【第034話】なぜ彼らは書くのか

書きはじめましょうかね

書きはじめましょうかね

 

 

路上から自由を綴りはじめた冒険

 

すべての人に書きはじめることをすすめている。それは「出版など考えてもいないよ」という人にさえもだ。なぜ書くのか、その理由をあげだすと途端に何十にもなってしまうが、今日はその中でも重要なトピックを5つだけ紹介しようと思う。この自由大学の講義で多くの人が学び、そして書きはじめた。出版に至った仲間もいる。これから挙げる5つの宝ものは、書きはじめた冒険者たち、彼らが共通して手に入れたものだ。彼らとは、仲間の受講生たちのことであり、ぼくであり、少しだけ未来のあなたでもある。

【宝もの1】 好きと得意がわかった
【宝もの2】 人の役に立つことができた
【宝もの3】 仲間ができた
【宝もの4】 学びの循環で専門領域を深堀できた
【宝もの5】 再び飛べる自信を得た

 

【宝もの1好きと得意がわかった   

まず、冒険はどのように始まったか。多くのケースとして、彼らは自分自身のために書きはじめた。学んだこと、考えたこと、感動したことを備忘録として記録しはじめた。ある人はそれが旅の記録かもしれないし、物語だったり、仕事のコツだったり、料理のレシピだったりする。自分だけの日記帳につづるのもいいが、もし見たい人がいたら見せるのもいいかな。同じような興味を持っている人にも参考になればと思い、書いたものを公開しはじめた。たとえ読んでくれる人がいなくても、別に自分のために書いてるだけなので、読者が増えようが減ろうが気にならない。

路上ミュージシャンに自身をなぞらえているものもいた。彼らは「書いてくれ」とだれかに頼まれたわけでもない。ただ、書きたいと思った。自分の発見を自分のものだけにしておくのはもったいないという衝動かもしれない。自分が感動したことを、隣の誰かも共感してくれたら喜びは倍増するものだ。ミュージシャンにとっての路上が駅前や商店街なら、彼ら書き手にとっての路上はどこか。探したところ、WEBだった。WEBなら夜に大きな声をあげても近隣に迷惑はかからないし、聴きたい人だけに届けることができる。出版だって音楽と同じだ。デビューしたかったらいつでもできる。いますぐ路上に出ればいいのだ。書きはじめて半年と早い者もいれば、5年という者もいる。続けていればいずれ複数の出版社から「ぜひ弊社から本をだしませんか」と声がかかるだろう。今はメジャーがすべてという時代でもなくなってきている。「メジャーには行きたくない」とあえて断るのもカッコいいだろうし、大きな資本の力をかしこく活用するのもいいだろう。ベストセラーランキングで書店をにぎわせた者もいる。

「書くと好きなことがわかる」とはどういうことか。彼らはその時に書きたいことを書いていた。面白い人に会ったらそのことについて。新しい体験をしたら、美しい景色をみたら、そのことについて。そのエッセイが100本くらい溜まってくると、どうやら自分はこういう分野に興味があるらしいということがわかってくる。自由というワードがやたら多いな。そんなに自由を希求しているのかとか。大きなものにしがみつくのではなく、DIYで自分の仕事をつくりだすこととか。教育の多様化だとか。「好きなことをやって生きよう」と言うとそれには同意してくれる人がほとんどだ。しかし、その後につづくのは「そもそも、好きなことがわかりません」という質問。夢中に打ち込めるテーマが欲しいのに、見つからないというのだ。そんな時こそ、逆説的だが、「見つからないなら書いてください」と答えたい。依頼もなしに書きつづけることは、好きなものを自ら見いだし告白していく作業に他ならない。時間の経過とともにおのずと自分の「好き」がわかってくるものだ。

