面倒な映画帖40話「ケイブル・ホーグのバラード」手を離したら戻らない / モトカワマリコ

面倒な映画帖いよいよ風船が、空に向かって飛んでいってしまうと、手を離した後悔と、自由にしてやったという確信犯的な気持ちがないまぜになり、風船が視界を外れて点のようになり消えていくまで眺め、涙があふれる。自由にしてもらったのは、実は私のほうだ。風船の可能性を封じ、風船を所有していることが苦しくなったから、自分で手を放したのだ、そうだけど悲しい

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映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

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面倒な映画帖40「ケーブル・ホーグのバラード」

手を離したら戻らない

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風船にはヒエラルキーがある。

小さなゴム風船に息を吹き込む、最初は硬くて大きく膨らまない、大きく吸って何度も吹く内、あるところでふうっと大きくなる。嬉しくて、深呼吸してまたふうっ。大きくなるにつれ薄くなる膜がどこまで膨らむか、いつか大きすぎてはじけてしまうか。膨らますのが主な楽しみで、できてしまえば、バレーボールのように遊ぶくらいで大して面白くなく、あたりに置かれてしぼんでしまう。調子の乗ってたくさんの膨らませた風船が部屋のあちこちにフワフワして割ってしまいやしないかと面倒になる。膨らませるのは、楽しいが、膨らんだ風船は邪魔だし、時間の経過でしぼんでいき、シワシワになり、そうなると見向きもしない。

同じ風船でも自分で宙に浮かぶものは格別だ。空気ではなくてガスが入っており、自分で宙に浮いているところが尊い。紐を手に持っていると自分も宙に浮いているような気持ちになる。風船の主人のようで、どこへでも子犬のように連れて歩けるけれど、一瞬でも手を放したら、どこかへ飛んで行ってしまう、ガス風船には自律した力と自由が潜在する。「しっかり持っていなさいよ」大人は言う、失って傷つかないようにと思うのは親心。風船で遊ぶことは、空につながる高揚感を味わい、手を放すと失うことへの不安を抱えながら、それの自由を拘束し、同時に自分も所有に縛られること。所有と喪失の練習だ。家の中で手を放すと、天井にぶつかって気流のままに移動している。窓を探してるのではと出口をふさぎ、心配になって紐を捕まえる。いよいよ風船が、空に向かって飛んでいってしまうと、手を離した後悔と、自由にしてやったという確信犯的な気持ちがないまぜになり涙があふれる。自由にしてもらったのは、実は私のほうだ。風船の可能性を封じ、風船を所有していることが苦しくなったから、自分で手を放したのだ、だけど悲しい、擬人化するにもほどがあるが、あの気持ちはなんだろう。所有と喪失、時間は巻き戻せない。

復讐だけが人生だ

70年代のバイオレンス系映画の監督、サム・ペキンパ―の代表作。そう万人受けする監督じゃないのは、滅びの美学満載で、破天荒な暴力がすぎるせいだろう。中ではヒューマンな本作を好きな人は多い。悪い仲間に砂漠に置きざりにされた男が、奇跡的に水源にたどり着き、そこで駅馬車の給水ステーションを開業して成功する。別の男もすぐ近くで水源をさがすが、ケーブルの土地以外からは水が出ないというアメリカ的な寓話。主役のケーブル・ホーグは冴えない、鈍くてマッチョでもない普通の男だ。彼がヒーローなのは神に=監督に選ばれたいるからにすぎない。そして自分を見捨てた2人の仲間に復讐を誓い日々を生きている。でも悪い仲間に捨てられて以来彼の人生は幸運が続く、美人の恋人も親友もでき、ビジネスも成功して、人生は逆転している。しかも、水場が成功し有名になったので、復讐の敵が噂を聞きつけ、ノコノコ蓄財を奪いにあちらからやってくるという都合の良さだ。人生塞翁が馬、回りまわってすべての願いが叶い、満願成就で、大団円と思いきや!そこは娯楽映画だけに、予想を裏切るオチがついてくる。

(以下ラストネタバレあり) 西部劇なのだが、映画の最後に彼を訪ねてきた人が乗ってきたのは駅馬車ではなく車だった。ホーグは車を素手で止めようとして、胴体を轢かれてしまうのだ。生まれて初めて見た機械とまともに力比べをして轢死という、ブラックコメディみたいな終わり方。モータリゼーションが始まれば、駅馬車の給水所はいらなくなる、復讐も遂げたし、神=監督も彼を生かしておく理由はない。

変な映画だ、砂漠に捨てられた冴えない男が、偶然砂漠で成功して、うっかり車に轢かれて死ぬ。監督は生涯のマイベストだという。親友の牧師が葬儀で神に向かって言う祈りの言葉にその意味が込められている「天国の門を開けてください。彼は善人でもなく悪人でもない。人間臭い男です。彼は砂漠を憎み、砂漠に生きる者たちを愛しました。この男を天国にお召しください。砂漠の猛暑に耐え抜いた彼には地獄の業火もどうせ効き目がありません。」申し送りみたいだが、牧師に最期の言葉を頼んだあたり、ホーグは天国を信じていたのかもしれない。

それどころか、彼は砂漠に捨てられたときすでに死んでいた?後半は死者の夢だったのかもしれない。飢えと渇きに命を落とした男の望み、人に愛され、成功して、復讐までとげて、敵を赦し、最期は牧師に見送られてまともな葬儀をして天に召されたい、哀れな男の最後の望みか、天国入りを待つ煉獄だったのか?今頃、天国にいるペキンパ―に聞いてみたいところだ。

叶わない願いから手を放す

私も砂漠に捨てられたことがある。何年もたつが、今でも傷が癒えない。しょうがなかった。壊れた宇宙船が中枢を守るために、付属ドックを切り離すように、外部の私が切り離された。いつになったら、この薄暗い気持ちを手放せるのか考えることもある。失った過去は二度と戻ってこない、時間は逆走しない。起こったことは仕方がない。その後、何度か当事者と会って話したが、その人は私以上に驚くほど被害者意識で、自分が切り捨てたという思いなどなかったようだった。

それなりに面白い仕事だった。いつか流れさえできれば、また一緒に働けるだろうかと思う。でも叶わぬ願い、むしろ執着だから、もう手を放して、どこへでも飛んでいくに任せればいい。向こうはとっくにそうしているのだろう、風で轍が消されたように、行先がわからない。、もうきっと遠くに行ってしまった。

飛んで行った風船を取り戻すにはどうしたらいいの?サム・ペキンパ―なら、バーボン一本くらいで、いいアドバイスをくれるかもしれない。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在は、ウェブサイト、月刊誌プレジデントウーマンでライターとして、文化放送で朝のニュース番組の構成作家としても活動。趣味は映画と声楽。二児の母。