氷が溶けるまで【第3話】思い込みが溶けていく、ベトナムコーヒーに隠された甘い時間の過ごしかた 武谷朋子

ベトナム在住トラベラー武谷朋子の氷が溶けるまで

焦ることはない。きっとカフェスアダーと一緒なんじゃないか。わたしに必要なものはきっともう目の前にそろっているのかもしれない。時にはゆっくりかき混ぜながら、しばらく待ってみる。氷が溶けるまでゆっくりと、自分にちょうどいい頃合いまで。

連載「が溶けるまで」とは  【3週間に1話 更新】
ヨーロッパひとり旅と写真を専門とし、働きながら「自分にしかできない一点物の旅」を10年以上続けてきた武谷朋子さんが、突然夫の転勤によりベトナムはホーチミンに移住することに。(本当はヨーロッパが好きなのだけど…. )知り合いもいない、そして、もともとそんなに興味が持てなかった国で始まった、すべてが新しい暮らし。彼女は導かれたその状況をどのように「楽しみ」に変え、はじめての街の魅力を発見していくのか。まだ知られていない本当のベトナムとは。ガイドブックには載らない、暮らしてみてわかった小さな魅力の種を綴ります。

 

第3話  思い込みが溶けていく、ベトナムコーヒーに隠された甘い時間の過ごしかた  

TEXT & PHOTO 武谷朋子

 

周りを見渡せば、今日も氷入りの冷たい飲み物をみんなが飲んでいる。ベトナム南部に位置するホーチミンの街は年中暑く、気温も30度後の日々が続く。雨季の今は日本の真夏のような暑さはではないけれど、それでもじわりと暑い。

知っているようで知らなかったもの。そのひとつが、ベトナムコーヒーだった。ホーチミンで暮らすようになってから、コーヒーを飲む人を見かける機会がぐっと増えた。東京の比じゃないくらい。少し歩けば誰かが今日もコーヒーを飲んでいる。

ベトナムコーヒーとは「ベトナムで飲まれている伝統的な抽出方法で飲むコーヒー」だとぼんやり思っていた。だから、伝統的ゆえに、普段気軽に飲むものではなく、今ではそこまで飲まれていないものなんじゃないかとひそかに思っていた。それが間違いだったことに、暮らし始めてすぐに気づいた。思い込みってこわいもの。

 

お気に入りの風が通るカフェ。高温多湿の国だからこそ、間口を広くとって外の風を取り入れる工夫がすごくいい。

お気に入りの風が通るカフェ。高温多湿の国だからこそ、間口を広くとって外の風を取り入れる工夫がすごくいい。

 

ちょっと歩けばまたカフェがある。
暮らし始めたのは、まさかのコーヒー大国だった

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ホーチミンの街はとにかくカフェの数が多い。少し歩けばすぐまたカフェがある。カフェのとなりもまたカフェ、という場合さえある。新しいカフェがどんどんできる一方、人気のないカフェはすぐに潰れてしまう。カフェの改装だって頻繁にあるし、工事の期間はものすごく短い。とにかくサイクルが早く、いつも街は新陳代謝を繰り返している。久しぶりに歩く通りには見慣れないカフェができている、そんなホーチミンの今日。

暮らし始めてから「カフェを求めてさまよう」ことがなくなった。歩いているだけでカフェなら簡単に見つかる。もう、選びたい放題。人の数に対して多すぎるくらいのカフェがあり、今日もたくさんのコーヒーが消費されてゆく。そんなカフェでよく見るコーヒーは、わたしが知っているものとちょっと違った。それがベトナムコーヒーだった。

ある時、ベトナムのコーヒー豆生産量がまさかの「世界2位」という事実を知った。コーヒー豆の生産地なら、むしろ他の国の名前の方がいくつも思い浮かぶ。でも、ブラジルの次にコーヒー豆の生産量が多いのがこのベトナムなのだ。でも、堂々たる2位なのに、なぜか目立っていない気がする…。不思議なコーヒー豆生産国。

そんな事実を知って、ようやく納得した。だからあれだけカフェが多くて、あれだけみんなコーヒーを飲んでいるんだな。わたしは思いがけずコーヒー大国で暮らし始めたのだった。

ベトナムコーヒーとは、特別なシチュエーションで飲むものではなく、普段気軽に飲むもの。ベトナムで暮らす人にとっての「いつものコーヒー」はベトナムコーヒーのことだった。ベトナムコーヒーは、濃くて苦い独特の風味がある。せっかく暮らしているんだから、とことんベトナムのコーヒーカルチャーを楽しんでみたい。そう思ってわたしのカフェめぐりは始まった。

