面倒な映画帖 15「恋の秋」アラフィフ女のリアリティ、収穫を終えた畑を眺める季節

面倒な映画帖


マガリの軽い失望に熟年の人間関係のヒントがあるように思える。大人同士が出会い、これから親しくなれるかどうか?相手だって同じようなもの。お互いに頑固にもなり、融通が利かなくもなり、ひょっとしたらちょっと耳が遠かったり、引きずってきた弱点やダークサイドがあるし、ホルモンの不足でうるおいもない。相手の底が見えたら、あとは常温でお互いの人間性を理解していくこと、お互いの人生やスタンスを捨てずに、それで結びあっていけそうなら、新しい親密な関係が始まっていく可能性もなくはない。特に用もないのに、神羅万象についてカフェで3時間話せるような関係を築こうと努力してみることには、セックスありきの人間関係とは別の堪えられない面白さがある。

< 連載 >
モトカワマリコの面倒な映画帖 とは 

映画ならたくさん観ている。多分1万本くらい。いろんなジャンルがあるけど、好きなのは大人の迷子が出てくる映画。主人公は大体どん底で、迷い、途方にくれている。ひょっとしたらこれといったストーリーもなかったり。でも、こういう映画を見終わると、元気が湧いてくる。それは、トモダチと夜通し話した朝のように、クタクタだけど爽快、あの感覚と似ている。面倒だけど愛しい、そういう映画を語るエッセイです。



面倒な映画 15

「恋の秋」 

エリックロメールの四季のシリーズの最終作。素人好きな監督にしては珍しく、ベテラン女優を使い成熟した物語を作り上げている。

エリックロメールの四季のシリーズの最終作。ロメール作品にはあまり美人が出てこない。美少年はよく出てくるんだけど。女好だったはずだけど、低予算なアート作品ばかりでギャラの高い美人女優にご縁がなかっただけ?

五十路女のリアル、収穫を終えた畑を見渡す季節。

フランスの映画監督エリック・ロメールの代表作は、春から始まって、冬、夏、秋で締めくくる四季のシリーズ、その完結編がこの「恋の秋」だ。この映画の舞台ワインの産地ローヌの秋は美しい。収穫を終えるとブドウの葉が染まり、畑が黄金色に輝く特別な季節。 かつては労働者の日銭仕事だったらしいが、最近では有名産地でブドウの収穫をバカンスとして楽しむ人もいるほど。紅葉のころ、その年のワインの出来も大体見えてきて、ドメーヌの仕事もひと段落なのだろう。フランス人の秋はワインと共にあるのかもしれない。

 それなりに生きてきた女の人生の秋がしみじみ

90年代の日本の映画配給業界のお約束、タイトルに「恋」が入っていると女性観客の動員数が見込めるというので、邦題には無理やり「恋」がついている。原題は「秋の話」。恋もちょっとはあるが、むしろ人生の秋の映画だということを忘れてはいけない。大仕事を終えて畑を見渡し、さて来年はどうするかを考える。ブドウ栽培もワイン造りも天のおぼしめし…ということもあり、畑も人生も人の力が及ばないことがある。だから、ある女性の一区切りとその後、ロメールはそのつもりで撮っているんじゃないかと思う。恋愛映画だなんて思うと、肩透かしを食らう感じがする。心はどうあれ、中高年にもなると恋愛は面倒すぎて、ドラマさえうっとおしい。人間ドラマを常温で味わうセンスがないと、成熟した赤ワインのように渋くもあり旨くもある40代女性の心の機微が堪能できずに終わってしまう。

主人公のマガリは一人で小さなドメーヌを運営している。ブドウは自然栽培だから、彼女の髪の毛みたいに草ぼうぼう。小さいとはいえ収穫の時は畑を渡り歩くゴリゴリ猛者のマッチョな収穫人も雇うんだろうし、醸造の職人だって扱いにくいだろうし、都会で仕事をしていた風の素人女性が親が残した畑にリターンして始めた事業は、それなりに厳しかったに違いない。かつては洗練されたパリ女だったとしても、なりふり構わず畑仕事に打ち込んで、日に焼けた顔は決してきれいではない。ひたすらたくましく、手を抜かずに自分の仕事をまっすぐとことんやり抜いてきた感じが漂う。それがここらで一区切り、息子も巣立って、少し寂しい気持ちでいるのだ。そういう彼女を愛する友人たちは、一人暮らしのマガリのためにお見合いを画策する。母業を納め、仕事も見通しがついた今、彼女に必要なのは男だと思うのはフランス人!

