TOOLS 64 急がばカラ回れ。よじれた気持ちのなだめ方/ホウシ ヨウコ( 派遣社員 / エッセイスト )

「実はわたし、結婚するの」おだやかな昼下がり、晴天のヘキレキだった。独身仲間の友人がまさかの結婚。残されたホウシさんははたしてどんなリアクションをとったのだろうか。友人は少し困ったような顔。いつ言おうか、ずっとタイミングを計っていたようだ。
TOOLS 64
急がばカラ回れ。よじれた気持ちのなだめ方
ホウシ ヨウコ  ( 派遣社員  /  エッセイスト )

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自由に生きるために
「待つ力」を発揮できる大人になろう

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独身仲間が結婚! 残されたわたしのリアクションは

「実はわたし、結婚するの」

おだやかな昼下がり、まさしく晴天のヘキレキだった。時間を巻き戻しつつ状況を手短に説明すると、遠くに住む旧友とわたしは秋の京都に来ていた。お互い独身同志、日常生活でとくに変わったことはないはずだった(夏までは)。友人は非常勤で養護教員をしながら、教員試験を受験し続けていたが苦戦していた。旅行のプランをメールでやりとりしながら、いまひとつノリ気でない彼女の様子は少し気になってはいた。

京都で落ち合ってからも表情がさえない彼女とともに、三条通りのイノダコーヒーに入った。オーダーした名物コーヒーは甘く、雨のせいもあってなんとなく白けた雰囲気になった。わたしはとぎれないように話し続けた。

そこにくだんの一言。友人は少し困ったような顔をしていた。いつ言おうか… 会ったときからずっとタイミングを計っていたようだった。友人は遠慮がちに、結婚は突然決まったこと、だけどまだ相手の両親との面会など調整が済んでいないこともあって落ち着かないことなどをポツポツと話し始めた。

旅先でまさかのドッキリ。しかしわたしが彼女の立場だったら、旅行どころじゃなかったとしても「結婚することになったから旅行キャンセルね!」とメールでは決着つけられないかもしれないとも思った。祝福の言葉をなんとかしぼり出した。早く1人になって熱くて苦いコーヒーが飲みたいと思った。
友人は予定を早めに切り上げ、翌日の午前中には帰ってしまった。友人と別れ1人になると、ほっとしたような、むなしいような気持ちになった。だけどどうしていれば、こんなモヤモヤした気持ちにならずにすんだのだろう…?

 

カラ回りはカラ回りを呼ぶ

京都でのモヤモヤは、あとを引いた。それからの半年というもの、やることなすこと、おもしろいくらいにカラ回りした。

12月の寒空の下、わたしは高尾山にいた。夕日のダイヤモンド富士とムササビの夜間飛行を見るためだ。昼間は晴れ渡っていた空も、夕方日が沈みいよいよダイヤモンドになるか! というところで、一筋の雲が山頂にかかる… ダイヤモンド富士、見られず。

ムササビが怖がるからという理由で、暗闇の中、総勢30名ほどがヘッドライトに赤いフィルムをはりつけ、小1時間息をひそめて棒立ちに待つ。誰かが空の一点を見上げ「あっ!」と鋭い声をあげる。流れ星がひとつ。…ムササビ、現れず。骨の髄まで体は冷え切り家路についた。

高尾山に懲りず、大きな自然に抱かれたい、人間なんてもうたくさん! と、ひとり屋久島へ縄文杉を見に行った。ところが縄文杉トレッキングの日は、かつて経験したことのないどしゃぶりの雨となった。往復10時間以上の道のりで、もともとあまり調子のよくなかった右ひざを悪化させ、やはり大自然の洗礼を浴びた。

そんな中、友人の結婚式は7月となった。正直、まだ気が重かった。「よし、母の絽(ろ)を着て大人の女らしく決めよう。着つけも覚えられるし一石二鳥だ!」と、むりやり気持ちを盛り上げた。ところがやっぱり、まったく事がスムーズに進まない。着物に合う襦袢(じゅばん)がない、帯紐がない、草履がない。いっそ遠方であることを理由に出席を断ってしまおうか。一方で、キチッと形を整え式に出席して、大人としてのケジメをつけたい意地もあった。

結局、招待状には「出席」の返事をした。知り合いのお母さんにアドバイザー(先生)になってもらい、着物のサイズ直しの調整(ドレス1着分の出費)にひと月かかり、襦袢は実家の古ダンスをひっかきまわし何とか発掘。ようやく着つけをゆかたで練習する段になったが、わたしはゆかたを持っていなかった。着つけ教室は急きょ和裁教室となり、先生のお下がりのゆかたにミシンをあて、トコトコ…。先生は一徹な方だった。「(手っとり早く)着つけを教えてほしい」の一言がついに言えなかった。

