スポールボーイズ 【第1話】 僕がクロアチアを目指す理由 <前編>

世界最古の球技スポールブール週末日本代表森川寛信のスポールボーイズ

「なんて、美しいんだ」彼らの投球フォームは、軽やかなリズムを刻み、心地よい衝突音を奏でて、次々と僕らのボールを弾いていく。試合中の僕らにとってクロアチアは、何度ボールをビュットに近づけたってほぼ100%の確率でことごとく弾かれていく、まるで悪魔のような相手だった。

連載「スポールボーイズ」とは  【毎月1話更新】

「いつか何かで世界一になりたい」少年のころ、だれしも一度は夢見たことがあるのではないだろうか。むろん、今では照れて口には出せないが。「実は会社勤めをしながらでも日本代表になれるスポーツがあります」森川寛信さんは、スポールブール日本代表となり世界ベスト10を達成したことがある。週末だけの活動でも、やり方次第で日本代表になれるのだ。今回は、とうにボーイズとは呼べない年齢の男たちが、さまざまな動機で集まった。自身の誇りと、少年時代の夢と、日の丸を背負って世界を目指す。スポールブールとは世界最古の球技だが、日本では超マイナースポーツと言っていい。なにせ競技人口は全国でたったの20名ほど。「絶滅危惧種」として存続が危ぶまれている。そんな日本チームが世界で勝ちにいく。彼らが目指す舞台は9月下旬にクロアチアで開催される世界選手権。はたして世界ベスト8の壁を突破できるのか。世界一に憧れるすべての大人たちへ贈る、現在進行形スポーツドキュメント。

 

第1話 僕がクロアチアを目指す理由 <前編>

 

TEXT & PHOTO 森川寛信

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目次
1.僕がクロアチアを目指す理由 弓倉陽介の場合 
   「前よりもよい、を繰り返して生きていきたいから」
2.僕がクロアチアを目指す理由 中島秀彰の場合 
   「自分にしかできないことがやりたいから」

 

 

 1.僕がクロアチアを目指す理由 弓倉陽介の場合 
     「前よりもよい、を繰り返して生きていきたいから」

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2013年10月、地球の裏側アルゼンチンで開催された彼にとって初めての世界選手権は、僅か5分間で幕を閉じた。 不思議と、悔しさはなかった。

2013年2月にスポールブールと出会い、その年の6月に日本代表に選出され、10月には日の丸を背負って世界の舞台に立った。いくら競技人口減に苦しむマイナースポーツとはいえ、このスピード感は聞いたことがない。異例である。自分が世界選手権に出られるなんて想像すらしていなかった。最後の最後まで、本当に自分が行っていいのか、という葛藤があった。

大手メーカーの研究職に身を置く彼は、毎朝6時に出社し、帰宅は24時を回っているのが日常だ。平日には1mmのスキマもなく、必然的にスポールブールの練習は週末に限られる。然るべき結果を出しての出場ではなく、今後の期待を込めたいわば「経験枠」としての出場という側面もあった。そんな彼にとって、たった5分間の晴れ舞台と23ヵ国中22位という結果は、妥当であろう。最下位でなかったことが、むしろ奇跡だ。

弓倉の場合、もともと日本代表に興味があったわけではない。 単に趣味として長く続けられそうなスポーツを探していた中で、たまたま出会ったのがスポールブールだ。軽い気持ちで参加した練習会で、ビュットに向かってボールを転がす「ポワンテ」の投げ方を習った。弓倉のポワンテは面白いようにビュットに寄り、それが面白くて弓倉は毎週練習会に顔を出すようになった。 世界一になりたい、日本一になりたい、弓倉はそんな大層な夢は描いていない。ただ、前よりもよい、を繰り返して生きていきたい。前よりも少しでも寄るように、前よりも少しでも当たるように、前よりも少しでもうまく、そして前よりも勝てるように、前よりもより強い相手に。きっと弓倉がこう思ったのは、きわめて自然な思考の流れだったのだろう。

