「陶酔も十年つづけば、覚めた瞬間がやって来る」これを読んだ時、なんだか私のことを指しているようでドキッとしました。もしかしたら10年目、私にも「その瞬間」が来るのではないかと落ち着かない気持ちになったのです。どうせもやもやしているのなら
もっとズグラフィートに魅せられて
情熱を再確認する方法
石神 華織里 ( ズグラフィート研究家 )
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自由に生きるために
10周年には陶酔具合を確かめに行こう
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初めてズグラフィートに出会って10年が経った。続けるか否か自分の気持ちを確認すべく、ベルギーに渡航して起きた奇跡についての話
ベルギーの首都ブリュッセルで、初めてズグラフィートを見たのが2006年。以来その魅力にとりつかれた私は、転職や大学卒業のタイミングで渡航し、各地ですでに1,000軒以上撮影してきました。ズグラフィート研究生活も、今年で10周年になるわけです。今年は2年ぶりに渡航計画を立てていたけれど、それはいつもとは少し違う意図で始まっていました。
※編集部注:ズグラフィートとは、19世紀末から20世紀初頭に、ベルギーで建物に装飾された珍しい壁画のこと。世界的に、まだあまり研究されていない。石神さんがズグラフィートと出会った話は前作に詳しい。
池澤夏樹氏の『旅をした人―星野道夫の生と死』で、こんな一文があります。
「陶酔も十年つづけば、覚めた瞬間がやって来る」
これを読んだ時に、なんだか私のことを指しているようでドキッとしました。もしかしたら10年目、私にも「その瞬間」が来るのではないかと落ち着かない気持ちになったのです。
それまでの私がズグラフィートに陶酔していたとまで言える状態だったかは分からないけれど、もしそうだったとして。
覚めて「もっとズグラフィートを見たい、知りたい」となるか
「もうズグラフィートはいいや」となるか…
昨年末にふと頭に浮かんで以来、そのことを考えるようになっていました。
私はいつも何か心に突っかかるものが生じる度、思い出す言葉があるのですが、それは小澤征爾さんが指揮者になるか、家を手伝うかで悩んでいた際に彼の父親が言ったセリフです。
「自分が信じたことをやるなら成功、不成功はどうでもいい。問題は金が入ることではなく、どこまで信じてそれをやっていけるかだ… 」
これを自分に問い、気持ちを確認してきたものでした。でもその時は、自分のズグラフィートに対してもやもやした気持ちで過ごしていたのです。
(どうせもやもやしているのなら、ズグラフィートに会いに行こう)
「現地でいつものように調査をすれば、自分の気持ちがはっきりするのではないか」という思いから、会社の休みを調整し、2週間の渡航計画をたて始めました。
「それでも行くの?」私の決意を試すかのようなトラブルが
しかし、航空券の購入、滞在中の宿泊先をすべて予約し終えた数週間後、なんとブリュッセルで連続テロが発生してしまいます。
渡航に向けて準備をしていた私は、家族、親戚、友人たちなどから心配やお悔やみの言葉を受けました。そして母からは今回の渡航を強く止められました。
これまでも留学先や旅行で滞在中に似たようなトラブルはありました。
2005年 ロンドン同時爆破テロ事件
2006年 ロンドン旅客機爆破テロ未遂事件
2007年 スコットランドのグラスゴー空港でテロ事件
2014年 ブリュッセルのユダヤ博物館での銃殺事件
ベルギー政府がテロ脅威度を最高レベルの「4」としているし、母は自主的に渡航を止めるだろうと思っていたようで、これまでの経験から全く学んでいない私にがっかりしたかもしれません。
ここで「渡航を止めよう」と思わなかったのは、ロンドン同時爆破事件が起きた時お世話になっていたホストマザーのクリスから「テロを恐れて自分の行動を変えたら、テロリストに屈することになる」と言われていたことが大きかったように思います。
