【第177話】残り5分とよだれの海 / 深井次郎エッセイ

「はい、テスト開始!」

「はい、テスト開始!」


起きたら残り5分
あなたならどう乗り切る
未来はそこに凝縮されている

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徹夜で勉強してのぞんだテスト。「はい、はじめ」のコールと同時に寝てしまい、起きたら残り5分だったことがある。高校生のときだ。

超高校級プレイヤー仙道。©スラムダンク / 井上雄彦

ハッと起きて、「ここはどこだ?」。あたりを見回し確認。「ははーん、なるほど、テスト中か」と青ざめた。残り5分。こういう状況は、だれにだって一度はあるものだ。ここで問われるのはメンタル。逆境でこそ力を発揮すると定評のある男、深井次郎。「まだあわてるような時間じゃない」仙道のようにつぶやき、ここからが勝負だと挽回をはかろうとしたところ。机の上の状況が、ひどかった。

答案用紙の上は、よだれの海。しかも、瀬戸内海のような小さなものではなく、地球すべてを覆い尽くさんばかりの広大な海だった。答案を書こうにも、このヒタヒタに浸った用紙には文字も書けない。書こうとすれば、破れてしまう。一難去ってまた一難である。残り5分とよだれの海。テストはもう0点であきらめよう。ただし、よだれは恥ずかしい。残り5分で乾くのか。着ている制服の腕の部分で水分を吸い取ってはみたが、これがあと5分で乾くとは思えない。

テスト終了後は、列の一番後ろの生徒が順番に回収する。ぼくの席はちょうど真ん中、後ろから3番目。少なくとも回収係には、よだれがばれてしまう。これが仲のいい男子生徒だったら、いい。アイコンタクトして「内緒な」「なるほど、OK」の一瞬の連携でクリアできるだろう。

これがしかし、運の悪いことに、女子だった。クラスで一番おしゃべりな女子、高須さん。もし彼女に知れたら、クチコミの波及効果は測り知れないものがある。マーケティング用語でいうインフルエンサーだ。かつ、エバンジェリストであり、イノベーターだ。コミュニケーションディレクターかもしれない。ブルーオーシャンも彼女が参入すればたちまちレッドオーシャンだ。とにかく強い影響力をもっている。「深井くんは零点のよだれマン」として全学年に知れ渡るだろう。零点はまだ笑いですむが、よだれマンはダサい。

この時点で残り3分。フーッフーッと息を吹きかけたりしながら必死の抵抗。答案用紙を乾かすが、この残り時間では絶望的なのはわかっていた。選択肢を考える。零点は確定。無傷で乗り切ることはできない。ならば、あとは、どう軽症におさえることができるか、という選択だ。

作戦1 「もう終わったので」とひとりで先に答案用紙を先生に渡し、休み時間に入る →先生に「おい、なんだこれ?」と驚かれてみんなにバレるだろう
作戦2  いっそ答案用紙を食べちゃう→ そっちのほうがヤバい人だ

このくらいしか思い浮かばない。寝起きの脳とはそんなものだ。どうせバレるなら、いっそ自白したほうが男らしいかもしれない。「先生、よだれがこんなにたれちゃいまして、ごめんなさい」と。ヒラヒラと全員に見せつけた方が、レジェンドかもしれない。みんな笑って、逆にさっぱり、ことは収束するかも。残り1分。いや、まだ諦めるのは早い。何か策があるはずだ。しかし…。

キンコンカンコーン。ついにチャイムが鳴る。「はい終わりー、集めろー」回収係高須さんが、立ち上がり、集め、近づいてくる。ぼくの心臓は波打ち、頭はフル回転だ。どうする。反射的に体が動いた。高須さんが集めてきた答案用紙の束。これを受け取り、「おれが持ってってやるよ」やさしく声をかけ、瞬時によだれ答案を束の間にすべりこませた。そして代わりに前の席の生徒のを回収し、教壇に提出。そのまま振り向かず「あー、腹減った。パン買いにいこうぜー」と悠々と教室を出てからガッツポーズ。完璧だったんじゃないか。やさしい男のふりをして、乗り切ったのだ。

あなたも一度はよだれの海に漂った経験があるだろう。どうやって乗り切ったのか、教えて欲しい。よだれまみれの答案をどう提出するかに、その人の未来が凝縮されている。ぼくは、いい人のふりをして乗り切った。ぼくがいい人のふりをしている時には、何か隠したいことがあるからかもしれない。関係者は気をつけよう。

後日談として。実はこのよだれ事件の一部始終は、クラス中にばれていた。よだれの海で呆然としていた姿も見られていた。バレてないと思ってたのは自分だけ。みんなからしたら、テスト中からニヤニヤ笑いを堪えて「深井がどうやって乗り切るか観察しようぜ」という観察対象だったのだ。一応、「なかなか紳士的な乗り切り方だった」という評は得られたが。

(約1718字)
Photo:Eke Miedaner


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。