では、「書くと得意なことがわかる」とはどういうことだろうか。残念ながらというべきか、好きと得意は同じではない。好きだからといって、得意とは限らない。逆もしかりだ。得意というのは、才能のこと。多くの人が苦労するようなことを簡単にできてしまう能力のことを言う。彼らが好きなことを書きはじめると、一人ふたりと読み手がでてきた。「こんなこと自分以外におもしろいと思ってくれる人がいるんだろうか」自分にしかわからない面白さに共感してもらえたのは発見だった。また、簡単にさらっと書いた落書きが、「すごいね」と感心されたり、そのことについて「もっと教えてください」と頼まれたりした。講演をお願いしますなんてこともある。自分は簡単にわかってしまうことでも、他の人はそうでもないんだなと自分の才能がここで初めてわかってきた。人間は他人との関わりによってしか、才能を発見することはできないようだ。なるほど自分のお家芸はそこなんだなと、関わりの中で気づく。そういう反応をみながら、自分の向き不向きの輪郭を浮かび上がらせていった。「好きなこと」と「社会から求められていること」の接点をみつけていったのだ。

 

【宝もの2人の役に立つことができた 

はじめは好きなことを自分のために書いてただけなのに、次第に感謝の声をもらうようになってきた。この時に、読み手の存在を認識するようになる。実用的なことを書けば「その智恵が役に立ちました、おかげで助かりました」と喜ばれ、エンタメを書けば「最近いやなことがあったのですが、笑えてすっきりしました」と喜ばれる。自らの闘病記を書けば「悲しいのは自分だけではないと救われました」と言ってもらえた。

もちろん世界を変えると意気込んで政治家になったり途上国を救うNPOを立ち上げるのもいい。しかし、書くことも小さな社会貢献になっている。あるとき、「書くことで誰かの力になることができるんだ」と気づいた。それはそうだ。自分自身が本を読みはじめたときのことを思い出せばわかる。本を読んだのは、未来に希望を見いだすためだったじゃないか。勉強も好きではないし、集団行動も苦手で、かといって自分に特別な何かができるわけじゃない。大切な人も失い、これからどうやって生きていったらいいのか、明けるとも思えない深い闇の中で、すがるようにして読んだ幾多の本。もうだめだと倒れ込むその冷たい床で、最後に開いた1ページ、たった1つの言葉に救われて、ふたたび立ち上がることができた。本に救われた。あの言葉がなかったら、いまの自分はないだろう。そういう経験がぼくにもある。気持ちを書くといっても、たんなる悲しみの吐露に何の意味があるのか。読み手になんの得もないじゃないか。それも正しい。ほとんどの人にとってはそうだろう。だが、思想家ロラン・バルトも背中を押しているように、「自分と同じように考えている人がいる、一人じゃないんだと思えるだけで救われる」のだ。同じ境遇にいる者の気持ちを和らげてくれる。現にぼくらの仲間のひとりが乳がん闘病記を出版し、数年後この世を去った。その読者からは今でも「勇気をもらった。ありがとう」という声が届く。同志のために気持ちを綴ろう、体験を共有していこう。本で世界を変えることなどできないが、たった一人の(かつての自分のような)読者を助けることはできる。

分かち合おうとすると、彼らは次のステージにあがった。誰かのために伝える、教える立場になって初めて、自分がいかに理解できていなかったか、そのときに気づく。さらに学び続けたいと思った。教える人のほうが成長するというのは本当だった。自分の知ったことは全部、分け与えたい。もしこれがトンカチのような道具なら、他人に貸したら自分は使えなくなってしまう。しかし書く智恵の道具なら分けてもなくならない。そこがいい。一度書けば、何万人もが同時にその智恵を使うことができる。

 

【宝もの3】 仲間ができた 

彼らは次第に大きな夢をもつようになってきた。自分のことだけでなくみんなのことを考えると、より社会のほころびが目につくようになってくるからだ。たとえば、「新しい学校をつくりたい」という夢は一人ではむずかしい。仲間をつくらないといけない。そこで自分の考えを書き発表しているWEBサイトがメディアになる。そこで仲間を募ることもできる。媒体としての影響力が出てくるに従って、会いたい人に会いやすくなる。書いてきた蓄積が信用となり自己紹介になる。共感できるビジョンや、伸びしろのある人物と見込めれば、協力したいと思うのが人間だ。逆に向こうから声をかけてもらうことも出てくる。声をかけてくれる人は、同じ志だ。それは、あたりまえで、すでにこちらの好き嫌いを表明しているので、合わない人がわざわざ声をかけてくることはない。「好きな人と好きなことしかしない」 彼らがこんな無理を通せているのは、こちらの好き嫌いを事前に宣言しているからだ。

