面倒な映画帖43話 自分さがし『パターソン』/モトカワマリコ

面倒な映画帖詩人の仕事は世界が発する何かを受けてとめて記録することにある。マクロにもミクロにも、全方向に拡大し、曖昧で、本当は確かなことなどひとつもない複雑な世界と向き合い、フロンティアに立って、そこから飛んでくる言葉を、電波天体望遠鏡のように、感受するのが仕事なのだ。

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映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

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面倒な映画帖43「パターソン」

自分さがし

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それは短い棒だった。茶色とオレンジの間のような色の金属の短い棒。その上下には衛星のように黒や黄色の形が点在する。この棒は、世界を分断しているのか・・・棒の上と下では、別の世界が表現されているような気もする。抽象彫刻のようでもあり、化石のようでもあり、飽きずに眺めていた。 そのうち、自分の重みを支えているのが、とても硬くて冷たい物だということがしびれた左腕の体感でわかってくる。どうもどこかに寝ているらしい。

IMG_1735「今、この瞬間」の連続を認知することはできたけれど、どうして今ここにいるのかわからない、自分の名前すら知らない。だが、主体だけはある、誰だかわからない私は存在する。どのくらい時間がたったのかわからないが、起き上がって座り込んだ。さっきの短い棒と色の形は、砕けた縁石だったことがわかる。私はここに横たわって、目を開け、縁石の破片を見つめていたらしい。 自分がどこから来たかわからない限り、どこへ行ったらいいかもわからない。人が継続して同じ人間として生きていけるのは、連続的な時間に「今、この瞬間」のピースが時系列にはまっているからなのだ。ピースが欠けると、人はどこへ行ったらいいのかもわからない。 雨が降っていた、夕方の暗がりに座り込んで、途方にくれる。自分は誰なんだろう?ここはどこかの駐車場、そして雨粒は空から落ちてきて、夜が近づいてくる。雨の粒子は肩にあたり、はじける、無数の玉が砕けて、服がびしょびしょになる。

 

パターソン、詩人のふるさと、らしい?

「パターソン」は、アメリカのジョージア州に実在するNYから車で1時間半くらいで行かれる田舎町だ。郊外の町だが、滝が名物で、数人の詩人を輩出している。アレン・ギンズバーグもここの生まれ。主人公は、パターソンという名前で、監督によると、「街の擬人化」なんだそうだ。仕事は町を周回する路線バスの運転手で、朝起きて、夕方まで時刻表通りに働き、仕事が終わると丘の上に建つ絵のような小さな家に帰る。 家には、犬と、かわいい彼女が待っている。

その恋人は、家の中で絵をかいたり、カーテンや壁を自分の好きな模様で埋めていく。彼女の作品は日に日に家にあふれかえり、そのうち絵を描く場所がなくなると、シャワーカーテンにも描く。犬はフレンチブルで、もの言いたげだ。たぶん自分を「犬」だと思っていないというタイプ。彼女の作品は細胞のように増殖し、カップケーキに至る。無数の黒い丸や折れ線というアフロなモチーフが描かれたケーキが山のように焼かれ、土曜日のフリーマーケットで大人気になる。 彼女の作るものは、彼女そのもの、自分をどんどん増殖するタイプのアーティストだ。愛されることを知っている、作品だって人気が出るし、自分は売れると信じている。

一方でパターソンは違う。 パターソンは、詩人だ。車窓に走る町の一日を見ながら、終点の滝でランチを食べながら、無意識に言葉が浮かび、詩作が始まると、映画ではブーンと奇妙なBGMが入り、彼が「ゾーン」に入ったことを表わす。集中で白熱するあの感じ。「詩」は「言葉」という形をもって、パターソンを通って世界に躍り出てくるが、まだ形があいまいだ。外気に触れると固まる物質のように、生まれたときの熱が落ち着いて、はっきり「形」をもつ。詩はリズムであり、言葉の意味の絡み合いによる物語であり、いつか完成する。誰がそれを決めるのかというと、詩人でもない。詩は、宇宙に新しい星が生まれるように生まれ、厳然たる実体をもって現れる。詩人は、しかるべき言葉を、ルツボのような「非存在」から暗示を受けて拾い出す。すると、熱い言葉の連続は「非存在」から「存在」に転じるのだ。

生きていることは自己表現の彼女と、世界が投げる詩を受け止めて、ノートに書き写す詩人。彼女は彼も同じように作品を売ればいいと思っているが、彼にはできない。詩人の仕事は世界が発する何かを受けてとめて記録することにある。マクロにもミクロにも、全方向に拡大し、曖昧で、本当は確かなことなどひとつもない複雑な世界と向き合い、フロンティアに立って、そこから飛んでくる言葉を、電波天体望遠鏡のように、感受するのが仕事なのだ。芸術とは何か。芸術家の仕事とは?

自分の仕事を売るのか、食べるために別のことをするのか。

ハリウッドから一線を引き、独立系のアンチ商業映画を撮り続けているジム・ジャームッシュ監督は、どうだったのだろうか。彼は仕事を守り通せたのか。愛くるしいフレンチブルを酷使して描いた「ユートピア」は目立たないところにある。でも気づいた人はそこを訪れ、世界の驚くべき表出に愕然とする。

 

スマートフォン

雨に濡れながら、私は「自分をさがす。」探ったカバンには名刺が一枚入っていた。モトカワマリコと書いてあるが、それが自分の名前なのかどうかわからない。電話番号を見て掛けてみるとスマホが鳴った。見ると画面に「自分」と書いてある。「そうなのか。」納得はしたが、実感がわかない。自分が「モトカワマリコ」だという自覚がわかない。「そうか電話か」と思い、家族リストを見て電話をかける。 「どうしたの?」驚いたような声がする。聞きなれた低い声を聞いたとたんに、そこが自宅の裏だということが天啓のようにひらめいた。聴覚は視覚よりも記憶回路を開くものらしい。「ごめんなさい、なんでもないの、今日は遅い?」 フラフラしながら立ち上がり「超絶に懐かしい」我が家に帰った。

 日常は簡単にほころび、あなたがあなたでいられる保証はない。世界はマクロにもミクロにも不確実で曖昧で、複雑だ。毎日パターソンが帰宅すると、ポストが曲がっている理由だって、実はほほえましい秘密がある。この映画は、日常を研究するエチュードとして、なかなかいいと思う、誰だって5回くらいなら、見ても飽きない。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在は、ウェブサイト、月刊誌プレジデントウーマンでライターとして、文化放送で朝のニュース番組の構成作家としても活動。趣味は映画と声楽。二児の母。