【第230話】気楽に生きよう抱きしめてやる / 深井次郎エッセイ

 


まじめなことは素晴らしいが、
それを盾に批判する権利があるわけではない

 

「自分はまじめにやってきました!」

兄は父親につめ寄りました。

「それなのになぜ父上は、ならず者の弟ばかり可愛がるのですか!」

これは聖書に出てくる古典的な小話「放蕩息子のたとえ」の一場面です。 ならず者の弟は、父親から相続分の財産を要求し、それをもって腕試しに遠くに旅に出ます。しかし、うまくいかずお金も使い果たし、ボロボロになりながら、その日、実家に舞い戻ってきたのです。

「父上、ごめんなさい。恥ずかしながら帰ってまいりました。あんな形で出て行ったのですから、いまさら家族に戻れるとも思っていません。使用人として働くので置いてくれませんか… 」

父親は、ぴしゃりと突き返すと思いきや、弟に駆け寄り抱きしめました。

「よくぞ帰って来た! ずっと心配してたんだぞ。今日は子牛でごちそうだ。皆の衆、盛大なパーティーの準備をたのむ」

兄は、その待遇に怒りました。

「自分はこの家のために、言いつけを守って、やるべきことをやってきました。それなのに、父上は私にはこんな豪華なお祝いなどしてくれたことないじゃありませんか。この弟は遊び歩いて、父上の大切な財産を失ってしまったのですよ! 」

「よいではないか。お前はいつも私と一緒にいるし、私のものは全部お前のものだ。しかし、弟は、いなくなったのに帰ってきたのだから、喜び祝うのは当たり前だろう? 」

それでも兄はふてくされたままです。

 

なぜ父親は、挫折した弟を祝福して迎えたのか

さて、この真面目な兄と、放蕩息子の弟。あなたはどちらにシンパシーを感じますか。たいていの人は、どちらの立場も経験があるのではないでしょうか。

ネットで気軽にだれもが意見を言えるようになってから、批判され、叩かれ、炎上するニュースが毎日のようにどこかでありますが、多くのケースで、この「真面目な兄から放蕩息子の弟への批判」という構図が多いことに気がつきます。

ぼくは特定の宗教をもちませんが、聖書のこの話は、いろんな示唆が隠されていて好きです。弟はダメでバカなやつなのですが、神さまはそういうものにも祝福をしてくれます。弟は、自信満々で旅に出ましたが、失敗しすべてを失い、まわりからも笑われ、傲慢さもへし折られ、うぬぼれも消え失せました。もう何もない。カッコつける余裕も元気も、絞り出そうとしても一滴もでない。泣き顔も、ボロボロに汚れた服も、バカにする人はバカにすればいい…。限界の状況です。

「自分が間違っていました、迷惑かけて申し訳ありませんでした… 」

完全にノックアウト。自分の限界を知った人は、逆に自由になれます。自分の弱さを受け入れ、ゆるすことができて前に進める。自分をゆるすことができると、他人をゆるすことができて、初めて人は自由になれるのです。人として大きくなったことを、父親(神さま)は祝福したのでしょう。そうやって器を広げなさいと。

 

「つめる」兄的上司と「ゆるす」弟的上司

義務を守ることだけが誇りの人、つまり兄の視野はせまくなりがちです。人間のこころには、「頭ではわかっていてもできないこと」があるとか、そういう二面性が、理解できないのです。

「なぜ失敗したの。そんなのダメだって常識的に考えればわかるよね、なんなの、バカなの?」

兄的な上司は、このように部下を責めます。でも、挫折した経験のある弟的上司は失敗した部下も受け入れられます。

「ああ、わかるよ、やっちゃうことってあるよね… 」と。

自分の限界や弱さを知った人は謙虚になります。だから、他人の過ちや至らなさ、弱さをゆるすことができるのです。

 

父親は「えこひいき」なのか

学生たちにこの話をしたことがありましたが、「父親はひどい、ひいきだ、兄がかわいそうじゃないか」という意見がでました。

でも、本当は光はだれにでも降り注いでいるのです。それなのに、あの人ばかり光があたって… と思い込む。

兄は損だと思いますか? 父親は特別、兄に冷たくしたことはありません。財産は、3分の2(当時の法律で長男はその割合を継ぐ)を与えていますし、毎日いっしょに父親といて恩恵を受けています。兄に対しても同じように愛を与えています。それなのに兄は、弟への妬みによって、冷遇されていると受取ってしまいます。ただの妄想、勘違いです。弟との比較によって、恵まれているはずの今の状況を幸せだと感じられないのです。