結婚式の当日、着つけはプロにまかせ、わたしは着物で出席した。みんなの祝福を素直に受ける花嫁姿の友人は美しかった。幸せになるにも覚悟が必要。友人の姿に、その軌跡が感じられた。同じだけの時間の中で、友人は正真正銘の花嫁になった。わたしはといえば、モヤモヤに始まり、カラ回りの後、あらたな罪悪感の中にあった。ゴールは絽を着こなす自分ではなく、友人を心から祝福できる自分、だったはずなのに…。

 

失敗は、 気持ちを素直に打ち明けなかったこと

「もっと早く言ってくれればよかったのに」

そう京都で友人に素直に打ち明けることができていたら…(高尾山も屋久島も着物騒動もなかったかも)。

世の中には無数に人がいて、互いの感情の糸が網の目のように張りめぐらされている。思いがけず他人のそれに触れてしまうこともあれば、突然の「もらい事故」もある。ニアミス(失敗)をできるだけ避けようとする。これは多くの人がたどる王道だ。「一度よく考えてから、行動しなさい」というやつだ。でも残念ながらそれでも「やっちゃう」のが失敗の本質だ。シェイクスピアだって福沢諭吉だってきっと悩んだにちがいない。

事が起きてしまったときの対処法として、自分のあやまりを認めてしまう(謝る)という方法。これもまた王道だ。自分から謝ることの利点は、比較的すみやかに事態を鎮静化させられる点にある。ただやはり相手あってのこと、自分の思い通りになるとは限らない。

両者の意見や気持ちがなんとなくこじれてしまったというケースもある。矛盾する双方の気持ちの落としどころをどう見つけるか。敵同士であっても力を合わせなければならない。ノーベル平和賞が尊い理由はここにある。

わたしの失敗とはいったい何だったのか。かっこなんかつけずに自分の気持ちをもっと大切にするべきだったのに、それをしなかったことである。でも、自分の気持ちを大切にしつつ他人ともモメない方法なんかあるのだろうか。

 

よじれた気持ちのなだめ方

ノーベル賞作家の大江健三郎さんは、著書『自分の木の下で』の中で、もし取り返しのつかないことをしてしまいそうになったら、「ある時間、待ってみる力」をふるい起こすように、と書いている。そうはいっても、いざというとき「待ってみる力」を発揮することは、なかなかにムズカシイ。ただ、たった一日でも物事の感じ方は変わる。これはどんな人でも経験したことがあるのではないだろうか。

1. 早期解決をあきらめる
自分の気持ちがよじれているのを感じたとき、これはもう時間がかかるものとあきらめる。つまりこれという解決方法はない! たとえ何か(友情)を失うリスクがあったとしても、形を取り繕うのはやめて、自分の気持ちが現実に追いついてくるのをじっくり待つしかない。他人の気持ちをよじれさせてしまったときもまたしかり、である。

2. 孤独に耐える
よじれた気持ちを他人に共感してもらおうとするのはやめた方がいい。少々キツくても、かりそめの「分かるよ」を言ってもらいたい欲求とは永遠にサヨナラすべし! 逆によじれた人を前にしたときは、その人の本来の強さを信じて、あえてそっとしておく勇気を持ちたい。この世の中、明暗が分かれるときというのはあるもの。そういう時、自分が「明」であっても、「暗」であっても、ただ淡々としていたい。友だちなら尚更、同情は不要である。

3. 時間の力をかりて正気に戻る
少し気持ちが整理できてきたら、高尾山や屋久島へ行くのもいいかもしれない。きれいな景色や壮大な自然はきっと、気持ちをポジティブな方へ持っていってくれる。自分が正気でなかったら、他人を思いやることなんてできない。自分の力でできないのなら、時間の力をかりてみよう。

気持ちにも経年変化がある。経験してみるとそれも味わい深い。どんな失敗も苦い思いも、アメ色のヌメ革のように成熟した明日の自分につながっているはずだし、もし街で気持ちがよじれていそうな人を見ても、やさしい気持ちで見守ってあげられるだろう。


PHOTO : bruce.bentley


ホウシヨウコ

ホウシヨウコ

派遣社員 / エッセイスト 1974年埼玉県生まれ、石川県育ち。石川-東京間を行き来しつつ、約10年間図書館司書を勤めたのち、現在は建設会社に派遣社員として勤務。オーディナリーでは、安定を求めながらも変わり続けざるをえない「非正規なはたらきかた」についてのエッセイを執筆。