ズグラフィートと私の今後を考えるための渡航だったはずが、出発前から私を試すような事態になっていたと後になって思いました。
「いつも以上に気をつけて行ってくる!」
という私に、結局、母は折れて
「流れ弾に気をつけるのよ」
と送り出してくれました。なぜ流れ弾なのかは、母方の祖母が戦時中、家で食事をしていたら向かいに座っていた中学生くらいの男の子の首に流れ弾が当たって亡くなったから、「どんな時も気を抜くな!」ということだったんだと思います。
その後、幸いにも実行犯が逮捕されて、テロ脅威度は「3」に下げられました。
おかげで無事ブリュッセル国際空港に到着。
入国審査の列にドキドキしながら並んでいたけれど、「カンコー?」とか質問はすべて日本語で聞かれて、私は「イエス」を連呼するだけで入国のスタンプを押してもらえるなど、とても簡単に済みました。
もう通常に戻ったのかと思ったら、空港出口に向かう通路に機関銃の銃口を肩の高さで構えた兵士が2人向かいあって立っています。その時、通行人は私だけで、正直味わったことのない緊張感。空港だけでなく、駅構内や駅のホーム、街の中心地には、兵士や警察官が必ずと言っていいほど視界に入ってきます。「テロが起きるってこういうことなんだ」と、街の変化から改めて感じました。
勇気の一歩を踏み出すと、物語は転がり始める
偶然が重なり、修復士エリーが現れた
街の中心部はテロの影響でいつもと違っていたけれど、私が今回滞在した南部のサン・ジル(Saint-Gilles)や調査したウックル(Uccle)はいつもと変わらない印象です。
今こうして定職に就いて2週間の休みを取り、ブリュッセルでまたズグラフィート調査の続きをしていることが、自分のことなのに何だか不思議です。2年前、「もうこれが最後になるだろう」と本気で思っていたのですから。
調査開始2日目は朝から雨。震える寒さで撮影できるような状態ではありませんでした。さらに右脚の筋を痛めて、歩くだけでも辛かったのです。
仕方ないので調査を切り上げ、行ってみたいと思っていた現代建築専門の図書館へ向かうことにしました。すると、その図書館の向かいに足場がかかった建物があります。それはこれまでに何度も見ていた色褪せたズグラフィートの残る建物でした。
(これはまさか、修復中のズグラフィートでは?)
ブリュッセルにはまだ4,000~5,000軒のズグラフィートで装飾した建物があると言われているけれど、「修復作業中」のものを見つけるのは至難の業。前回3ヶ月滞在したときは見つけられなかったのに、今回はあっさり見つけてしまって驚きました。
アポなしで来たとはいえ、ズグラフィート修復士のエリーと直接連絡が取れず、私は少し焦っていました。彼女を紹介してくれた日本人の友人に伝えると、私に代わって連絡を取ってくれて、エリーが近々ブリュッセルで修復をすることがわかりました。
その後、送られてきた住所はエルミタージュ通り。
住所を見て、こんな偶然があるのかと驚きました。エリーがこれから修復するズグラフィートは、なんと脚を痛めたあの日に見つけた建物だったのです。
(あのまま連絡がとれなかったとしても、エリーと私は出会う運命になっていたらしい)
作業をすると聞いていた日、そこへ行くとエリーが足場で作業をしていました。私が作業の様子を通りから静かに見ていると、エリーが私に気がつきました。
作業中だったのに足場から降りてきて、
「あなたが日本からズグラフィートを見に来た人?」
から会話は始まりました。
エリーとは初対面だけれど、日本人の友人が私のことを売り込んでいたお陰もあって、私がfacebook上でベルギー各地のズグラフィートの画像を「Belgian sgraffito addict」で紹介していることや日本で制作もしていたことを覚えていました。
「信じられないよ、奇跡だよ」
10年越しに叶った、至福の修復作業
私がズグラフィートについて質問攻めしていたら、「見た方が早い」と、足場に上がって
「実際に見てみない?」
と提案してくれました。
エリーと会って話せただけでも嬉しいのに、私にとっては夢のような誘い!
