面倒な映画帖47話 ダメな人にダメな人『私の男』/モトカワマリコ

面倒な映画帖「ホール係なのに注文を取らない」とか「オーダーを間違える」にとどまらず、客の料理を食べ、酒に口をつけてしまう。暗黙の了解として、厨房からテーブルまで「客に権利」があるはずの料理や酒が、彼女の手に渡ると、盆の上のものの優先順位は、客よりも自分のほうが上なのだ。彼女の盆の上は、忖度も、常識も資本主義も威力を持たない無法エリア。

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映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

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面倒な映画帖47話「私の男」

ダメな人にダメな人

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  粋なおばさんが仕切る、大陸仕込みの居酒屋 。名物はハッカクが強烈な中華スパイスで煮込んだモツと、味の素でジャリジャリする焼きそば。お酒はなんでもあるが、みんなパイカルやウーカーピーなどの大陸の蒸留酒をあおっている。小柄なおばさんは、往年の美人。立ち働く厨房には亡き夫の写真を大事に飾っていた。昭和20年代に大陸から引き揚げてきて、当地仕込みの料理を売り物にそれまで暮らしてきたのだろう。男客に交じって蒸留酒を頼もうとすると、「女の子は体に障るから」と出してくれない。少しむくれながらも、気にかけてもらえるのが心地よかった、だから娘ぶって言うことを聞いて、シロップのように甘い杏酒をなめなめ、店の様子を眺めているのが好きだった。

 

おばさんはもう一人いた。その人は、いわゆるホール係で、客の注文をとったり、料理を運んだりする係なのだが、ほとんどしゃべらない、人と目を合わせない。店をうろうろしたり、座り込んだりしているだけなので、諦めた客は大声で厨房のおばさんに欲しいものを叫び、おばさんも巨大な中華鍋を振りながら「はいよ」と応える。料理ができると、カウンターに出してホールおばさんが運ぶのだが、なかなか仕事をしないし、要領が悪い。料理を出す客を間違えるし、お酒はこぼす。「運んで頂戴よ!」と命令されるまで、テレビの前の椅子に座って、コップ酒をちびちびのんでいる。そして、時には客に運ぶ酒を呑んでしまう。何の気なしにうっかり呑んじゃったと言う風で、店主はうんざりした顔をして「だめじゃないか、とんでもないね、この人は!」と厳しく叱りながらも、本気とは思えない。 常軌を逸したアウトロー

 

すごい、と思った。私は宿題をしない、遅刻は毎日、忘れ物多数、という子どもで、まあまあアウトローだった。家では、疎まれてはいても、面倒をかけないように気を付けていたので、放置されていた。無力な人間が生きていくためには、最低でも存在を否定されないようにしないといけないと思っていたからだ。でも、彼女は周囲の思惑をまったく恐れてはいない。「ホール係なのに注文を取らない」とか「オーダーを間違える」にとどまらず、客の料理を食べ、酒に口をつけてしまう。暗黙の了解として、厨房からテーブルまで「客に権利」があるはずの料理や酒が、彼女の手に渡ると、盆の上のものの優先順位は、客よりも自分のほうが上なのだ。彼女の盆の上は、社会常識も正義も資本主義も威力を持たない無法エリア。ホール係という立場を簡単に脅かす行動をとっても、文句は言われても追い出されはしない。もちろんびっくりしたり、怒ったりする客もいる。店主は「この人ね、かわいそうな人なのよ、大目に見てあげてね」何かあるたびにそう庇い、言い訳をする。常連は、細腕で一人店を切り回すおばさんには逆らえない。大陸っぽい荒々しい料理、苦いほど茶色く煮しめたモツを噛み下しながら、ユーラシアの町で働く開拓者だったおばさんの若き日々を勝手に想像している。夢破れ、夫に先立たれ、残ったのは中華鍋と東北料理、怠け者でアウトローな従業員。人生ってほろ苦い、そんなことの問わず語りで肴に呑める、侘しい、心揺さぶられる店だった。

 