「そうだ、僕は日本代表になろう」

弓倉のような一介のサラリーマンにとって、休みでも年末年始でもない10月に10日間の休暇を願い出て、片道40時間以上かけてアルゼンチンの片田舎バイアブランカにいくには、ちょっと勇気が必要だ。ちなみに、この世界選手権が彼にとっての初海外でもあった。世界選手権出場と聞くと、渡航費等はすべて経費で賄われ、フライトはビジネスクラス? などという想像をされるかもしれない。それは一部のメジャースポーツの世界で、マイナースポーツにおいては、協会から数万円の補助金こそ支給されるものの、基本は自腹での参加である。しかしながら、たった5分間のバイアブランカは、それでもなお、彼にかかえきれないお土産をくれた。

2年前、彼はいわばボールの投げ方も定まらない状態で世界の舞台に立ってしまった。 スポールブールの投球フォームに正解はなく、百人百様である。上手投げもあれば下手投げもある、6歩助走で投げるのが一般的だが、3歩しか助走をとらない選手もいる。投球フォームにアラーへの祈りを組み込んでいるモロッコの元世界チャンピオンもいる。しかしながら、トップ選手のフォームは、例外なく美しい。僕らがダブルスの試合で世界最強クラスのクロアチア相手に手も足も出なかった試合を見て、おそらく彼だけは、監督や他選手とは全く違うことを考えていた。

「なんて、美しいんだ」

彼らの投球フォームは、軽やかなリズムを刻み、心地よい衝突音を奏でて、次々と僕らのボールを弾いていく。試合中の僕らにとってクロアチアは、何度ボールをビュットに近づけたってほぼ100%の確率でことごとく弾かれていく、まるで悪魔のような相手だった。弓倉にはきっと、美しい音色を奏でる天使のようにでも見えたのだろう。世界選手権で目に焼き付けたトップ選手達の投球フォームを反芻しながら、世界選手権後の1年間はフォームにとにかく拘った。ボールの軌道を数学的に計算できるのは、理系で研究者の道を歩んできた弓倉ならではであろう。たった1年間のトレーニングで弓倉が、幼少期からスポールブールだけをやってきたクロアチア選手に追いついたとは到底思えないが、アルゼンチンからちょうど1年が経過した頃、彼なりのひとつの「美しいフォーム」に到達した。

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アルゼンチン世界選手権にて、他国選手の投球フォームを熱心に見入る弓倉。

アルゼンチン世界選手権(2013年10月)にて、他国選手の投球フォームを熱心に見入る弓倉

 

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2015年2月の記録会では、コンビネ22点という日本タイ記録をマークした。※1これは、彼にスポールブールとの出会いを与えてくれた師匠に並ぶ記録だ。いまの弓倉に、2年前の葛藤はもうない。

「きっと目標としては、予選突破になるのだと思います。でも、なによりまず、勝つ経験がしたい」

「勝ち」に拘る。勝ちの積み重ねが、予選突破であり、その先の世界を切り拓く。 2015年、決戦の地は、彼が憧れたクロアチアだ。

2015年は弓倉にとって、山盛りだ。実は弓倉は、2015年1月1日から大阪に赴任している。部署もこれまでの研究部から新規事業開発部に異動となった。そして、プロポーズの成功。おめでとう。 今年の日本代表は6月末に選考されるが、自身の結婚式を7月4日に控えている。

「新婚旅行はクロアチアにしたら? 」

僕(森川)は冗談でこう提案した。

「いやいや、無理です無理です」

いつも真顔の弓倉は、いつも以上の真顔で否定した。 弓倉陽介29歳。クロアチアへの道中には、2年前とは違う葛藤があるのかもしれない。

 

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 2.僕がクロアチアを目指す理由 中島秀彰の場合 
       「自
分にしかできないことがやりたいから」

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きっと誰もが経験することなのかもしれない。 学生時代はあんなに輝いていたはずの自分が、気づけば大きな目標を見失い、そして輝きを失っていく。中島のスポールブールに賭ける情熱は、そんな窮屈な社会のレールへの抵抗だ。

