大切な人との別れから再び歩き出すには
新留 穏香 ( 生き方探究家 / 薬学博士 )
自由に生きるために
思い出の物を、ゆっくりと手放そう
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突然、「断捨離」をしたくなることがある。
それがどんなタイミングなのか、自分でもよく分からない。
でも断捨離した後は必ず、新しい世界を見に行きたくなる。
今年の初めに、「断捨離欲」が湧き上がってきた。
「せっかく年末に大掃除したのになぁ」
そう思いながら収納の中身をひっくり返し、「物」と向き合い始めた。
向き合う対象は、数々の審査をくぐり抜けてきた「選ばれし物たち」だ。何度も断捨離しているので、選ばれた物しか残っていない。それらを、さらに断捨離したくなっているのだ。なんということだろう。今回も大変に違いない。
目の前には、夫の手帳やノート、ポーチや財布、写真などが広げられた。ふぅっと心を落ち着かせて、ひとつひとつ向き合っていく。
亡くなった夫との「思い出」
夫は、5年前に癌で亡くなった。痛みと不安を伴う1年半の闘病生活は、私の想像をはるかに超えるほど壮絶で大変なものだったと思う。
本人が一番怖かったはずなのに「あと70年生きるから、大丈夫だよ!」と、いつも気丈に振る舞っていた。わずかな可能性を信じ続け、弱音を吐かずに前向きに治療を続ける姿に、あらためて惚れ直した。
「生き続ける」と信じ続けた夫は、当然「終活」なんてしていない。部屋の中にたくさん遺された夫の物を、亡くなってから5年の間、少しずつ少しずつ手放していった。その結果として残っている目の前にある物たちは、「最も濃縮された思い出」が滲み出る物ばかりだ。
ひとつひとつの物を見ると、思い出が蘇ってくる。この「思い出に浸るため」に、物を遺してあるのだ。「物」を捨ててしまったら、「思い出」も忘れてしまう気がする。「夫との記憶」が消えていくのがこわくて、捨てられなかった。
でも、今年の私は一味違った。物を捨てることが、あまりこわくなくなっていたのだ。
記憶にまつわる衝撃的な学び
夫の闘病を機に、私は「生きる」ということと真剣に向き合い始めた。
夫も私も、薬学部出身のサイエンティストだ。夫の癌は進行しており、サイエンスの力で治すことは難しかった。
食事、思考、行動、性格、生き方。自己啓発的なものからスピリチュアル的なものまで、様々な学問を2人で猛勉強した。癌を治すために学んでいたが、気付けば「生き方の探求」をしていた。
夫が亡くなってからも、1人で探究を続けた。ヨガや東洋思想などの、深い深い哲学的なところまで辿り着いた。理論を学び、実践し、私自身の人生を「実験台」として、生き方を探求し続けている。
学んでいく中で、最近、衝撃的な学びがあった。
「記憶は全て、体の中に刻まれていますから」
尊敬するヨガの師から、ぽろっとこぼれた言葉を、すかさずキャッチした。
なんだって!?
記憶はすべて、刻まれている!?