大人の親密さは、キスよりおしゃべり。

私は今マガリと同じ、息子が成人し、人生の秋を迎えている。五十路を目の前にどうなっているかというと、実は年長者の感覚はないのだ。30代~40代前半の15年、ちゃんと仕事を選んでいたら中心的なキャリアを積み上げる時期を家庭生活に費やし、ライターの仕事もキャリアと人脈が死なないようにギリギリ保っていただけ。社会的には15年なんちゃってワーカーだった。だから今の心境は、マイナス15歳、社会的にはまだまだなのだ。生物学的な年齢は若くないのだから、迷惑なことかもしれないとも思うけれど…。救いは30年同じ仕事を続けてこられたこと、これは人生のボーナスだ。過去を振り返ればわずかな経験、未来を望めば新しい挑戦。アラフィフでこんな状態なら、あきらめるというのも一つの選択なのに、不器用なことこの上ない。それでも誰かが気にしてくれるならば商機がなくもない。それには不格好な凸凹具合も役に立つのかもしれない。仕事はもちろん、運も人が運んでくるもの、いかに魅力のある人と出会い、つながるかが展開を決めるのだと思う。今目の前にいる人の後ろには、無数のネットワークでつながった多くの人がいて、そこから私はなんとかかんとか世界とつながっていける。

老若ハイブリットの熟女として、新しい人間関係を築くためにどうしたらいいのだろうか。個人的には「色」の部分はもういらない。逆に言うと色はもう機能しない。おブスでも若さで異性に受けていたこともあったかもしれないが、それさえもはやオカルト領域。生き方モデルとしては、ヴィランズ路線で若いプリンセスを潰しにかかるか、スプーンおばさん路線で秘密の活動をするか…今が分岐点。

元々小野小町みたいな人生観でもなかったので、若さの喪失はそんなにダメージでもない。だからスプーン路線が正しい。どうであれ、気分よく人と知り合って、話を聞きたいし、笑いたいし、肚をわって話したい。 この映画を見ると、マガリの軽い失望に熟年の人間関係のヒントがあるように思える。大人同士が出会い、これから親しくなれるかどうか?相手だって同じようなもの。お互いに頑固にもなり、融通が利かなくもなり、ひょっとしたらちょっと耳が遠かったり、引きずってきた弱点やダークサイドがあるし、ホルモンの不足でうるおいもない。相手の底が見えたら、あとは常温でお互いの人間性を理解していくこと、お互いの人生やスタンスを捨てずに、それで結びあっていけそうなら、新しい親密な関係が始まっていく可能性もなくはない。特に用もないのに、神羅万象についてカフェで3時間話せるような関係を築こうと努力してみることには、セックスありきの人間関係とは別の面白さがあるだろう。それもこれも年の功、ようやく性差などたいした問題ではないと思える軽みが身に着くものなのだ。

恋愛万能主義みたいなものは、五十路には効かない。だからロメールは本作で熟女の恋を匂わせつつも、マガリの恋を成就させず、恋愛モードを解消して映画を閉じてしまう。だからといってこれは悲劇でもなく、ただ「年食ったけどよかった男が見つかって」的な結末に興味がないということ。半世紀もなんとか生きてきて、ようやく一仕事終えた収穫の季節には、気負わないおまけのような自由な関係の方が実情に近い気がする。恋をしろとせっつく周囲に、親切には感謝しつつも「まあね」と自分のペースを保って、軽々と生きようとするマガリの空気感に五十路の生き方を学ぶところは大きいなと思うのだ。


モトカワマリコ

モトカワマリコ

フリーランスライター・エディター 産業広告のコピーライターを経て、月刊誌で映画評、インタビュー記事を担当。活動をウェブに移し、子育て&キッズサイトの企画運営に10年近く携わる。現在は、ウェブサイト、月刊誌プレジデントウーマンでライターとして、文化放送で朝のニュース番組の構成作家としても活動。趣味は映画と声楽。二児の母。