面倒な映画帖30「メリー・ポピンズ」あたしがマゾなのは白い粉のせい / モトカワマリコ

面倒な映画帖 しかしながら、社会は行動するものに微笑む。弟の命がけの行動は、結局私を死ぬほどうらやましがらせる結果を生む。それから姉が病院に行くたびに、彼は自分用の瓶に入った「お薬」をもらえることになったのだ。

< 連載 >
モトカワマリコの面倒な映画帖 とは 

映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

 面倒な映画帖30「メリー・ポピンズ」

あたしがマゾなのは白い粉のせい

ディズニーが当時の技術の粋を集めて制作したミュージカル映画。ジュリー・アンドリュースの当たり役。アメリカのミュージカルはなんだかんだいって映画の華だと思う。

ディズニーが当時の技術の粋を集めて制作したミュージカル映画。ジュリー・アンドリュースの当たり役。アメリカのミュージカルはなんだかんだいって映画の華だと思う。

あの人冬場はあんまり見かけないよね・・・中学の半ばくらいまで学友はそんな認識だったかもしれない。2月も後半になるとなぜか元気になるのだが、冬の始まりは病気がちで、日に何回も茶色のような紫色のような激マズの水薬を飲むのだ。

「それはあの子たちが病気じゃないからよ。」7歳の私は文句を言いたくなる。ディズニー映画の「メリー・ポピンズ」は大好きだけれど、あの薬の歌はいただけない。原作者のトラヴァースも歌詞にクレームをつけていたが同感だ(もっともその辺のいきさつを描いた映画「ディズニーの約束」の彼女は少し変人すぎたとは思うけれど)。原作の場合「からだにいい試練」自体が現実をすり抜けている。メリー・ポピンズに寝る前に飲まされる薬は少しも苦くなく、おいしい味なのだから、健康という成果のための苦い現実がそもそも帳消しになっている。ディズニーの歌にある「スプーン一杯の砂糖があれば苦い薬も楽勝」というのとは違う。「苦い現実」そのものがない。薬を飲むという苦行が幸福になるために必要という概念自体を否定している、もっと過激な思想なのだ。幸福になるのに、いったいなんで犠牲を払わなくてはならない、なんで幸福だけじゃだめなの?だまされているんじゃない?映画の歌のスプーンの中には砂糖もあるが、苦い現実もあり続ける。トラヴァースよりもずっとあのアメリカ人は、あの歌を作ったユダヤ系移民の作詞家は悲観主義でシビアなのである。大体!砂糖なんて何の役にも立たない。だって私が飲まなくてはいけない薬は、茶色と紫の間の色をしていて、底に白い粉がたまっていて、ドロリと甘いからこそ世界一まずいのだから。

 

白い粉という現実に負け続ける

かかりつけの医院で胸の音を聞いた先生は「お薬を出そうね」という。どうか今回は底に白い粉がたまっていませんように・・・でも小さな薬瓶の底にはいつものように「こうせいぶっしつ」がたっぷり。よく振って、まんべんなく白濁させてから飲むように、毎回先生は振って見せて、間違いなく白くドロリと濁るのを確認する。その薬は恐ろしく苦い。大人は自分で飲むわけじゃないから、浅はかな思いやりで甘いシロップをたっぷり入れる。苦い味をごまかそうとしてシロップの甘さも極限まで高められ、ビンの中は激苦の粉と極甘のシロップがせめぎあい、味覚の限界を全方向的に凌駕する極限的な味になっているのだ。しかも熱が高ければ、量も多い。たぶん一回に50mlは超えている。「水薬はやめて大人のお薬にしてください」と言えばよかったが、愚かで交渉力もないから、この苦行を日に4回。

メリー・ポピンズが東風に乗ってやってきて歌う「スプーン一杯のお砂糖で薬なんて楽勝♪」名曲だけど、あんなの嘘。お砂糖のせいで余計困難になっている「お薬」をいやいや飲みながら、ぶつぶつ文句を言う。もしかしたらメリー・ポピンズがうちにもやってきて、薬を何かおいしい味に変えてくれないかしら。でももちろんやってこないし、どんなにまずくても、飲まないと咳も熱も収まらない、大人の言うとおりにしないと、あとでもっと苦しい目にあうかもしれない。この状況を打開するために、自分では何もすることができない。夢なんて持っても現実は揺るがずに薬瓶の底にたまっていて、どうしても6時間おきに甘苦いあれを飲まなくてはならないのだ。少しはましな人生のために、その数倍の代償を先に支払う、だから不遇な目にあっても、延々と成果をまって我慢しつづけるマゾ人生が大展開する。