仲間をつくるために、普通は一人一人口説いてまわらなければならない。でも、彼らにはその必要はない。WEBサイトには彼らが書いた原稿が溢れている。いわば自分の分身のこびとたちがたくさんいるようなものだ。そのこびとたちは主人がつかれて休息している間だって路上で歌い続けてくれる。

社会とつながるためには仲間が必要だ。だれも社会と断絶して生きることはできない。自分の居場所や役に立っているというつながりが欲しい。必要としてくれる人がいるから、生きていられる。それが生きがいにもなる。会社だったらクビになることもあるだろうが、自分で居場所をつくれば、自分が続けたい限りはだれからも奪われることはない。生涯現役でやっていける。

つながりとは面白いもので、彼らが好きなことを書きはじめると、まわりの友人たちも書きはじめた。好きなことをしている人のエネルギーに触れると、自分もいままでやりたかった心の声を思い出す。そして行動をはじめる。好きなことには、そういうポジティブな感染力があるようだ。

 

【宝もの4学びの循環で専門領域を深堀できた  

彼らは自分が選んだ分野を極める。さらに専門家になるためには、膨大な知識と経験が必要となる。それを一人きりで網羅するのは一生かかっても難しいものだ。たとえば出版という分野だったら、文字の起源を前4千年紀のメソポタミアにさかのぼるのか、それともさらに先のトークンや絵文字にまでさかのぼるのか。いずれにしても歴史から、最新の出版動向、その先の電子書籍の未来までの膨大な知識をたった一人で網羅するのは不可能とわかる。でも、仲間がいればできることは何倍にもなる。カテゴリーを分担し協力して調べることもできるし、読者に助けを求めれば、教えてくれる人もいるし、最前線へいって「わたしが出版したケースはこうでした、ここでつまづいて、こう乗り越えました」という報告が逐一集まってくる。最新のマーケティングや数字のデータも集まってくる。さまざまなケーススタディが蓄積されてくる。そしてここがどこよりも新鮮で濃い情報が集まる場所になっていく。自分ひとりでやるんじゃない。みんなでやる。その情報から未来を読み解き、新しくつくったメソッドをまたコミュニティーに紹介し還元する。コミュニティー内で成功事例も失敗事例も共有してやっていく。智恵と経験、学びの循環を起こし、さらなる高みへ登っていこうじゃないか。すべては最初に彼らが惜しみなく智恵を分け与えたことから始まった。ふりかえれば有史以来いつだってそうだった。文字によって人類の文明は発達してきた。もし書くことがなかったら歴史は始まっただろうか。

 

【宝もの5再び飛べる自信を得た 

彼らも、すべてを失うことがある。それがありうるということを本当は3.11以前からだれもが知っている。彼らの場合は、父親世代の会社が倒産していくのを見て育った。安定と疑わなかった業界最大手の企業。そこで出世競争もし、国家資格ももっていたのに、リストラされた父親たちを見てきている。大きな組織、資格さえも安定ではないとしたら、頼れるものは自分の智恵と技しかないのではないか。そういうところから、彼らの読書体験は始まっている。彼らは読みはじめた。そして書きはじめた。もしいま焼け野原になっても、生き抜いていくには、一本のペンがあればいい。書き始めれば、何度だって這い上がることができる。現に、独立してつくった会社の資金が底をつき、もう来月の家賃も払えませんという者もいた。その状況で、すべての支出を止めて本を書いた。その本をきっかけに、持ち直すことができた。新しいチャンスをたぐりよせたのだ。