別のある日、終電を逃して24時間営業の喫茶店「蔵王」に行った。今頃の秋口で、夜明かしの客がバラバラいるだけだったのだが、座った席の近くのソファに横たわる人が。細くて頼りない手がだらんと垂れ下がっている。汚れた服でぐったりしていて、まさか死んでいる?と思ったが、時々ピクリ動くところを見ると、生きている。こちらに向き直った顔に見覚えがあった。ホールおばさんだ。終電を逃してしまったんだろうか、そもそも帰るところなどなくて、毎晩夜中まで居酒屋で働き、朝まで24時間営業の喫茶店でコーヒー一杯頼んでしのいでいるのかもしれない。無防備な喫茶店の椅子で、きちんと体を伸ばして眠れない生活をどのくらい送っているんだろう。朝になったらどうするんだろう。そんな不安定な生活を送っているから、働きにならないんだろうか。居酒屋のおばさんは、身寄りがない、おそらく住所もないこの人に同情して雇っているのかもしれない。彼女が路上で眠らない選択肢はこれしかないのかもしれない。

 

彼女の寝息を聞きながら、なんだか目が離せなくなる。必要以上に接近しそうになる。例えばこの人を家に連れて行って、お風呂に入れて、食事を出し、衣服やお金を与えてみたらどうだろう。財力の限りを尽くして、精いっぱいの奉仕をしてみたら?そうしたらこの人は、どうするだろうか。きっと彼女は、迷惑そうに好意を受け入れてくれるが、また汚い服を着て、有り金を当然のように持ち出し、出て行ってしまうだろう。そういう「オチ」さえ想像しながら、想像通りに残忍で、非情な老女に傷つけられる危険を想定しながら、「私の家に行きましょう」と声をかける誘惑にかられる。ここでのポイントは、奉仕する側が下手に出ているところだ。喜んでくれなくても、無理やり貢献したい。恩を売って支配するという、パワーゲームの法則とは違う、薄暗い心の奥底から沸き起こるマゾヒスティックな欲望、望まれていないのに、無理やりお世話をさせてください、と懇願する、なんだかムラムラした気持ち。

 

私がいなければだめなのよ…共依存の誘惑

「私の男」というフランス映画は、そういうヒロインがやってしまった話。町で拾った浮浪者をきれいに洗ったらいい男で、家で養っていたら、女性関係でやりたい放題されて、すっかり翻弄されて、うんざり、という都会のおとぎ話のようだ。一夜を共にした朝、男に焼き立てのカリカリのパンを食べさせようと「クロワサン、クロワサン」とつぶやきながら、朝もやのパリを走るヒロインがクレイジーだった。彼女は娼婦なのだけれど、自分よりも弱い人間をムリヤリ自分の上に君臨させたいという誘惑に駆られる。男は、エナメルの靴をはき、チャラいロクデナシに変身、少しも悪いと思わず、当然のようにヒロインの好意を利用する。女から取れるだけのものを全部取ると、女に買ってもらった服を着て、女の金で別の女をひっかける。そしてだらだらと別れない。どんな役割を振られても、男は素のママ、自分でしかない。片方は演じているけど、片方は素なので、段々にこの「楽しいお遊び」は成立しなくなる。男は、もう少し恩を感じて、夢を見させてあげるとか、せめてタイミングよく有り金を奪い、ひどいセリフを浴びせて女を捨てる・・・というエンディングできちんと「リアリティショー」に幕引きをするのが、エチケットだろう。うまく利用しようとするばかりで、女を開放する親切心もない身勝手な男。男盛りの俳優ジェラール・ランヴァンは美しく、こんな渋い彼氏がそばにいてくれたら不誠実でも嬉しい、図に乗ってしまうかもしれない。生きてるだけでバリューが高い、そんな人もいるものだ。

 

もっともホールおばさんは、年配で不愛想で不誠実、誰かに守られていなければ生きていけないということ以外には、語るべきこともない。ただ、ある種の「依存体質」の人間にとっては、徹底的に無力で無防備、一触即発で社会からこぼれ落ちてしまいそうな儚く破壊的な「だめ加減」が強力な引力になってしまうのかもしれない。そして店主のおばさんは、人助けの優しい心でうっかり始めたら、底なしのだめさ加減に感受性が狂って、実は深くて暗い共依存の罠にはまっていたのかもしれない。今、店があった古いビルにはキャバクラが入っている。裸電球が揺れ、ハッカクの香りがする店の気配はもうどこにもない。おばさんたちは、どこにいったのか。二人とも鬼籍に入ったのか。秋口になると、二人を想い、杏酒を他向けて供養しようか、と思う。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在は、ウェブサイト、月刊誌プレジデントウーマンでライターとして、文化放送で朝のニュース番組の構成作家としても活動。趣味は映画と声楽。二児の母。