 

 

カフェのすぐ隣もまたカフェ。ホーチミンではこんな光景があちらこちらに。

カフェのすぐ隣もまたカフェ。ホーチミンではこんな光景があちらこちらに。

 

 

カフェスアダーという名の甘いミルクの罠に落ちる

 

ベトナムにおけるコーヒーの存在が分かったのなら、試さないわけにはいかない。早速出かけて初めてベトナムコーヒーをオーダーしてみたある日。ベトナムコーヒーにもいろんな種類があるのだけれど、わたしが初めて頼んだのは「カフェスアダー(cà phê sữa đá)」というベトナムアイスミルクコーヒーだった。

ほほう、どんな味がするんだろう。初めての味の体験はいつもわくわくする。待っているとカフェスアダーがやってきた。

「ん? あれ。量が… 少ない…? 」

そしてひとくち飲んでみる。

「甘っ!!!!! 」

甘い、ものすごく甘い。甘いといっても「まあ、甘くておいしいよね」という ”ほんのり” レベルではない。コーヒーは基本ノンシュガーで飲んでいたから、いきなり対極にぽーんと飛ばされるほどインパクトのある甘さが突き刺さる。なんだこの甘さは…!

忘れちゃいけない、気温は30度。暑いのだ。わたしはのどが渇いている。冷たいものをごくごく飲みたいそんな気分。そこへきてこの冷たく(とてもとても)甘いベトナムミルクコーヒー。暑いのにものすごく甘い。びっくりするほどに飲み進まない…。とてもじゃないけど、ごくごく飲めるレベルではない。

甘さにがつんとやられる、そんなベトナムアイスミルクコーヒー「カフェスアダー」。

甘さの正体は、ミルクという名のコンデンスミルクだった。ここベトナムでのミルクは、牛乳ではなくコンデンスミルクという意味であることにしばらくたって気付いた。ミルクの罠。そりゃ甘いはずだわ…。ベトナムのブラックコーヒーそのものはとても濃く苦い。そこに甘い ”ミルク” が入って独特のコンビネーションになる。

濃くて苦くて、でも甘い体験。

甘すぎて飲み進まないから、グラスいっぱいに入った氷を溶かしながらゆっくり飲むことにした。わたしにとっての ”ちょうどよさ” をマドラーで氷をかき混ぜながら探っていく。早く飲みたい気持ちを抑えて、のんびり待つ。

氷が溶けるにつれて、ちょっとずつ味が変わっていく。しばらく待っていると、ちょうどいい甘さのコーヒーに変わる。ついでに量だって増える。ついにきた、わたしにとっての ”ちょうどよさ” 。最初の味とはもう違う飲み物になり、これがまたすごくおいしい一杯になる。

コーヒーを全部入れてもだいたいこのくらいの量。ここからのんびりと待ちます。

コーヒーを全部入れてもだいたいこのくらいの量。ここからのんびりと待ちます。

 

のどが渇いているからといって焦っちゃいけない。これはきっと焦って飲むものじゃない。

冷たいベトナムコーヒーは、運ばれてきた時が飲み頃ではなく、時間をかけて自分の好みの味にしながら楽しむ飲み物なんだろうな。最初に飲んだ時にふとそう感じてから、カフェスアダーはそんな飲み物だと思っている。

そんなわたしなりのおいしい飲み方を探っているうちに、元々のコーヒーの量が少なめであることも、甘すぎることも、ふいにストンと納得できた。これって、何だか新しい飲み物じゃないか。

 

 

 

今日もカフェでは、のんびりコーヒーを飲みながら友達と楽しくおしゃべりしている人たちが。

今日もカフェでは、のんびりコーヒーを飲みながら友達と楽しくおしゃべりしている人たちが。

 

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ベトナムコーヒーを目の前に
時間の流れに乗ってみる 

 

カフェにいる人を見回してみると、焦ってすぐ飲んだりしている人を全然見かけない。今、わたしの目の前にあるカフェスアダーは、すぐには飲めない。そうなると、友達と話したり、本を読んだり、時にはぼーっとしながらゆっくり ”飲み頃” を待つことになる。好みの味になるまでとにかく待つのだ。

そんな「待ち時間」が、ある時ふと、とても贅沢なものに感じた。カフェに来てこんなことを感じたことなんて今まで一度もなかった。「目の前にあるのに飲み頃じゃない」というカフェスアダーを見ながら、カフェでの過ごしかたを1杯のベトナムコーヒーに教えてもらった気がした。忙しく過ぎてゆく時間の中で、ふと時間の流れが変わる瞬間。なんだか不思議な飲み物。

