身ぎれいなおばあさんが二人で切りまわしていて、どことなく白粉匂い風情なので、元は芸妓さんだったりするのかしら、と思わせる。粋筋の人って甘いモノに口が肥えているというし、引退して菓子屋をやろうなんてよほどの味通なんだろうなと、勝手にハードルをあげていた。
< 連載 > 映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。 |
面倒な映画帖27「安城家の舞踏会」
マズい菓子屋の麗しき没落
ぬぐえない粘土疑惑
吉村公三郎の原作・監督作品として、終戦後すぐ製作された「安城家の舞踏會」は奇妙な映画だ。戦争を生き延びた映画関係者と機材資材をかき集めて撮影された松竹の渾身作。華族制度廃止のまさにその年にこういう映画を公開する、GHQの意向がちらちらする見せしめっぽい政策映画のようで、吉村の手腕と新藤兼人の脚本で、一足先に解体が進んでいたロシア帝国の例を引き、チェーホフをフレームに使って没落の悲劇としてまとめあげた。ザ没落特権階級のデカダンスを森雅之が不機嫌に演じ、成り上がった元運転手に求婚される下剋上のお姫様を原節子。意識高い系の元祖みたいなイメージで、家族の窮地に前向きに動けるのはいつも女性、その後の新藤兼人の仕事を予感させる強い女性として描く。
没落華族が預金封鎖で現金がないのに、無理やり昔を思い出したくて舞踏会をひらくまでの顛末を描いている。「華族さん」という人種がどんな人たちだったのか、戦後すぐの人たちには知り合いもいただろうし、華族だった人もいたりするだろう。直接見たことのある身近にいる人をモデルに演じている点では歴史の資料としても貴重かもしれない。セットとはいえ和洋折衷の洋館や、焼け残ったか米軍から借りたのかした家財道具も興味深い。でも最大のポイントは、彼らが一度も出てきたお菓子を食べないということだ。
撮影所の中も外も同様に戦後だ、映画のキエモノ(映画の食べ物の呼称)のための西洋菓子の材料など入手困難だったのかもしれない。麗しい西洋の焼き菓子が何度か出てくるのだが、遠目にささっと映しているだけでフレームから外れ、登場人物は気取ってカップを持ち談笑しつつも誰一人お菓子を食べないのだ。何度も手持ちのDVDを確認するのだが、見れば見るほど粘土疑惑が高まってしまう。そしてそれを決定的にするのが舞踏会の当日、ディナーのシーンだ。華族さんたちは食堂のドアの向こうに消え、観客に晩餐の内容を見せてくれない。いくら松竹のベテラン美術の技量をもってしても、フルコースをリアルに粘土で作るわけにはいかなかったのかもしれない。
和菓子好きが陥りがちなパーフェクトトラップ
仕事で通るとある下町の商店街に、前々から気になっていた和菓子店があった。いかにも由緒ありげ、掃除の行き届いたお店を身ぎれいなおばあさん二人で切りまわしていて、どことなく白粉匂い風情なので、元は芸妓さんだったりするのかしら、と思わせる、姉妹とも友達同士ともつかない感じ。粋筋の人って甘いモノに口が肥えているというし、引退して菓子屋をやろうなんてよほどの味通なんだろうなと、勝手にハードルをあげていた。置いてあるのは素朴でシンプル、庶民的な餅菓子類で、こういう店はうまいんだよなあという構え。板場には大きな豆大福、大き目が4つならんだみたらし団子に赤飯などが所せましと並んでいる。実は老姉妹は単に美人なだけで、店は界隈で脈々と続く老舗らしい。それならなおさら、期待がつのり、ついに思い切って豆大福を4つ、みたらし団子を3本買い求めた。
ところが、ところがである。塩豆大福は、餅がだれていて、塩豆が鹹すぎる。あんこの甘さ控えめにもほどがある、糖分が低いと保水力がさがるし、塩を入れすぎていて小豆も古いのかむせるほどパサパサしている。みたらしも団子が緩くてアンとグズグズに蕩けていて、もうそれは地獄のようなレベル。よりによって山ほど買ってしまった、後悔先に立たず。
でも老舗なのだ。商店街で堂々と長年「おいしい和菓子屋」をやっている。先代は腕が良い職人で評判が良かったのが、あの美老女の代になって変わったのだろうか。私の味覚が狂っている、それはあるかもしれない。ただよく思い返してみると、他にお客さんはいなかったし、土曜日の午後遅い時間に山のように生菓子が店頭にあるのはおかしい。ただ、商売は成立しているのだから、特殊な趣味のお客さんがいるか、それともどんなに売れなくても生きていける副業があるのかもしれない。不動産とか。美人姉妹のパトロンがいて、そのファンクラブが延々と買い支えているとか。売れ残った大量の餅や団子は、みんなおばあさんが食べてしまうのか、家畜のえさになるか、どこかでたい肥になるか、埋め立てに利用されているか・・・謎は深まるばかりである。
120%古き良き和菓子屋という店構えで、麗しいおばあさんがきっぷよく商売をしているという舞台装置があっては、私のような新参者は欺かれてしまう。パッケージに騙されて信用してしまった私がことさら愚かなのか、それとも彼女たちがしたたかなのか。あるいは、自分たちの商品がマズいことをまったく知らないのかもしれない。当の本人たちが味音痴で、周囲が彼女たちの権威を恐れて批判しないとしたら、あそこのお菓子は永遠に激マズのまま…今もなお、激マズのままである。
それとも…
激マズの和菓子をほおばりながら考える。これは「はじまり」なのかもしれない。哀しいことだが人は年を取り、味覚が鈍る人もいる。それまで絶妙に加減をしていたあんこやみたらしの味付けがわずかずつずれてきたことに気づかず、毎日仕込んでいるうちに、似ても似つかぬ遠い場所に来てしまったのかもしれない。まずは常連が「味が変わった」と思いはじめ、フリの客は二度と買わず、店の味は常連からも元のクオリティからも離れていき、今決定的なところまで来てしまっているのかもしれない。
山のように摘まれた大福は、かつて評判だったうまい和菓子店の没落の象徴なのかもしれないのだ。時々フリの客が簡単に騙されて、うまそうだと思ってしまうのは、見た目にはわからないうまそうな造形と、かつて本当にうまい菓子を売っていた構えがあるからなのだ。時々店の前を通るが、あの大福の山、下半分が粘土だったらどうしよう。あれ以来、さして売れない菓子が積みあがる店先をチラリと見ながら、逃げるように店の前を通り過ぎて、転がるように取引先に足を速めてしまう。