面倒な映画帖 07 「道」映画の神様、魂心の意地悪。

面倒な映画帖

彼女は小さな生活で満足だった。受け取るものは少なくても、幸福感をやりくりする才があった。

< 連載 >
モトカワマリコの面倒な映画帖 とは

映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。SFXもスペクタクルもなし、魔法使いも宇宙人も海賊もなし。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

面倒な映画 07
「道」

映画の神様、魂心の意地悪

何事にも向き不向きがある、むろん恋も。

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フェデリコ・フェリーニ監督の名作。喜怒哀楽の天才ジュリエッタ・マシーナの表情が全編をひっぱる。彼女の哀しい微笑みは言葉で形容できない。

リバイバルされるたびフェデリコ・フェリーニ監督の「道」を何度も観に行った。でも最初は最後まで見れず、結末を知らないまま映画館を出るハメになって、二度目にジェルソミーナの末路があんなだったのを知ったとき、打ちのめされたのを覚えている。 終戦から数年、イタリアから最初に輸入された映画が「道」だった。華やかなものに飢えていた日本人が期待したイタリア映画ではなく、旅回りの芸人の地味な映画。公開当時日本では無名だったアメリカ人俳優アンソニー・クインとグラマーな美女ではないジュリエッタ・マシーナ主演の本作は、派手にヒットはしなかったものの、じわじわと口コミで人気が出た。

大道芸人ザンパノは、先に買った姉が死んだので、代わりに妹のジェルソミーナを買いつける。大道芸の手伝いをしたり、道化をやったり。怒られてばっかりで、ザンパノはおっかないけれど、ジェルソミーナはそんなに不幸じゃない。貧しい家を出たことで、初めて海を見たし、ピエロになって唄ったり、飢えもしないし、キャラバンの焚き火も好きなのだ。与えられた環境で結構楽しく生きるタイプ。彼女は小さな生活で満足だった。受け取るものは少なくても、幸福感をやりくりする才があった。

それが一転したのが、サーカス一座と遭遇し、ハンサムな綱渡りの芸人と出会ったこと。生まれて初めて優しくされて、仄かな恋を抱いた。サバイバル戦略としてザンパノを否定しなかった彼女に「選択肢」が生まれたのだ。一緒に旅しているのに、ザンパノは他の女と平気で関係をもつし、出会いも元は人身売買、乱暴だし怒鳴るし、ジェルソミーナが逃げ出す理由なんて初めから山ほどあった。逃げなかったのは、もっと心地よい人間関係の存在を知らなかったからなのだ。ささいなことか一件の殺人がおこり、いよいよジェルソミーナの現状肯定も破綻する。ザンパノと生きていくと思っていたのに、人を殺したという事実が恐ろしすぎた。それなりに楽しいキャラバンの生活と、人を殺したザンパノを秤にかけたところで、ジェルソミーナは壊れてしまう。ザンパノは彼女を道端に置き去りにする。ひどい男なので役立たずになったから捨てた・・・という観方もあるけれど、眠っている彼女を道に残して車に乗るとき、ザンパノの目にはかすかな迷いがある。ひょっとして苦しむ彼女を見ていられなくて、道に捨てたのではないだろうか。野垂れ死にはしないだろうし、こんな自分とは別れたほうがまし、というひどい男なりの情だったのかもしれない。

日本一青いシャツが似合う男にオカボレ

最初に観た時、私は勝ち目のない片思いをしていた。いつも青いシャツを着ている温和な人だった。呑み会で他の可愛い女子がモーションをかけても、ポンヨリしてて反応が鈍い。攻略法がわからない。それなら懐に入ろうと、彼の得意分野を研究し、話せる後輩を装って接点を増やす作戦を開始した。仲良くなったら酒の力でどうにかしよう、くらいの気持ちで。