あんなに甘いと思っていたカフェスアダーが、時々ものすごく飲みたくなる。あの濃くて苦くて甘い味が恋しくなる。お店によって味は違えど、わかってるのだ、飲んでみるとやっぱり甘いことを。でも、なんだかほっとする。不思議な魅力を持つ、甘い甘いコーヒー。

わたしがまた飲みたいと思うカフェスアダーはきっと、「待ち時間を含んだ飲む時間そのもの」なんじゃないのかなと思っている。氷が溶けるまでゆっくり待ちながら、好みの味になるまでじっと待つ。自分で作り上げる、好みの1杯。それがまた贅沢な時間。

カフェで過ごす時間が増えるにつれて、暮らしのペースがなんとなくできていった。焦ることはない。きっとカフェスアダーと一緒なんじゃないかと思っている。わたしに必要なものはきっともう目の前にそろっているのかもしれない。焦らず、時にはゆっくりかき混ぜながら、しばらく待ってみる。そうすると自分にちょうどいい頃合いが見えてくるはず。

そう思ってから焦るのをやめた。その街で感じる独特の時間の流れのようなものがある。環境が変わって気持ちが揺れ動くこともたくさんあるけれど、焦らず時間の流れに身をゆだねたほうが、うまくいく気がした。

今日も気持ちのよい風がカフェの中に入ってくる。外の喧騒をよそに、カフェの中はいつも穏やかでゆったりとした空気と時間が流れている。カフェスアダーをオーダーしてのんびり待とう、氷が溶けるまで。(了)

 

アルミのフィルターで淹れるベトナムコーヒーは、ぽたぽたと落ちるのを見るのもまた楽しいのです。下にうっすら見える白い層がコンデンスミルク。

アルミのフィルターで淹れるベトナムコーヒーは、ぽたぽたと落ちるのを見るのもまた楽しいのです。下にうっすら見える白い層がコンデンスミルク。

 
(次回もお楽しみに。3週間後、更新目標です)

武谷朋子さんがキュレーターをつとめる講義 

自由大学「じぶんスタイル世界旅行
– 旅軸のある、ひと味違う世界旅のつくりかた –
詳細は https://freedom-univ.com/lecture/world_travel.html
自分の好きなことややりたいことを軸に、自由に世界を駆け巡る。それが世界を舞台に自分が主役で楽しむ「じぶんスタイルの旅」。ただの観光や放浪の旅ではなく、未来に繋がる自分にしかできない旅のつくりかたを一緒に学んでいきます。

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 連載バックナンバー 

第1話 ベトナムで暮らそうと言われても(2015.9.24)
第2話 ホーチミンのおもしろさは、きっとバイクの後部座席にある(2015.10.14)

 武谷朋子さんの旅エッセイもどうぞ 

TOOLS 29 海外へは乗継便で飛ぶ。ファイナルコールまでにもう1カ国味わう方法
TOOLS 31 バルセロナで学んだ充実した “食の時間” のつくり方
TOOLS 34 ドゥブロヴニクで学んだ ”心の振れ幅” をもっと自由にさせる意味
TOOLS 38 パリの美術館で学んだ、捨てる視点の養い方
TOOLS 41 イギリスで小さな手荷物と不安な夜を乗り越える
TOOLS 44 ワンテーマに潜る旅の方法 – 海外建築めぐり篇 –

 


武谷朋子

武谷朋子

(たけたにともこ)自由大学「じぶんスタイル世界旅行」キュレーター/トラベラー。『自分にしかできない旅をする』をキーワードに、大学時代から主にヨーロッパへカメラ片手に旅を続け、これまでにバルト3国からユーラシア大陸最西端まで20ヶ国50都市以上を訪れる。社会人になってからも働きながら年1回のペースで自分らしい一点物の旅を創り、旅を続けている。渡航歴は10年以上。ここ数年は旅の経験を生かして"テーマを持ったひとり旅"のおもしろさを伝える活動を行っている。旅先で見て感じた空気を写真に残すことを続けており、撮った旅の写真は1万枚以上に及ぶ。現在では旅以外に、企業・雑誌広告などでの撮影も行っている。2014年冬より生活拠点をベトナムに移し、旅とはまた違った視点で世界と繋がる日々。活動の詳細は自身のWEBサイト 「TRANSIT LOUNGE」にて