面倒な映画帖24「恋する惑星」マイ・スイート・エスカレーター

面倒な映画帖 時にはエモーション全開になってみるのもいいと思うのだ。たまにこういう気分と欲望だけの人間が右往左往する世界に溺れてみるのも悪くない。

< 連載 >
モトカワマリコの面倒な映画帖 とは 

映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。

 面倒な映画帖24「恋する惑星」
マイ・スイート・エスカレーター

90年代香港アートフィルムの代表作。泥臭いアジア映画ではなく、南国の雰囲気を持ったスタイリッシュな映像が一時代を築いた。ノラ・ジョーンズ主演の「マイ・ブルーベリー・ナイツ」はこの作品の同監督ハリウッドリメイク

90年代香港アートフィルムの代表作。泥臭いアジア映画ではなく、南国の雰囲気を持ったスタイリッシュな映像が一時代を築いた。ノラ・ジョーンズ主演の「マイ・ブルーベリー・ナイツ」はこの作品の同監督ハリウッドリメイク

屋台で枝ごとのライチを買って皮をむく、夏になると果汁で手が甘くべたつくあの感じを思い出す。旅を意識したのは香港が初めてだ。少女のころ、地図を片手に土地勘のない街を歩き、母国語と違う言葉を話したり、見たことのない風物や、食べたことのない料理に触れることは純粋な喜びだった。大人になったらこんな風に生きよう、一処に留まらず、旅人のように流れて生きる人生を選ぼうと思った。

香港映画ブームに火をつけた本作に映りこむ街は90年代、返還前のかつての香港だ。2つのパートに分かれていて、各シークエンスはそれぞれ男女の関係が柱にはなってはいるけれど、むしろ香港の街をぶらついている気分で見ると楽しい。亜熱帯のスコール、市場の熟れた果物の香り、スターアニスと豚料理の匂い、広東語の喧騒。迷路のような路地、九龍城。公開当時はアジアの都市生活者をスケッチしたスタイリッシュな小品にすぎない感があったが、今となっては違う。失った場所、あの日の香港が閉じ込められているタイムカプセルなのだ。

特にセントラルのエスカレーター。高低差のある町を登る一種の交通手段で、トニー・レオン演じる警官633はエスカレーターから見える小さなアパートメントに住んでいる。この映画は低予算で撮影されたので、ロケのために部屋を借りる余地がなかった。633のアパートは実は撮影監督の住まいだったそうだ。撮影監督はクリストファー・ドイル。アート系映画のカメラマンとして本作の監督ウォン・カーウァイとセットで香港映画の一時代を築く。警官の住まいとしてはお洒落すぎだが、香港の映画人がリアルに住んでいる部屋、二重のドアや家具調度、窓の柵のレトロ加減もいい感じ。

もう一人の主人公、恋人にふられてパイナップルの缶詰をバカ食いする刑事モーは何か国語も話せる。寂しさに友達に電話をするが、相手が変われば言語も変わり、英語、広東語、台湾語、北京語、最後は日本語、積極的にグローバルというよりはなりゆきポリリンガル。演じるのはカネシロタケシで、当時日本でも話題になった日系スターだ。今でいうならディーン・フジオカというところか。彼はサングラスにブロンドかつらの謎の女と不思議な夜をすごす。二組の男女は、映画の中で何度かすれ違っている。「あ!」というような一瞬に、前のシークエンスの彼が、今の主人公の後ろを通る。違う二人が出会った可能性もあった。国際都市なのだ、いろいろな背景をもった国籍も様々な人が行き交い、それぞれに物語を抱えている、無数の香港人の人生が語らずとも聞こえてくるようなざわめきがある。

遠足も恋愛も始まる前がワクワクドキドキ

ヒロインのひとりフェイは北京の歌手フェイ・ウォンが演じていたが、何を考えているのかわからない「フシギちゃん。」従姉が経営しているスナックスタンドで働いていて、お客さんの警官633と、勝手に疑似恋愛を展開していく。告白して付き合いたいわけでもない?恋に恋をするオモチャのような片思い。監督は男なのにどうしてああいうニュアンスがわかるんだろう。

フェイは633の住所を知りひょんなことから合鍵を入手して、セントラルのエスカレーターを昇る。不法侵入だ。しかも男の部屋を勝手に模様替えしてしまう。前の彼女が残していったものを処分し、自分の好きなものに差し替える。 男の部屋は次第に明るくポップな雰囲気に変わり、CDまで「縁は異なもの」から「カルフォルニアドリーミング」にチェンジ。

男もどうかしているのだ、それに気づかないで、毎日仕事から帰ると、変わっていく部屋で変わらず暮らしている。カーテンやベットリネンや、ぬいぐるみの種類、金魚まで変わっているのに気づかない?家財を新調したり掃除をしたりする泥棒はいないから、変化を理解できないのだろう。買い置きの缶詰の種類がいつもと違ってようやくちょっと気になる程度。それともある種の寓意なんだろうか、彼女に振られて傷心の内気な男性が無意識に新しい別の女の子の影響を受けていくじれったい様子を、視覚的に映像で表現している…ともとれる。

フェイは633のいない彼のベットで、女性の長い髪の毛を見つけて一人大騒ぎをしたり、「眠れないんだ」という言葉に密かに冷蔵庫の水に睡眠薬を入れて「水を飲むと眠れるよ」とアドバイスしたりする。クイズのように、自分の痕跡をちりばめているけれど、彼の生活にちょっかいを出しているのに、633には伝わらない。だから安心して、仕事をさぼってセントラルのエスカレーターを昇り片思いを楽しむ。リアルなターゲットがあるスリリングなごっこ遊び。

「かくれんぼ」は終了する、映画は終わらなければならないから、しょうがないけれど、633とフェイは鉢合わせをするのだ。ようやく男は自分の部屋が明るくなった理由を理解し、わかり切った行動に出る。「自分を好きだ」とわかっている女性を誘うなど、たやすいことだ。少女のラブゲーム、強制終了。男というのは大抵退屈な生き物なのだ。

でもフェイの望みはおそらく633と恋愛をすることじゃない(ネタバレ注意)。だから、彼女は633が待つカフェに行かず、アメリカに行ってしまう。すっぽかされた633は戻る保証のない彼女を仔犬のようにじっと待っている。ある時、成長した彼女は香港に戻ってきて、彼の前に現れ…映画は終わるが、ここから先は少女の恋ではない別の扉が開くのだろう。でも幸い映画はそこから先の生々しい人間関係を描かないでいてくれたから、ノスタルジックな香港の街をいつまでも昇降し続けるあのエスカレーターでは、甘い恋愛ごっこが永遠に繰り返されるのだ。

とかくドライな人間こそが勝ち抜いていく世の中では、感情なんてこの世に存在しないかのように振る舞うのも仕方がないのかもしれない。でも誰もがお母さんの腕に抱かれて眠った過去があるのだから、時にはエモーション全開になってみるのもいいと思うのだ。たまにこういう気分と欲望だけの人間が右往左往する世界に溺れてみるのも悪くない。甘酸っぱい恋や、未練や後悔や嫉妬を生のまま扱うことにかけては天才的なウォン・カーワァイの仕事はそのためにある。たかが映画、現実の恋よりぜんぜん安全だしね。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在は、ウェブサイト、月刊誌プレジデントウーマンでライターとして、文化放送で朝のニュース番組の構成作家としても活動。趣味は映画と声楽。二児の母。