別な意味を持つんだよ。3秒ってことは、同じ絵を72枚も見せられているってことになるわけだから、撮影者がそれだけの枚数を費やして観ているモノを含めて作品を考えてしまう。映画の文脈は、時間なんだ。映画は時間の再構築だから、単純に長時間映っているものに重い意味がのってくることになる。最終的な作品の表現は、撮影されたフィルムのコマ数の操作といってもいいくらいだ。」

台本が赤ずきんでも、オオカミにコマ数を費やしたら、映画はオオカミについて語ってしまうということだ。映画は画面が語る文脈があり、プロットがどういう流れになっていようが、映像が語る部分が大きくなる。私は映画作りに挑戦していたが、そもそもが物書きなので、そういう意見が新鮮だった。お話しに合うように絵を作るのかと思っていたが、そうじゃない、映画は撮れてしまうもの。監督は意図したように努力するけれど、成功するかどうかはわからないし、意図通りにできたとしても、映画として成功だったのかどうかわからない。作品を100%最初の意図通りに撮れる監督は多分いない。少しでも予定に近づくために「編集」作業がある。シーンとシーンをなんとか文脈にのるように切り貼りして、物語をつなぎ合わせる。その上で「いい映画」を撮る監督は、たまたま映った偶然を自分の文脈に取り込める柔軟で動的な人間なのだ。映画はそれ自体がイキモノのようなもので、他の芸術と同じように、超人的な力が確実に作用する。映画の神様がほほ笑む、突然差し込む光であれ、ぴたりとやむ春の嵐であれ、カメラの前を優雅に横ぎる一頭のクロアゲハであれ。

「ラ・ジュテ」が真に実験的な理由は、そういった偶発性を極力排除していることにもある。決め込んだ静止画を並列して語れば、動画の撮影で入り込む不要な過程を排除できる。最初の絵コンテにかなり近い最短距離で語り切る作品にしあがる。映画的な編集がかかっていない、だからこそ30分、息をつく暇がない。映画の神様もこの映画に手を貸す必要を感じていなかったようだ。

映画学校で得たもう一つの発見は、物質だということだ。今やデジタル映像はフィルムがない。映画を「送信」できるようになって久しく、なおさら現象に近くなった。でも、かつてフィルム映画の時代、映画は「物」だった。撮った映画のフィルムをカバンに入れて上映会場に運ぶとき、自分の映画が「物」だということに感動を禁じえなかった。リールに巻かれたフィルムはそれだけでは意味がない。映写機を通して、映画という現象に持ち込まない限り、何かが映っている可能性にすぎない。巻かれたフィルムはまるで、誰にも知られずに森の奥で先狂う花園のようだと思った。

どんな業界にもマニアはいるもので、そういえば、映画記者だった時代に、親しい配給者の友人に冗談半分「映写室に近寄るなよ」と言われたことがあった。演目は映像が美しいことで知られる中国の監督の作品の試写だった。あまりにも美しいので、数回試写に行っていた。4回目、私があまりにも執着していたので、密かに「35ミリのフィルムカッター」を隠し持っているじゃないかと警戒されたのだ。というのも、それより数年前、映像美で知られるさるヨーロッパの名画のリールからフィルムを切り取って持ち去った盗難事件があったらしい。動画はフィルムを連ねて美しければ十分なのだが、1コマでも価値があるとしたら、それは相当な称賛だった。

そういう意味では、「ラ・ジュテ」はかなり「物」だ。映画なのだが4万枚超の紙焼き写真があれば、出演した俳優が一人も生きていなくても、映画としてほぼ再生できる。この映画の再現性の高さは今のデジタル映画とはかけ離れている。しかし、デジタル技術は「物」ではないという方向性で飛躍的な展開も想定できる。例えば、この映画を構成する4万枚の静止写真をもとに間の絵を自動的につないで「リアルな動画」にすることだってできるだろう。デジタルの力で、4万の断片であることをやめ、なめらかに動く「ラ・ジュテ」が何を語るのか、知りたいような知りたくないような。できるからといってなんでも補えばいいものではない、世界にはどんな技術でも補えない形がある、不完全さでしか表現しえない形も、崇高な欠落というものもある・・・はずだ。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在は、ウェブサイト、月刊誌プレジデントウーマンでライターとして、文化放送で朝のニュース番組の構成作家としても活動。趣味は映画と声楽。二児の母。