義務を守り勤勉であるだけがとりえの兄は、自分にはなんの落ち度もないと自信があるので、平気で人を批判しがちです。批判する権利があると勘違いしてしまうのです。

「義務を守って落ち度がない兄」と、「リスクをとって冒険に出て、自分の道を切り開こうとした弟」と、どちらが優れているわけでも偉いわけでもないのにです。

もちろん、真面目に義務を果たすことは楽ではありません。立派なことです。立派なのはわかりますが、だからといって偉そうに人を批判できる立場かというと、それはないでしょう。

従順で、間違いを犯していないこと。ただ義務を守るだけでは、それは生きていることにはなりませんよ、とこの話は言っています。兄は、本当の意味で自分の人生を生きていないのです。自分にしかない才能を磨こうとも活かそうともしていない。与えられた財産(当時、貨幣の単位をタラントといった=タレント=才能)をそのまま死蔵しただけ。行動をしないで批判だけする人の典型的なパターンだと聖書は説いています。才能は使い果たせと。

兄は、他人を理解することができないのです。無理目な状況にチャレンジしたこともないので、失敗も挫折経験もありません。自分の弱さを思い知るチャンスもないので、傲慢さは募るばかり。限界まで追い込んだことがないので、自分の幅を広げることができないままです。

一方で、好きに生きた、出し切った弟は、ねたむことをしません。自分は義務を果たせていないのではないか、という負い目もあるし、好き勝手やってる自分が優遇されなくてもしょうがないと諦めて、謙虚でいるからです。

 

選ぶことが生きること

大学4年生で、家業を継ぐかどうか迷っている若者がいました。彼は、学校を卒業して、ほかの企業に就職しました。それでも「やっぱり」ということで、10年後に継ぐことにした。彼の父は喜んだといいます。

「惰性で居続けたわけではなく、自分の意志で帰って来たんだからね。それはうれしいよ」

たまたまではなく、帰ることを選んだ。「いろいろ試した上で、自分で人生を決めた」ここが父親にとってはうれしかったのです。

会社でも抜擢されるリーダーの多くは、若いころから枠にはまらない弟でした。 たとえば、HONDAも本田宗一郎氏のあと、3代目として久米是志氏が社長の座につきましたが、彼は技術面で本田さんと対立して一歩も譲らず辞表を何度も出し、失踪事件まで起こしたことのある問題児だったといいます。創業者に対しても反発する骨のある人だった。そして、それを喜び評価できる本田さんも父親のような器です。


「ええかげんなのがうちは社長になるようになってる」本田さんはこのスピーチでも語っています。(1:50あたり)

 

「真面目にやってるのに出世できない、おれは失敗していないのに… 」と悩む30、40代ビジネスマンも多いようです。でも、もしかしたらリーダーになれないのは、「失敗していないから」かもしれません。

だれだって、道を誤った人を批判したくなることもあります。優遇されている(ように見える)人に嫉妬心を覚えることもあります。「おかしいじゃないか、ひいきじゃないか! 」
でも、そういう時は、この小話を思い出すのです。そのとき客観的に自分をみつめてみると、たいてい兄のようになっている時なのです。ただ義務をおとなしく守っているだけ。人を批判する権利はどこにもないのに。

反対に自分が弟の立場のときは、兄から批判されることも覚悟しなければなりません。兄と戦ってはいけません。兄は自分には批判する権利があるとかたく信じていますし、受け入れる器もありません。兄には頭を下げることです。心配かけたこと、散財してしまったことに関して謝罪します。 ここで「おれは悪くない」と言ってると炎上はおさまりません。

弟は挑戦することとセットで、上手な帰還のしかたも覚える必要があります。これがなかなか難しく、若い頃に失敗を経験をしていないと、帰還のしかたがわからず、恥じて死を選ぶ人さえいるのは悲しいことです。ぜったいにあってはなりません。

とにかく生きて帰還すること。素直に謝罪して帰還すれば大丈夫。きっと兄はゆるしてはくれませんが、神さまは、冒険するものにいつもやさしいのです。かならず祝福で抱きしめてくれます。

 

 

(約3523字)

Photo:Mr Hicks46

 

 

 

 


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。