「いや、自分が芸術家だなんて。ムリムリ。そんな大層なことは私にはできないです」好きだったからとかうまいからということではなくて、ただ出したかったのです。これから生きていく上で、「自分が望むものを自分で創れる」人間になりたかったのです。
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自分をつくるためのArt
うしこ ( Artist / ソウゾウ家 )
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自由に生きるために
自分は、「私」という作品を創るArtistであると意識してみる
Art、芸術という言葉を聞いた時、あなただったらどういうもの、どういうことを思い浮かべますか?
絵画、彫刻、ピカソ、美術館、なんだか難しくてよくわからないもの、自分にはできないもの…。確かに、普段見聞きする有名なアーティスト、芸術家という方たちを想像すると、なんだか自分とは別次元の世界という感じがしますし、実際に彼らが創る作品やそれらができるまでの修練や思考の過程は到底自分がマネできるものではないと思ってしまいます。
ですが一方で、「Art、芸術」は、そういう一部の限られた人の技や能力ではなく、人間誰しもに元々与えられている生きるための力なのではないかなとも私は思っています、広義に捉えると。
だって、動物や植物は「Art、芸術」しないですよね?(己に真っ直ぐに生き抜く姿はとても芸術的ではありますが)それに、事典にもこんなことが書いてあります。
・他人と分ち合えるような美的な物体、環境、経験をつくりだす人間の創造活動(ブリタニカ国際大百科事典 小項目)
・独自の価値を創造しようとする人間固有の活動の一つを総称する語(世界大百科事典 第2版)
Artの文字を含んだArtificialという言葉は「人工の」という意味であり、「natural:自然の」という言葉に対して使われていることからも、やっぱりそこには「人間が創るもの」という意味があるように思います。うん、人間だからできること。そして、「最古のアート」として調べてみれば、何万年前とか何十万年前というような、人類がホモなんとかと呼ばれていたような時代の洞窟の壁画が出てきます。言葉ができるよりもずっと前から、人間は何かで表現するという行為を、生きる営みのひとつとして行ってきていたのです。
なんだか前置きが長くなってしまいましたが、なぜこうしてArtの定義めいたことについてお話ししたのかと言いますと。それは、Artというもの、あるいは「表現する」「創る」ということが、何か特別なことのように捉えられがちなことが、個人的に「なんだかなぁ… 」って違和感を感じるからです。先ほど例を挙げたように、人間誰しもに与えられた能力。なのに、誰かに見せるものだとか、うまい下手というジャッジが与えられるのではないかという価値観の中にいるため、自分を表現すること、想像したことを創造することへ臆病になってしまってはいないかなと思うのです。
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Artしてみようと思った理由
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私自身がそうでした。なので、美術の授業は好きではなかったです。それじゃぁ、なぜ今私が「アート」をしているのか。それは、「表現する」「創る」ことによって救われたからです。進路や生き方や自分自身に迷って真っ暗だった時に、何かを創ったり表現するという、いわゆる「アート」をする過程を通して、少しずつ自分を発掘し、自分創りをしてきていると感じるからです。
まるで、ひとつの木片を削りながら像を浮き上がらせていく彫刻のように。出口がわからず自分の中に淀み続けていた膿のようなものを少しずつ吐き出させてくれたし、その排泄物のようなものを並べてみることで、自分では認識していなかった自分の根底にある叫びのような欲求にも気づけました。決して、好きだったからとかうまいからということではなくて、ただ出したかったのです。これから生きていく上で、「自分が望むものを自分で創れる」人間になりたかったのです。そして今では、この「出したもの」は、自分と他の人の間に立って自分を通訳してくれる相棒のようなものになっています。おっと、なんだか湿っぽくなってきてしまいました。話を戻しますね。
こんなことを言っていますが、ここで私がお伝えしたいのは、アートやアーティストという枠組みについてどうのということではありません。どんな分野にもプロフェッショナルな人たちがいて、その人たちだからこそ周りの人たちに与えられるものがあります。これはこれで必要なものだと思います。そして単純に「だからあなたもアートやってみなよ」ということでもありません。
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「すべての人間は芸術家である」
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これは、1980年代まで生きたドイツの芸術家であり社会活動家である、ヨーゼフ・ボイスという人の言葉です。私はこの言葉・概念がとても好きです。さらにこの言葉の先には「社会彫刻」という、これまた私がとても共感して止まない概念があるのですが、それはおいおい別の記事でもう少し詳しくお話したいと思います。
実際に彼とお話をしたわけではないので、確実で正確なことだとは言えないですが、「絵を描いたり彫刻を創ったり、そういういうことだけが芸術なのではない。仕事や労働、日々の生活、自分のいる環境、そして自分の人生さえも。人間が意思を持ち、自ら考え行動して創ったあらゆるものは芸術作品である。そしてそれを行う人間はみんな芸術家である。」というような解釈であるのなら、私はとてもその考えに共感しますし、そういう生き方をしたいと思いながら、日々自分を生きているように思います。
「いや、自分が芸術家だなんて。ムリムリ。そんな大層なことは私にはできないです」
上にお伝えしたような考えのもと、「あなたも芸術家ですよ」と、作品を見てくださった人たちにお伝えすると、このようなお返事をいただきます。「アート・芸術」という言葉が人々に与える印象がとても “特別なもの・大層なもの” なんだなと感じるとともに、そういう風に自分を謙遜されることが多いことに、これまた「う~ん… 」という気分になることがあります。
「あなたの言葉、表情、考え方、行動。そういうことだって、周りの人に何かの影響を与え、そこから何かが日々生まれて、またそれが別の何かを生んでいく…。そういう連鎖のひとつをあなたも創っているんです。だから、それを発して表現しているあなた自身も立派な創造者であり芸術家であると、その存在に気づいてほしいな」と。
というわけで、実際に今私は自分の活動のひとつとしてもアート作品を創っていますが、これからのお話では、職業や肩書としての「アーティスト」とか、そう呼ばれる人たちが行う「アート」、その業界についてが主題ではありません。正直、そのあたりについて詳しくもないです。ただ、自分の日々の暮らしや生き方、自分自身のあり方、大きい話をすれば自分の人生という作品を創る。そんな、生き方としてのArtistでありたいと願うみなさんに、その仲間の一人として、自分の経験についてお話しできればなと思っています。そのため、私の話の中では、便宜上その言葉が含む意味の違いによって、カタカナ表記のアートと英語表記のArtで使い分けてお話させていただきますね。
お話を読んで、実際にご自身でも「アート」をやってみようと思っていただいてもいいですし、今ご自身が実際に取り組んでいることや生活の中で、同じように色んな気づきや励ましを得ながら、ご自身をArtしていくひとつのきっかけになれば嬉しいです。
生き方としてのArtistであるあなたへ贈る言葉 |
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【お知らせ】 現在、横浜の馬車道近くにあるBankART(バンカート)というアートスペースでのアーティストインレジデンス(滞在制作)に参加しています。(※アートファミリーというグループのメンバーとして) 以下の期間に展示を行いますので、もしよろしければ遊びにお越しください |
写真:本人