【第090話】集団の幸せが個人の幸せだ

「俺が水とってきますね」

「俺が水とってきますね」

ピンチの時に
なぜ人は英雄的行動を
とれるのか

———

「自由に生きる」というと、利己的な人物なイメージがあります。自分の心に正直に生きると、わがまま、自分勝手で嫌なやつになりそうです。けれどこれが、意外にそうでもないと思っています。

津波におそわれた直後の被災地は、なんの秩序もなくなりました。すべてが流されて、食べ物も着る物も十分にありません。ギリギリに追い込まれた状況でみたのは、仲間たちで分け合う姿でした。避難所でみんなで集まっているとき、食べ物が全然ない中で自分だけが非常食をたくさん持っていた。そういうときに、気前よくみんなで分け合う人がかなりの割合でいたようです。支援物資がいつ来るかわからない。自分が確実に生き延びるためには、だまって独り占めしたほうがいいはずです。それなのに、わざわざみんなに振る舞ってしまう。映画のヒーローのような行いを普通の人が、あたりまえに行っていました。

ピンチの時に、なぜ人は英雄的行動をとれるのでしょう。「それが自分にとって幸せだから」というのが本音なのかなと思っています。実はピンチは身近にある。わざわざ冒険にでなくても、普通に生きてても突如としてサバイバルな状況に置かれることはあるものです。大雪で閉じ込められることもあるし、自然災害や事故に遭遇することはありえる。電車のホームから転落した人を助けに飛び込んだ人もいる。いざ、自分がそこに居合わせたら、どう行動するかということを事前に想像しておかなければなぁと思う。

幸せというのは、どういう状態なのでしょう。たとえば、避難所でひとり満腹でいることが幸せとは思えません。もちろん自分自身が最低限満たされているのは当然の条件です。でもそれだけでは足りなくて、まわりの人も幸せであるのを見て、ああ幸せだと実感できるものではないでしょうか。まわりの10人が空腹で喘いでいる時に、みんなに見せびらかしながら1人で食べるチーズケーキがうまいわけがありません。もしかすると優越感は感じる人もいるかもしれませんが、幸せ感ではない。自分の取り分が10分の1に減ったとしても、みなさんも一緒にどうですかと振る舞う人がほとんどではないでしょうか。この例を考えても、まわりの犠牲の上に幸せは成り立たないことがわかります。自分が属するまわりの集団全体が幸せにならないと、個人の幸せはないといえそうです。

(約984字)

Photo: Peter Voerman


深井次郎

深井次郎

ORDINARY 発行人 / エッセイスト 1979年生。3年間の会社員生活を経て2005年独立。「自由の探求」がテーマのエッセイ本『ハッピーリセット』(大和書房)など著作は4冊、累計10万部。2009年自由大学創立に教授、ディレクターとして参画。法政大学dクラス創立者。文科省、観光庁の新規事業に携わる。2013年ORDINARY(オーディナリー)スタート。講義「自分の本をつくる方法」定期的に開講しています。