作戦の初期は「偶然」をさりげなく繰り返す必要がある。ある日、授業をサボって観ていた「道」の上映時間が、彼の授業が終わる時間とかぶってしまった。クライマックスを30分残して映画館を出ないと、教室棟の前のトイレから「偶然」出てくることができなくなる。「どうしよう、授業出るとは限らないし、映画気になるなあ。」迷ったけれど、映画は次があるけど、リアルの男は待ったなし。 トイレで張りこんでいたのに、ターゲットは出てこなかった。映画をあきらめたのに、彼に会えない。

しかしストーカーはめげずに次のトラップに向かう。この授業の後、彼は結構な割合で古本屋に寄る。そこに「偶然」いると、かなりの確率で会えるはず。作戦変更、大急ぎで古本屋に向かった。「先輩奇遇ですねえ、ここ新古書多くて助かりますよねえ。」とかなんとかいいながら、声をかけると、ストーキングされているとは思わないから「やあ偶然」くらいの顔をしている。気づいていない、それはもちろんこちらの計算通りだけれど、作戦の失敗を暗示させるものでもある。せっかく会ったのに、彼はそのまま帰ろうとする。「駅までご一緒してもいいですか?」断りはしない、「じゃあお茶でも」というのが普通の流れなのにそうはならない。本屋に寄って、家に帰ろうとしていたんだから、そこで予定を変更したりしないのだ。内心必死だったが、ぐっとこらえて、深追いはやめておく。

次のチャンスは呑み会だった。「鉄道員」「自転車泥棒」「山猫」「ひまわり」「奇跡の丘」などイタリア映画に食いついてくることがわかったので、フェリーニの新作「そして船は行く」に話をもっていく。「『道』だって観てない人ばかり、一緒に行ってくれるような人いなくて。」それなら一緒に行く?やった!ありがとうフェデリコ!!

晴れて映画デートに釣り上げ成功。渋谷でフェデリコ・フェリーニの新作を観た。あまりのラッキーに舞い上がっていたので、その映画は船が出た・・・くらいしか覚えていない。さすがに即帰るとはいわず、ご飯までゲット。動揺を隠そうと、知識を総動員して映画のことばかり話していたから、本当に映画が観たくて誘ったのだと信じただろう。 お友達にはなれても、恋愛対象ではなかった。基本、恋愛の主導権はオスにある、彼も狩られる趣味はなかった。上手に獲物になる知恵がなかった時点でアウト。作戦はあるところまで成功したが、方向性が間違っていたのだ。

フェデリコ・・・その結末はあんまりだ。

振られちゃって意気消沈の時、また「道」が上映されていて、今度はちゃんと最後まで観た。悲しい気持ちに追い打ち。ああ、ジェルソミーナがもっと利口で、少しは報われたならよかった。悪魔め、フェデリコめ!奇跡をおこせ、映画なんだから!

最後にザンパノはジェルソミーナが好きだった海で砂浜に突っ伏して号泣する。肉親でも、妻でも恋人でもなく、金で買った旅の道連れ、ジェルソミーナはザンパノにとって誰でもないじゃないか。今更何でそんなに嘆くのだ。スクリーンをなじりながら、涙がとまらない。人と人の関係は、どっちが上に見えても、そんなみせかけの関係性よりも深いところで相互に作用する。金で買った子どものような女でも、彼女は現実にザンパノのそばにいて、共に旅の時間を分かち合っていたのだ。自分の感情に慣れていない男には、彼女が自分にとって何なのかわからなかったのかもしれない。ザンパノみたいな唐変木じゃなくても、感情に向きあえず、自分の気持ちに気づくのに時間がかかることはよくある。鎖を胸筋でぶち切る怪力男が赤ん坊のように泣いた理由、それは最後の最後、完全に取り返しがつかなくなるまで待って、全能の神フェデリコ・フェリーニが愚かな男に悟らせたから。人を捨てるということは、人に捨てられるということでもあると。私は傷心に沁みるニーノ・ロータのトランペットに溺れ、フェデリコの魂心の意地悪に泣き崩れた。

 

 


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在は、ウェブサイト、月刊誌プレジデントウーマンでライターとして、文化放送で朝のニュース番組の構成作家としても活動。趣味は映画と声楽。二児の母。