年の離れた弟は、姉の病気を羨んでいた。丈夫で元気いっぱいの彼は、自分も「お薬」を飲んだり、熱を測ったりしたかったのだろう。確かに病気の子どもは手がかかるし、母にしたらふつうの日常生活とは別の病気の時間を生きている子どもがいるのは、大変だったろうと思う。心配してもらったり、ガラスの水差しに氷水を入れてもらったり、氷嚢や瓶入りのヨーグルトはうらやましいかもしれないけど、座っていないと息ができないから横になれもしないし、熱はボンボンあがるし、6時間おきに地獄味の薬を飲まなくてはいけない。学校にもいけないし、友達もできないし、体育はずっと見学。でも元気な子はそんな待遇が妬ましい、小さいから余計に。だから彼は、虎視眈々とチャンスを狙っていた。

そしてついに弟は私の薬を一気に飲んでしまった。母は大慌てで主治医に連絡し、吐かせたり、心配したり、大騒ぎだったが、弟はなんともなかった。無事はよかったけれど…なんですって?ひょっとして白い粉には薬効なんてないんじゃないのか。本当は薬など効かない病気で、ほんの気休めなんじゃ?だから何日飲んでも容易には回復しないのではないのか、疑惑は高まり、ますます飲むのがいやなる。私はなんのためにこの苦行を続けるのだろうか。

 

実は人生なんてやったもん勝ち!?

しかしながら、社会は行動するものに微笑む。弟の命がけの行動は、結局私を死ぬほどうらやましがらせる結果を生む。それから姉が病院に行くたびに、彼は自分用の瓶に入った「お薬」をもらえることになったのだ。彼の「お薬」は透明なバラ色をしていて、アメ横で売っているカッパ飴と同じイチゴの味がする。シロップだけのすばらしいお薬。彼は6時間おきに意気揚揚とイチゴ味のおいしいお薬を楽しむ。私はというと、相変わらず地獄味の水薬をいやいや飲み込む。この差はなんだろう、神様は弟だけを愛している。彼はビンの底に沈んだ苦い現実など、縁のない男なのかもしれない。大した苦労もなく、すべてを手に入れる人間もいるのだ、私は違うけれど。

メリー・ポピンズはやってこない。スプーン一杯の砂糖では本当の薬はごまかせないし、一方でビンいっぱいのシロップをもらえる子どももいる。白い粉が苦いだけで意味がなくても、大人には抵抗できない。病気は容易によくならないし、薬はあてにならない。人生なんて、本当にどうにもならないことばかり。我慢だけがあり、成果はない。明るい見通しが持てず、無気力で、覇気がない、私の臆病な本質は、自尊心の低いマゾヒスティックな根性に起因している、最近それに気が付いた。意味があろうがなかろうが、なにかしらの状況の好転には、必ず苦い白い粉が必要、ほとんどは苦い現実だけで成果はなし。軽やかに楽しいことには裏に罠があると怯える、そういう重苦しい被害者意識が体に染みついている。しがみつかないと今よりもっと悪くなるかもしれないという恐怖が臆病な心を脅かし続ける。

それに気づいて思うのだ、もし風が吹いて、彼女が玄関にやってきたら?願いが全部かなうとしたらどうする?白い粉などなくても、状況が良くなるとしたら?なんでも望めばいい、外に出よう、そして我慢などせずに、今やりたいなら、すぐ凧を揚げに行ったらいい。やらない言い訳はいくらでもある、でも世の中は行動するものにしかシロップをくれない。面倒を見てもらえない姉弟の家だけじゃない、臆病な大人のところにも、彼女は春風に乗ってやってくる。そうして内側からは重すぎて開かない扉を、あっさりと開けてしまうのだ。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。趣味は料理と映画と声楽。二児の母。