【第126話】なぜ続く人は謝らないのか / 深井次郎エッセイ

「また新しい朝だ」

「また新しい朝だ」

謝罪する書き手は
自己嫌悪で筆が止まってしまう
ゆるくやさしく続けよう

 

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更新が遅れているのに、謝らない人がいます。そうです、ぼくのことです。この連載エッセイも「毎日更新」と言いつつも、しばしば日付をまわってしまうことがあります。それでもひと言も謝罪のことばはありません。今日はその理由をお話しします。

2003年から書きはじめて10年になります。今まで、いろんなブログやメールマガジンの書き手をみてきました。すると、更新が終わる前兆というのがあることに気づきます。「あ、このブログ、そろそろ終わるかも」というサイン。それは、謝罪と弁解が増えることです。更新があいてしまうと、「久しぶりの更新でごめんなさい」で書き出す人がいます。「いつぶりだろう、うわー、3ヶ月も更新しておりませんでした。これからはちゃんと書きます」そうやってハイテンションで謝罪するのです。ああ、苦しんでいるんだなと読者にもわかります。で、次の更新は6ヶ月後になり「ひゃー、すみません。こんなにあいてしまいました。実は仕事で忙しく…」と謝罪と弁解でその記事は埋まります。

謝罪する書き手は、人一倍マジメで自分を責めやすいタイプです。過去のバックナンバーをみると、タイトルや書き出しに「久しぶりですみません」が並んでいます。そしてそのうち完全に更新が止まります。すみませんとだれに謝っているのか。それは顔の見えない読者にではなく、自分自身に対して謝罪しているのです(もしくは企業ブログの場合は上司に対して)。「書くって決めたのに自分との約束が守れず、ごめんなさい。なんて自分はダメなヤツなんだ」

続けないと上達しません。続けるためには、自分を責めないことです。責めてしまうと肝心の書くエネルギーがなくなってしまいます。そして書くことが苦痛になる。苦痛の中で書いた文章は、読者に苦痛の波動を届けてしまいます。なぜか読むと気分が沈むのです。それではまた読みたいとは思いません。ゆるくいきましょう。謝罪などいりません。読者は有料で定期購読しているわけではありませんので。何事もなかったように、いきなり本題に入ればいいのです。

文章において、一番大事なのは、書き出しです。一行目が命です。そんな大事な一行目を、面白くもなく、だれもいい思いのしない謝罪ではじめてしまうのはもったいない。どうしても謝罪をしたいのなら、せめて文中か最後にしておきましょう。読者が読みたいのは、謝罪などではなく、面白くてためになる話です。

年に一度しか更新しなくても、10年続いているブログがあります。その人は、謝罪などありません。「久しぶり」「ご無沙汰」などとも言いません。「自分のペースで、好きにやらせていただきます」 そんな浮き沈みのない心持ちの人が長く続いているようです。そもそも書こうなどと思う時点で、その人はマジメな部類の人間です。それに繊細でもある。ただでさえマジメなのに、その上で自分を責めてしまったら、自己嫌悪にまとわりつかれて沈んでしまいます。思い通りにいかなくても自分を責めないこと。謝罪はいりません。もうすでに痛いほどひとりで反省をしているでしょうから。というわけで、何ごともなかったかのように淡々と、今日も明るい顔で書きはじめるのです。

 

(約1294字)

Photo: Ed Schipul


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。