本当に衝撃的だった。
私は忘れっぽいので、「あの旅のとき、海のそばで食べたシラス丼、美味しかったよね〜!」と言われても、(そうだっけ…)と思ってしまう。
記憶について知りたくて、アルツハイマー病の研究をして「博士号」を取った過去まである。
そんな私なので、「記憶は刻まれている」というのは、空いた口が塞がらないほど衝撃的だった。サイエンス的には証明できないじゃないか、と思われるだろう。でも「今のサイエンスでは扱い切れないレベルの話だ」ということが、サイエンティストであるからこそ分かるのだ。
「全ての記憶は刻まれている」という教えは、私の中にストンと入ってきた。
たとえば、幼少期の頃の記憶なんて、ほとんどない。けれども私は「夕日が綺麗だなぁ」と、人一倍感動する。聞けば母は「夕日が綺麗だねぇ」と幼い私に何度も言っていたそうだ。
ふとメロディーが頭に流れてくることがある。すっかり忘れていたけれど、中学生の頃に聴いていた曲だ。この少し暖かくなってきた頃に聴いていたなぁと、懐かしくなる。
そうか、私が体験したことは、全部刻まれてるんだ。
たとえ今、夫の物が目の前から全て無くなったとしても、夫との思い出は、私の中に全て刻まれているんだ。
本当に刻まれているなんて証明できないけれど、刻まれていると信じてみると、心がふわっと軽くなる。なんだか安心感に包まれる。
そっと手から放す
「断捨離」という言葉は、ヨガ指導者の沖正弘先生が、著書の中で使用した言葉だそうだ。
ヨガ哲学の「断行(だんぎょう)」「捨行(しゃぎょう)」「離行(りぎょう)」の頭文字を取った言葉で、
断:入ってくる不要な物を断つ
捨:不要な物を捨てる
離:物への執着から離れる
という意味があるという。
私は「断捨離」という響きが、あまり好きじゃない。厳しいような、寂しいような。「断ち捨て、離れる」なんて、修行みたいだ。
人生、修行なんかしなくていい。「執着から離れよ!」なんて、言うのは簡単だ。そんな簡単に離れられないことだって、たくさんある。人は、そんなに強くない。
私は「断捨離」の代わりに「手放し」という言葉を使っている。「手から、放す」だけだ。ありがとうの気持ちを乗せて、そっと手から放してあげると、なんだか心が救われる気がする。

学生時代、はじめて旅行に行った時の写真
夫は、とにかく優しく、物が捨てられない人だった。カフェで私が落書きした「ストローの袋」すら、捨てられずに持ち帰る。
手帳の中に綺麗に貼ってある「ストローの袋」と15年ぶりに向き合って、涙が出る。なんだか謎なキャラクターが、袋の長さ分の舌をベローンと出している絵が書かれている。
学生のとき、よくカフェでデートしたな。
落書きしたり、勉強したり、いろいろ話したりしたな。
本当に、優しかったな。
素敵な時間を過ごすことができて、本当に幸せだったな。
素晴らしい経験をさせてくれて、本当にありがとう。
溢れ出る涙が、頬や服や床に落ちる。
気にせずに、ぽろぽろと流す。
泣ける時に、泣いた方がいい。
もう感じ切ったなぁ〜と前向きな気持ちになれたら、感謝を込めて紙袋に入れ、ゴミ袋へ入れる。紙袋に入れることで、あたたかい気持ちで手放すことができるような気がする。
もちろん、全ては手放していない。「もう一度、味わいたいな」と思う物は、まだ手元にある。焦らなくて大丈夫、少しずつでいい。

夫がよく着ていたこの上着だけは、未だに手放せない
物たちが、背中を押してくれる
5年かかって、夫の物は「段ボール1箱分」の量になった。
私の中の「夫の容量」が減っていくようで、すこし悲しい気持ちになる。
でも、全ての記憶は刻まれている。
きっと70年後には、天国で思い出話をするだろう。
あと70年の間は、地球での暮らしを楽しんでみよう。
「次なる未知の世界を見に行きたい!」と無意識に思ったタイミングで、断捨離したくなるのかもしれない。
ひとつひとつの物と向き合い、思い出と向き合い、自分の心と向き合う。
これらの作業は、決して簡単ではない。とても大変だ。大変だけど、あたたかく、愛おしく、宝物のような時間でもある。そして「大変」だからこそ、私自身が「大きく変わる」ことを後押ししてくれる時間でもある。
涙を流し、物を手放すことで、心がスッキリとする。そして、まだ見ぬ新しい世界へと進みたくなってくる。物たちが「未来へと進む原動力」となり、優しく背中を押してくれるのだ。
「イマココの一瞬一瞬を味わい、楽しむことこそが、豊かさだ」と身をもって教えてくれた夫のためにも、思いっきり人生を楽しんでいこう。夫が亡くなったときに、そう決めたことを思い出した。
どんな出会いがあるのか、何が待っているのか。
まだ味わったことのない、たくさんの素敵な景色を楽しみに。
口角を上げて、新しい世界を見に行こう。
思い出の物を、心穏やかに手放すには?
1. 「すべての記憶は体に刻まれているから、思い出の物がなくても大丈夫」と、安心する
2. 「過去」ではなく「今」のこの瞬間を味わい、楽しむことこそが人生の豊かさだということを、思い出す
3. 人はそんなに、強くない。無理せず、焦らず、のんびりと、気が向いたときに手放せばいい
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