過去の中島は、常に「場」の中心にいた。 多国籍に囲まれながらベルギーで過ごしたという幼少期に、きっとその素地はつくられたのだろう。 中学時代、演劇部で文化祭の主役を飾り、合唱部ではソロパートに抜擢され、九州大会出場の立役者となった。 高校時代、生徒会や学園祭実行委員の代表として甲子園や花園の応援を率先し、卒業後10年が経ついまでも後輩の人望が厚い。 デジタルハリウッド大学という当時設立間もない大学に進学した彼は、ここで映像制作サークルを立ち上げる。クリエイティヴの最先端ともいえるデジハリ大で立ち上げたこのサークルは、中島卒業後も数年間に渡って続き、そして語り継がれた。

中島がいつも全力で頑張る背景には、父親の仕事の都合で幼少期から引っ越しを繰り返してきた経験がある。山口で生まれ、ベルギーに引っ越し、東京、山梨、鹿児島、川崎、そして横浜と、転々としてきた。

「転入生はなめられたらダメなんです、いつも、話題の中心にいないと」

どこに行ってもアウェー戦。そんな価値観が、彼が「頑張り続ける」源泉だ。

大学卒業後、ITベンチャー花盛りの時代にITベンチャーでの修行を経て、学生時代に一時期アルバイトをしていた人材系企業に転職した。学生時代、僅か7名のどベンチャーだったその会社は、中島のいない間にその規模を3倍に拡大していた。創業期でただでさえ人手不足なうえ、学生というだけで重宝されていた当時とは異なる雰囲気に、中島は戸惑いを隠せなかった。入社後、さらに100名規模にまで破竹の成長を続けるベンチャー企業と反比例するかのように、中島はあたかも自分の存在がちっぽけになっていくかのような錯覚を覚えた。

「自分にしかできないことがやりたい」

輝いていたあの頃の自分を取り戻したかった。休みのたびに、自分探しと称して世界を彷徨った。そんなとき、フェイスブックのタイムラインに流れてきた「日本代表候補募集中! 」という一つの広告に、中島は自分の未来を見つけた。

「そうだ、僕は日本代表になろう」

実は、2013年にようやく本格的にスポールブールの普及活動に着手した僕は、広報活動なんて右も左も分からないまま、とりあえず流行に乗ってフェイスブック広告を出稿した。「日本代表候補募集中! 」というテキストに日の丸の画像、リンク先はやっつけ感満載のフェイスブックページ。6,000円の予算(当然自腹だ)で、約100人の「いいね! 」とたった1名の練習見学者を獲得した。その1名が中島だった。実は中島は僕の高校の後輩だ。ちょうど6歳離れているので、当然何の面識もなかったけれど。そして、僕のスポールブールの師匠も、年齢はふた回り近く離れてはいるが、僕の高校の先輩だ。当時まだ彼がきちんと続けられる選手に育つかどうかも分からなかったが、偶然かもしれないこの巡り合わせに、僕は少しだけ確信に近いものを感じたのを覚えている。

あれから2年が経った。全身から醸し出すスポーティーな雰囲気とは裏腹に、実はスポーツはあまり得意ではないし、体力もない。夏場の練習では、ひとりバテて倒れ込んでいたことも一度や二度ではない。2014年に初めて日の丸を背負っていった中国遠征では、強豪中国相手に手も足も出なかった。そんな彼の転機になったのは、2014年11月に開催された全日本オープン選手権だ。この大会は僕らベテラン選手は運営側に回り、2015年の世界選手権を目指す選手を中心に日本全国から10名程度の新参選手が会場である御殿場に集った。すでにビギナーではない中島や弓倉にとっては、当然「優勝」という無言の圧力がかかる。この大会では、シングルとプログレッシブ※2という2つの種目が行われた。 

 

中国遠征で、中国チームとの記念撮影。(後列左から4番目が中島)

中国遠征で、中国チームとの記念撮影。(後列左から4番目が中島)

