【第093話】振り返る不安な顔に笑顔を返す

「ちょいと隣町まで行ってくる」

「ちょいと隣町まで行ってくる」

子どもは痛いのではなく
こわくて固まってるのだ

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小さな子どもが転ぶと、一瞬何が起こったのかわからなくて固まります。驚いた表情で、ハッと親や先生の方を確認する。そこで「あら大変! 大丈夫? 痛かったねぇ」大変そうに駆け寄ると子どもは泣きます。「全然そのくらい平気でしょう」と余裕な顔をして動じていないと、パンパンとはたいて、また何事もなかったようにテケテケテケと走り出す。この違いがあるということは、子どもは痛くて泣いてるというよりも、驚いて泣いてるんじゃないかな。そういう仮説が立てられます。

自分が小さい頃を思い返しても、そうでした。木から落ちて、足から血が出たことがあります。深くえぐれてたので、このレベルの傷は経験したことがことがなかったのでこわかった。痛さを感じるより、こわかった。これは絶対縫うレベルだなと思い、「縫うのは嫌だなぁ」と家に帰りました。「これ縫わないといけないかな」血がどくどく出てるのを母親に見せると「何このくらい全然。なめときゃ治るよ」。母親はすぐに夕飯の仕度に戻ったのです。この時に、そっか大丈夫なのかとすごく安心した記憶があります。安心して、また遊びに行きました。(今でも跡が残ってるくらいの傷でしたが)

自分の感覚だけでは、自分の状態がわかりません。大丈夫なのか、そうでないのか、客観的に信頼できる人に確認したいものです。大人になっても「人生終わった」と思えるような転倒をすることがあります。受験に全滅したとか、就活で全滅したとか、仕事で大失敗したとか、離婚したとか、会社をつぶして借金10億とか。経験したことのないケガはこわいものです。「痛い」よりも「こわい」のです。「新卒で就職できなかったら人生終わる」と思いつめてしまっている学生もいます。属しているコミュニティーが同質の人しかいないと「お前、やっちゃったね。かわいそうに。終わったな」と葬式のような雰囲気になります。同情はしてくれますが、前に進む元気は出てきません。

多様性のあるコミュニティーにいると、さまざまな境遇の人がいます。「そのくらいで騒いで何よ大げさな」と笑ってる母ちゃんみたいな人がいると、救われます。客観的に見たら、全然人生など終わりません。そういう意味で、失敗をたくさんくぐり抜けてきた長老の存在は貴重です。自己破産しても、人生全然終わらなかったよ、前と全然変わりなくやってると笑ってるような人。

仕事でも新人時代にはじめてつく上司というのは、その後の人生に大きな影響を与えるものです。「おい、お前なにやってんだ! 大変なことをしでかしてくれたな」こういうビクビクして小動物のように過剰反応する上司にあたると、自分も小動物のようになってしまいます。失敗の経験が積めないのです。すると未知の領域がこわくて挑戦できないし、後輩にも小動物的アドバイスをしてしまいます。小動物DNAは世代間で連鎖していくのです。ぼくは小動物な上司にはついたことがありません。「どんどん攻めてけ、失敗していいぞ」とはっぱをかけられていた。こっちがこわくなって、「え、新人にそこまで任せていいんすか? ギリギリじゃないすか」。そんなアイルトン•セナみたいな上司ばかりでした。F1で壁まで3センチ。間一髪でクラッシュを避けたセナにスタッフが駆け寄ります。

「セナさん、死ぬ気ですか! 壁まで3センチしかありませんでしたよ」
「OK、あと2センチ寄せられるね」
「まだ攻めるんすか!」

そんな毎日だったので、たった3年のサラリーマン生活でしたが、いい経験をつませてもらったし、勉強になりました。(ちなみにセナはレースで事故死してしまいました)

どこまでがリカバリーできる失敗か。また、どこからが致命傷になる失敗かのラインを体感として知っておくのが先輩の役割でしょう。それを知っている先輩は、「新卒で内定ひとつも獲れませんでした」くらいで「人生終わったね」とは言わないはずです。「大丈夫、余裕でしょう。だったら次はこういう手もあるよね」ニコニコと動じない長老の存在は、まわりをチャレンジングにさせます。いつかそういう存在になりたいな。そのためにいつも挑戦をして、たくさん経験値を積んでいきたいものです。

(約1736字)


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。