実は「こんな日が来たら良いな」と日本の建設現場で足場作業をしていた私は、エリーに付いてすいすい登っていきました。
私は修復するエリーとズグラフィートを前にして、更に質問攻めに拍車がかかっていたのか、
「やってみる?」
と信じられないような提案をされて、ほんの少しの時間だけれど色褪せた所に色を塗る修復をやらせてもらいました。
日本でフレスコ教室に通い、ズグラフィートをレンガ片やボードに制作したことはあったけれど、壁に装飾をしたいという思いは叶わず、その思いすら忘れていました。
まさか本場ブリュッセルで叶うなんて思ってもいなかったし、壁に色をつけながら
「信じられないよ。奇跡だよ。私が本物の壁にこんなこと… 」
とぶつぶつ呟いていました。
するとエリーが
「写真撮ろうか?」
と言ってくれて、作業する私を撮ってくれたのです。
(これが私の人生のクライマックスじゃないといいのだけれど… )
夢でも出来過ぎなくらい、これ以上のことが思いつかないくらい、至福の時間でした。
(2006年からの紆余曲折が、この作業をするためだったのなら、なんて素敵な日々だったんだろう)
とまで思えた。
その修復した壁に描かれていたのは、昔、近所の人たちがその周りに集まって楽しい時間を過ごしたという月桂樹でした。花言葉を調べてみると、月桂樹の葉は
「NO CHANGE TILL DEATH」(私は死ぬまで変わりません)
思いがけないズグラフィートからのメッセージ。予言していたのか、と思ってしまうような花言葉に手が震えていました。
歩み続ける者は、同志を引き寄せる
修復士のなかには「大学出身者」と「職業訓練校出身者」がいて、エリーは後者でした。だから私に「やってみる?」と聞いてくれたようでした。
エリーがズグラフィートの修復士になったのは、母国フランスからブリュッセルへ遊びに来る度、ズグラフィートを見ていたからでした。そして「自分はこれが好きなんだ」と思い、ブリュッセルの職業訓練校で修復を学んだのだと教えてくれました。しかし男性の先生たちに修復士として働けるよう頼んだけれど採りあってもらえなかったという苦労もあったようで、やっと女性の先生の下で働くことになって5年後、先生が亡くなったことを機に独立したのだそうです。
テロ実行犯が捕まって、街の人々はリラックスして過ごすようになったけれど、
「(この時期に日本から)よく来たよね」
とエリーに言われて、私が
「だって好きなんだもん」
と応えると、ふたりで大笑い。
エリーは世界中のズグラフィートに精通していたので、とても勉強になりました。私が前日に撮った珍しいズグラフィートの画像を見ながら、ふたりでデザインした人を予想したり、初対面だったけれど
(好きなものが一緒だと、こうも打ち解けられるものなんだ)
と感動しました。
やはり情熱は冷めやらぬまま。ズグラフィートへの陶酔はこれからも続く
予定していた調査は計画通り進み、私はベルギー10州の州都すべてを見終え、イークロー<Eeklo>で内装装飾として残る(恐らくベルギー最大の)ズグラフィートを見ることができました。
警戒していたテロは起きず、万一誤射されないように目立つ色の格好をしていたことは無駄に終わり、ほっとしました。(普段日本では目立たないよう全身黒づくめの格好なのです)
ウックルの通りで撮影していたら
「ズグラフィートを見たいなら、イクセル<Ixelles>に行った方が良いわよ。車で送りましょうか?」
と声をかけてくれた女性もいましたし
「建物が好きなの?」
と昔から富裕層が住む豪華な建物の並ぶ通りを案内してくれた女性もいました。こういう親切な人との出会いが、私の警戒心を解いてくれました。約1週間お世話になった宿の主人アントワンは、私が宿を発つ前夜に
「普通の旅行者だと思っていたから、あまり協力できなくてごめんね」
と悔いていました。建築好きの彼がコレクションする本や冊子の中からたくさん貴重なものを貸してくれたり、私の調査に興味津々な様子が私はとっても嬉しかったのに。
「カオリ、次回ブリュッセルに来たら必ず連絡してほしい」
ということでメールアドレスを交換したら、私のアドレスを聞いてアントワンは大笑い。
kaori.belgiansgraffito@xxxxx.com (※一部伏字)
「カオリはどれだけズグラフィートが好きなの!」
と思ったのかもしれません。
素敵な人たちと出会い、本物のズグラフィートに色を付けることができ、良いこと尽くめの、本当に奇跡のような2週間でした。ネガティブな私は「最後に何か良くないことが起こるんじゃないか」と帰国前夜はそわそわしてなかなか眠れず。結局、腕時計が止まったくらいで、特に何も起きませんでした。
街でテロが起きても逃げるとき邪魔にならないよう8㎏弱の軽いバックパックを背負って来たのに、新しいスーツケースに本や冊子、チョコレートを詰め込んで、帰る頃には23㎏まで増量していました。それ以上に、私の心は、今回の様々な出会いと思ってもいなかった経験によって、はち切れんばかりにパンパンでいて、とても軽やかになっていました。
どこまで信じてやっていけるか、
私はこれまで以上にやっていきたいと、切に思ったのです。
情熱を再確認する方法 1. 10年たったら立ち止まり、気持ちを確かめてみるのもいい 2. 行く手を阻むようなトラブルが起こるけど、気をつけて前に進む 3. 偶然や奇跡に導かれたなら、「迷わずその道を進め」というサイン |
石神さんのズグラフィートについての過去記事
TOOLS 33 ズグラフィートに魅せられて – 一生楽しめる情熱に出会う方法