 

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プログレッシブは弓倉が圧倒的な強さで制したが、シングルでは予選ラウンドを中島と弓倉が同率で並んだ。決定戦は、時間の関係で1ラウンドのみというイレギュラーな形式ではあったものの、中島が弓倉を下して優勝した。

「いつか日本記録を更新したい。でも自分が日本代表として世界選手権に出場することにそこまで拘りはないです」

あくまで中島は謙虚だ。でも、この大会で中島が掴んだのは、金メダルだけではなく、クロアチアへの確かな手ごたえだろう。

「スポットライトを浴びているときが一番、気持ちいいんです」

中島は今年で29歳になる。1つ前のスポットライトはいつだったのだろう。でも、次のスポットライトはきっともう手の届くところにある。  (了)

 

練習会での一コマ。中島(左)と弓倉(右)

練習会での一コマ。中島(左)と弓倉(右)

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 ※1 コンビネという種目は、全6種目のうちでもっとも基礎力が問われる種目だ。1対1で、各4球のボールを使い、8メーヌ(ラウンドのこと)を争う。メーヌごとに、「ティール(ボールを投げてターゲットに当てる)」と「ポワンテ(ボールを転がしてビュットに近づける)」の役割を交互に行う。まず、コートの反対側に向かってビュットを投げ、そのビュットを中心に直径70cmの円を描く。そして、「ポワンテ」の役割のプレイヤーが、ビュットに向かってポワンテする。その円の中に自分のボールが入れば得点が加算される。入らなければ、1メーヌ4球という持ち球の中で、入るまで何度でもポワンテする。ポワンテが入ったら、続いて「ティール」の役割のプレイヤーが、円の中の相手のボールに向かってティールする。相手のボールに直接ヒットするか、相手のボールから50cm以内に落下してヒットし、円から相手のボールを弾きだせれば得点が加算される。同様に、当たらなければ、相手のボールを弾きだすまで何度でもティールする。かくして、ポワンテとティールを交互に同じ回数ずつ行い、8メーヌ終わった時点で得点を競うのだ。

※2 プログレッシブは、約25mのコートを5分間走りながら、コートの両端に置かれたターゲットボールに向かってボールを投げ続けるスポールブールの花形種目だ。ターゲットボールには6つのポジションがあり、1回当たるごとにターゲットボールは1つずつ遠くに配置される。一番遠い6つ目まで当てたら、今度は1つずつ近くに配置していく。これを5分間繰り返して得点を競う。現在の世界記録は、2014年11月のU23世界選手権で本場フランス選手が叩きだした51/51。51/51、これは51球投げて1球も外さずすべて当てたということを意味する。しかも5分間で1.2kmをほぼ全力で走りながら。ちなみにアジア記録は、2011年の世界選手権で中国選手がマークした42/49。このスコアは、中国チームに初のメダルをもたらした。日本記録は30点、その差は果てしなく大きい。

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(次回もお楽しみに。月イチ更新予定です)

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 連載バックナンバー 

第0話 僕がスポールブールを辞めた理由(2015.3.1)

 


森川寛信

森川寛信

(もりかわ ひろのぶ) 週末日本代表。 1981年、東京生まれ。大手ゲーム会社に勤務する傍ら、世界最古の球技「スポールブール」日本代表として、2005年から2013年まで5回連続世界選手権出場。(2007年世界10位)仕事ではゲームクリエイターとしてアーケードゲーム開発に携わった後、現在はインドネシア・ブラジルなど新興国市場開拓業務に従事。「大きく学び、自由に生きる」がテーマの学び場「自由大学」にて、「じぶんスタイル世界旅行」http://freedom-univ.com/lecture/world_travel.html)の講義を担当。海外出張、スポールブール遠征、世界放浪、世界一周新婚旅行などで訪れた国は50ヶ国以上。学生時代から「マインドマップ」を愛用しており、2013年に英ThinkBuzan公認マインドマップインストラクター資格取得。2005年慶應義塾大学商学部卒業。