きっとこれからも何度もそういう谷があるだろう。できれば来ないことを願うが、この変化の時代には、だれもが経験しうることだ。しかし、書く力をつけた彼らなら、谷の底でもきっと笑っていられるにちがいない。家賃のかからない田舎から、野菜を育てながら生き直すことができる。資金がなくなってもいい、仲間がいなくなってもいい、すべて失ってもそうやって何度でも復活してみせる。その自信があるから、自分を傷つけるだけの仕事を断ることができる。自信とは、落ちないことではない。落ちてもまた飛べることだ。鳥をうらやむまでもなく、書くことさえできればあなたは何度だって飛ぶことができる。

さて、これまでで5つの宝物を紹介した。あとは書き始めれば、あなたの冒険が始まる。景気づけにジャック・ケルアックを読んだら、『路上』に出ることから始めようではないか。と言っても、誘いに乗らない人も多くいた。「出版依頼もないのに書きはじめるなんて、賭けですね」と言ったのだ。ここまで読んでくれたあなたなら、この冒険が賭けでもなんでもないことをわかってくれたのではないか。書きはじめた冒険者が1つの宝も手に入れることなく徒労にのみ終わったケースをいまだ知らない。ただし、あなたのゴールは出版ではない。夢をこわすようだが、出版したところでたいしたことではない。くりかえすが1冊の本くらいで世界を変えることはできない。ゴールは、5つの宝を持ち帰ること。つまり、あなた自身の自由を獲得することだ。「やりたいことをやりたいときにできる能力」平易に言えばこれを自由という。書くことで、これが可能になっていく。思考も深まり、仲間も情報も貨幣も必要なあらゆるものが集まってくる。

冒険に出る前にひとつだけ、大事なことに触れておこう。およそ半分の冒険者がつまずくポイントだ。せっかく路上に出ても、すぐに歌うのを辞めてしまう人がいる。理由は「だれも立ち止まってくれないからだ」と言う。うなだれて、歌うのを辞めてしまう。「1人でも立ち止まってくれさえすれば歌うのだが」というわけだ。よく考えればおかしいことに気づかないか。歌っていないミュージシャンに足を止める人はいない。たとえ目の前に誰も立ち止まってくれなくても、一人目の観客が立ち止まるまで歌いつづけなければならない。それまでは、シャッターがいるじゃないか。その閉まった商店街のシャッターを振るわせるんだ。好きな歌なら、楽めるだろう。すると、そのエネルギーに人は引き寄せられる。よし、ひとり立ち止まった。その人のために全力で歌う。すると、またひとり、またひとりと足を止める。人ごみができれば、あとは「なんだなんだ」と野次馬も集まってくる。黒山の人だかり、それを聞きつけて上空に報道のヘリコプターさえ飛ぶかもしれない。そうやって時代はつくられていく。

彼らの冒険の話はこの辺で終わりにしよう。あなたも書きたい気持ちになってきただろうか。人はなぜか文章によって説得される。いや、本当はだれもあなたを「説得」することなどできない。あなたが自ら「納得」するしかないのだ。それはいつだって能動的な行為である。なぜなら文章は、読む人の意志がなければ次の一行さえも無理に読ませることなどできないのだから。あなたがこの本のページをめくるのは、繰るそのペラリと響く甘美な音のせいではない。物語の続きが知りたいからだ。あなたは自らの意志で読み進めている。文章は一番フェアな伝達手段なのだ。もしこれが映像だったら、あなたを部屋に閉じ込めて、無理矢理にでも観せることができる。音を聴かせることもできる。しかし、読ませることだけはできないのだ。本を読み、それが高確率で踏み出す一歩につながっていくのは、読む行為そのものがすでに行動の連続だからだ。現に、いまあなたはこの文章をここまで読んでいる。行動しているのだ、まぎれもなく自分自身の意志で。この回りだした車輪を止めてしまうのか、このまま冒険にでて宝を持ち帰るのか、どちらの人生もきっと正しい。選ぶのはあなただ。

 

(約6718字)


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。